ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『もしかして捨てられる?』 出エジプト記19:1〜6、ヨハネによる福音書15:1〜11

礼拝メッセージ 2018年4月29日

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【ぶどうの木】

 イエス様といえば、多くのたとえ話を語ってきたことで有名です。新約聖書に出てくるマタイ、マルコ、ルカによる福音書には、いずれも多くのたとえ話が収められています。しかし、ヨハネによる福音書には、なんと2つしかたとえ話が出てきません。一つはイエス様と弟子たちとの関係を描いた「羊と良い羊飼い」のたとえ、もう一つは先ほど皆さんと聞いた「ぶどうの木」のたとえです。

 

 ぶどうの木、それは気候の適したイスラエルにおいても、非常に栽培に手間のかかる作物でした。農夫たちは土を掘り起こし、石を取り除き、土壌の流出を防いで段々畑を作りました。かたわらにはイチジクの木を植えて、ぶどうの木が巻きついて成長しやすいようにしました。手に塩をかけて作ったぶどうは、干しぶどうやぶどう酒に加工されて、多くの人に楽しまれました。ようするに、イスラエルの人々にとっては、自分たちが最も丁寧に世話をする作物だったわけです。

 

 そんなぶどうの木をたとえに使って、イエス様は弟子たちに言われます。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。イエス様の父とは、全てのものを造られた主、神様のことです。さらに、イエス様は弟子たちに向かって「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と語ります。イエス様が「あなたがた」と言った言葉には、弟子たちだけでなく、イエス様を信じる全ての者が含まれます。

 

 つまり、イエス様は神様と自分の関係を「農夫とぶどうの木」にたとえ、自分と弟子たち、ひいてはクリスチャンとの関係を「ぶどうの木と枝」にたとえたのです。しかし、ここでイエス様が「ぶどうの木」をチョイスしたのは、なかなか挑戦的なことでした。旧約聖書においても、ぶどうの木は神様を信じるイスラエルの民をたとえていましたが、イスラエルが繰り返し神様の教えに背いたため、だんだん批判的なたとえが語られるようになったのです。

 

 たとえば、800年前の預言者イザヤは、神様が「良いぶどうの木」として植えたイスラエルが、「酸っぱいぶどう」を実らせてしまったと非難しました。しばらく後の預言者エレミヤも、「甘いぶどう」を実らせるはずのイスラエルが、「悪い野ぶどう」に変わり果ててしまったと語ります。さらに、少し後の預言者エゼキエルは、もはや役に立たない「ぶどうの木」となったイスラエルは、燃える火の中に投げ込まれると預言します。そう、人々が「ぶどうの木」にたとえられるとき、それは手厳しい批判が続くときでした。

 

 それなのに、イエス様が再び「ぶどうの木」をもちだして、たとえを始めたのは、なかなか緊張感のあることです。しかもイエス様は、自分こそ「まことのぶどうの木」と言って始めます。おそらく、かつてイスラエルが「悪いぶどうの木」にたとえられたことを踏まえていたのでしょう。

 

 おっと……これは続きを聞くのが怖くなってきました。弟子たちも思ったはずです。「イエス様、いったい何をこれから語るつもりですか?」と……事実、ここからイエス様が話す内容は、私たちに不安と安心を交互にもたらしてきます。

 

【不安と安心】

 初めに聞かされたのは、やはり厳しい言葉でした。「わたしにつながっていながら実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」……「実を結ぶ」という表現は、現在でも色んな場面で使われます。ようするに努力の末、良い結果を得る、成果を得る、そんな意味に捉えられます。つまりここでは、実を結ばなければ、良い結果を得なければ、神様は私たちをイエス様から引き剥がして捨ててしまう……そんな血も涙もない話に聞こえてきます。

 

 ところが、5節では急に優しい言葉が語られます。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」……ついさっき「実を結ばなければ捨てられる」と厳しいことを言われたのに、今度は「イエス様につながってさえいれば、その人は豊かに実を結ぶ」と語られます。なんだ! 結局、イエス様から引き剥がされるようなことはないのか! 神様は私たちを捨てるようなことはなさらないのか!

 

 そう安心したのも束の間、6節で再び容赦ない言葉が語られます。「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる」……イエス様につながっていれば捨てられることはないけれども、つながっていなければ捨てられる。それどころか、「火に投げ入れられて焼かれる」とまで言われてしまいます……どうやら、イエス様は、私たちをただ安心させてはくれないようです。

 

【つながっているには?】

 もちろん、私たちは神様に捨てられたくありません。何とかしてイエス様につながっていたいと思います。では、どうすればいいと言うのでしょう? 10節にちゃんと書いてありました。「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」

 

 イエス様の掟を守る、そうすれば、イエス様につながっていられる。まったく単純な話ですが、イエス様が私たちに与えた、肝心の「掟」とは何だったでしょう? 先週の礼拝でも話しましたし、今日読んだ聖書箇所の直後、12節でもイエス様が教えていることです。それは非常にシンプルで、かつ、達成困難な掟でした。

 

 「互いに愛し合いなさい」……皆さん、今日私たちは互いに愛し合っているでしょうか? 直接聞くと恥ずかしくなってくる言葉、話している私自身も、思わず顔を隠したくなる言葉です。なぜって、愛し合うというのは、誰に対してもすぐできることではないですし、口にされただけで、すぐに信じられるものでもないからです。いえむしろ、口にすることすら、難しいですよね……ここにいる夫婦や親子関係にある人たちでも、いったい何人が「愛している」という言葉をお互いに交わせているでしょう?

 

 白状すれば、私だって家族に対し「愛している」なんて言葉、滅多に言いません。愛しているという気持ちは汲み取ってもらうもので、自分から表現しなくても感じてもらえるはず……そんな幻想に、というより、言い訳にすがって、今日も愛することをサボっているわけです。皆さんに対してもそうです。私は今日、皆さんのことを「愛している」と、一人一人に面と向かって言えません。「本当ですか?」「先生、私のことたいして知らないですよね?」そう言われるのが怖いですし、お互い似たようなものだと思います。

 

 険悪な関係でなくても、避けるような間柄でなくても、実は「愛し合う」という掟を実行するのは、なかなか難しいものです。むしろ、親密な関係であればあるほど、愛し合うことを続けるのは難しくなってきます。私も弟に対しては、けっこう酷い扱いをすることがあります。先週の母の誕生日も、まだ一緒に祝えていません。まあ、身内だから許してくれるだろうという甘えた気持ちになって、愛し合う関係から離れていく自分に、目を瞑ったりします。そんな私は今日、イエス様とつながっているのでしょうか?

 

 この教会も、私が知る中で最も穏やかな人たちが集まっていますが、しかし課題を抱えています。身内だから、ついつい甘えてしまいますが、多くの責任を、奉仕を、数人の人が担っています。そして、たぶんほとんどの人が、その負担を分け合うべきことを知っています。知っているけれど、自分がやるとは言い出せない……彼に、彼女に甘えたまま、互いに助け合う姿勢から離れた、愛し合う関係から離れた自分に、目を瞑っている。もちろん、私自身もそんな一部の人に甘えている一人です。身内の親しい人たちと助け合い、愛し合えていると言えるか、微妙なところです。

 

 牧師という立場である私でさえ、もしかして捨てられるのは、火に投げ入れられて焼かれるのは、自分かもしれないと不安になってきます。皆さんの中にも、今同じ気持ちを抱いた人がいるでしょう。では、二千年前、弟子たちはどうだったのでしょう? イエス様から直接この教えを聞いた弟子たちは、もちろんイエス様につながっていたはず……互いに愛し合い豊かな実を結んだはずです。ところが、聖書を見ていると、彼らはイエス様につながっているというより、イエス様から離れがちな姿を私たちに見せてくるのです。

 

【弟子たち】

 イエス様から選ばれた特別な12人……彼らは、初めてイエス様と出会ったとき、確かにすぐついてきました。漁師をしていた者は網と船を捨て、徴税人いわゆる役所勤めをしていた者は仕事を投げ出して、驚くほどあっさりイエス様に従ってきます。これこそ、信仰者の鏡! と言いたくなりますが、彼らは度々、自分たちの見返りをイエス様に求めます。「全てを捨ててついてきた私たちは、いったい何をもらえるのでしょうか?」

 

 後々、弟子の中のある兄弟は、イエス様に自分たちを特別な地位にしてくれと頼みます。また別の弟子は、この中の誰が一番偉いかを議論します。そして何度も、弟子同士で喧嘩を始めます。さらに、イエス様が言うことに同意できず、否定したり、制止したりもします。挙げ句の果てに、ある者はイエス様を裏切り、他の者たちはイエス様を見捨て、隠れながら最後までついてきた者さえ、自分の身が危うくなると「俺は仲間じゃない!」と言い出す始末……さて、彼らは互いに愛し合い、イエス様につながっていたのでしょうか?

 

 誰よりも、弟子たち本人が分かっていたと思います。我々は、正直イエス様につながっていなかった……何度も離れ、背き、逃げてしまった。本来なら、実を結ばない枝のごとく取り除かれ、集められ、火に投げ入れられて焼かれる存在だったと。しかし、彼らは、イエス様から離れた後、もうつながらないままだったのでしょうか? そのまま捨てられてしまったのでしょうか? 

 

 違いました。私たちは去る4月1日、イースターの日に聞きました。死によってつながりを絶たれたはずの弟子たちに、復活したイエス様が会いに来てくださったことを。「お前たちはわたしにつながらなかった」「実を結ばなかった」そう非難して裁きをもたらすはずの方が、「あなたがたに平和があるように」と言われたことを。「聖霊を受けなさい」と言って、再び自分につながるよう命じたことを……。

 

 実は、「私につながっていなさい」と訳されている言葉は、原文を直訳すると「私に留まっていなさい」となります。ちょっとニュアンスが違いますよね。私たちは最初「つながっていなさい」と聞いたとき、自分の手でイエス様の手を握って、離さないようにしているところを想像しました。ズンズン進んでいくイエス様の手を、必死に握ってついていく……しかし今、「留まっていなさい」と言われているのを知ったとき、新しいイメージが浮かびます。

 

 それは、手を握っていないとイエス様が先に行ってしまうのではなく、むしろ私がどこかへ行ってしまわないように、イエス様が私を掴んでいるイメージ……「ここに留まっていなさい」と、抱きしめて語りかけるイメージ……事実、イエス様が弟子たちとつながったとき、必ず、近づいてきたのはイエス様の方からでした。

 

 弟子たちの方から「あなたに従わせてください」と来たことはありません。いつも、イエス様の方から「わたしに従いなさい」と近づきました。イエス様が復活したときも、弟子たちの方から仲直りをしたわけではありません。イエス様の方から、自分を見捨てた彼らに近づき、語りかけてくださったのです。

 

 私たちは、自分からイエス様とつながりに行くのではありません。イエス様の方が、私たちとつながってくださるのです。そもそも、イエス様は弟子たちにこう言っていました。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」……イエス様の言葉をほとんど理解していなかった弟子たちが、実は、既に清くなっていた。イエス様とつながっていた。彼らは後に、この言葉を思い出して互いに愛し合う者へと変わっていきます。

 

 あの反目し合っていた弟子同士が、互いのために祈り、出かけて行って、イエス様がなさったこと、教えたことを宣べ伝えていった。自分たちを迫害する人たちのためにさえ祈り、語るのを止めなかった。繰り返し感謝を述べ、愛という言葉をためらいなく語り続けた。誰が一番偉いか議論していた頃とは打って変わって、彼らは身内にも、初めて会う者にも、丁寧に接していきます。互いに助け合って、負担を分け合って、生きていきます。

 

 私たちにも、聖書を通して、イエス様の言葉がかけられています。「あなたも、わたしの話した言葉によって、すでに清くなっている」「すでに、わたしとつながっている」「わたしに留まっていなさい」と……イエス様から離れた、イエス様に背いた、そのことを私たちが自覚し、悔いるとき、既にイエス様は私たちの背後にいて、「わたしに留まっていなさい」そう語りかけているのです。

 

【聖餐式において】

 来週の日曜日、この教会では聖餐式が行われます。聖餐式は、神様を信じますと告白した人が、信仰者であり続けるための式です。言わば、イエス様とつながり続けるための式……華陽教会はメソジストという教派に属す教会ですが、このメソジストの創始者であるジョン・ウェスレーは、かつてこう言いました。

 

 「不信仰の者は祈り、聖餐を受けるべきでしょうか? その通りです。求めなさい、そうすれば与えられます。もしあなたが、キリストが罪深い助けようのない信仰者のために亡くなられたことを知っているなら、パンを食し、杯から飲みなさい」。

 

 私たちは聖餐式の度に、イエス様に「つなぎ合わされる」体験をします。十字架にかけられる前夜、これから自分を見捨てる弟子たちとつながり続けるために、パンを割き、ぶどう酒を注いでくれたイエス様。エマオの途上で、一緒にいるのが復活したイエス様だと気づけなかった弟子たちに、自分とのつながりを思い出させるため、パンを割いてくれたイエス様。

 

「わたしにつながっていなさい」と語る主イエスは、本来捨てられるはずの人々を、枯れてしまうはずの存在を、火に投げ入れられるはずの私たちを、そのままにはされません。自らまた、つながりに来てくださいます。今日私たちは、イエス様につながっていられるでしょうか? 互いに愛し合うことができるでしょうか? 

 

 できるのです。どこまでも、どこまでも、つながりにきてくださるイエス様が、今日も私たちの前に現れたから。「わたしに気づきなさい」「わたしにつながっていなさい」と、パンを割き、ぶどう酒を注ぐ用意をされているから。そして、繰り返し「聖なる国民」「祭司の王国」の民として、宣言してくださるから。

 

 来週も、ここで皆さんと会いましょう。共に聖餐を受け、イエス様につながりましょう。信仰を告白する前の人、礼拝に来ることができない人たちのためにも、私たちはつながり合いましょう。相手のために祈りましょう。神様の祝福を願いましょう。イエス様が弟子たちを、私たちを深く、深く、愛されたように、私たちも互いに愛し合いましょう。