ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『二枚舌どころじゃない』 申命記6:4〜9、使徒言行録2:1〜16

礼拝メッセージ 2018年5月20日

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【奇妙な現象】

 皆さん、おめでとうございます。今日はペンテコステです。弟子たちがイエス様から聖霊を送られて、キリスト教の宣教が始まった日、教会の誕生日とも呼ばれる記念日です。いつもと違う讃美歌を、いつもと違うやり方で歌いました。普段から礼拝に来ている方々は、「今日は何か特別な日のようだ」と気づいたでしょう。

 

 そうなのです、今日は特別な日です。久しぶりに礼拝に来た方、初めて教会へ来た方が、赤いスカーフを振って歌う讃美歌に面食らい、戸惑われたように、この日エルサレムに集まっていたユダヤ人たちも、弟子たちを見て驚かされ、怪しんだのです。たった今読んだ聖書箇所にも、先ほど歌った子ども讃美歌にも、その時の様子が描かれていました。

 

 復活したイエス様が天に昇った後、残された弟子たちは、エルサレムの家で集まっていました。これからどうしたらいいか、何をするべきか考えながら、神様に祈っていたのでしょう。すると突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らの座っていた家中に響き渡ります。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、弟子たち一人一人の上に留まりました。

 

 どうやら、イエス様の約束していた聖霊が届いたようです。弟子たちはその瞬間、いきなり他の国々の言葉で話し始めます。外国語の苦手な私には、何とも羨ましい話です。弟子たちの大半は、もともとガリラヤの村で漁師をしていました。教養なんて期待できない、外国語を習えるはずもない人たち、そんな彼らがバラバラの言葉を話し始めたのですから、スピードラーニングの講師だってびっくりです。

 

 弟子たちは新しく力を受けて、勢いよく神様の言葉を伝え始めました。エルサレムに住んでいた外国出身の人たちにも分かる言葉で。しかし冷静に考えると、何とも奇妙でおかしな話です。弟子たちは12人しかいないのに、彼らが話し始めたのはそれ以上の種類・地域の言葉でした。数えてみると実に15種類、あるいはそれより多いとも考えられます。

 

 しかも、これらの人々は皆、だいたい共通語としてギリシャ語が話せました。単に、弟子たちの語ることを伝えるだけなら、わざわざこれだけ多くの外国語を話す必要はなかったのです。

 

 また、イエス様から送られた聖霊が、「炎のような舌」として弟子たちに与えられたのも変な話です。旧約聖書において、神の霊は度々、風や炎、雲や雷として現れました。ですが、ここに来てなぜか、「炎」ではなく「炎のような舌」として現れます。なぜ「舌」なのでしょう? 炎を纏っているだけなら、魔法使いやヒーローのようにかっこよく見えたのに、なんでちょっと微妙な感じに見える形で聖霊が現れたのでしょう?

 このヘンテコな出来事はいったい何を表しているのでしょうか?

 

【外に出ない弟子たち】

 さて、弟子たちはいきなり外国語を話し始めたわけですから、当然、「炎のような舌」も、彼らの語る「言葉」に関係していることが分かります。私たちの感覚では、言葉を語るのは「口」というイメージですが、聖書においては「舌」が言葉を語るという理解でした。同時に、舌は罪を犯しやすい器官として注意を払うよう促されています。

 

 ヤコブの手紙3章5節には「舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう」と警告されています。最近のSNSなどによる炎上騒ぎを彷彿とさせる言葉ですが、イエス様を信じていた弟子たちも、まさに自分たちの舌でイエス様を裏切り、炎上してもおかしくない事件を起こしました。

 

 ペトロは、イエス様のことを「神からのメシアです」と告白したその口で、「わたしはあの人を知らない」と切り捨てました。「ご一緒になら、牢に入っても、死んでもよいと覚悟しております」と言ったにもかかわらず、最後までイエス様についていくことはできず、見捨ててしまいました。彼はイエス様が捕らえられた夜、勇ましい男から怯えた子どものようになりました。

 

 群衆たちは、エルサレムに入っていくイエス様を賛美したその口で、「その男を殺せ!」と叫びました。「主の名によって来られる方、王に祝福があるように」と歓迎していたにもかかわらず、イエス様が逮捕されると一変し、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました。彼らは、イエス様が訴えられた朝、手のひらを返すように敵となりました。

 

 イエス様の周りにいた人々は、イエス様が捕らえられる前と後で、明らかに食い違う発言をしていました。二枚舌どころの話ではありません。彼らはイエス様を信じ、愛していると言ったその口で、二度も三度もイエス様を否定し、侮辱してしまったのです。弟子たちはその罪の重さから、あまりの失敗から、再び口を開くのを恐れていたでしょう。

 

 彼らは復活したイエス様が天に昇っていなくなった後、エルサレムに帰り、泊まっていた家の中に閉じこもります。ルカによる福音書では、最初、彼らは絶えず神殿の境内にいて、神様を賛美していたと書かれていました。しかし、弟子たちは間もなく家の中に閉じこもり、神殿にも行かず、会堂にも行かず、ひたすら祈って過ごすようになります。

 

 冷静に考えれば、イエス様が地上からいなくなった今、自分たちがイエス様の復活や教えを宣べ伝えても、信じる者は誰もいないように思えたのです。なぜなら、それを証言する自分たちこそ、かつてこのエルサレムで「私はイエス様と何の関わりもない」と切り捨てた本人だったのですから。彼らは家の中から出てきません。イエス様が復活する前の状態、ユダヤ人を恐れて外へ出られなくなった、あの時の様子に逆戻りします。

 

【口を開く弟子たち】

 余談ですが、日本語で「舌」という漢字は、口から外にベロが出ている様子を表しています。家から外に出られなくなった弟子たちは、まさに舌がないのも同然の状態でした。あの時イエス様を否定した自分が、どうして外に出られようか? あの時イエス様を見捨てたのに、どうして説得力のある言葉を話せるだろうか?

 

 考えれば考えるほど、彼らの口は開かなくなり、沈黙が支配してしまいます。そんなとき、沈黙を打ち破る大きな音が響いてきました。激しい風が家を揺るがし、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、弟子たち一人一人の上に留まります。言葉を失っていた弟子たちに、新たな舌が与えられたのです。

 

 外にいた人々は大きな物音に驚いて、次々とこの家に集まってきます。その時にはもう、弟子たちは家の外に出て、人々の前でバラバラの言葉を語っていました。パルティア、メディア、エラム……アジア、フリギア、パンフィリア……あらゆる国の言語、あらゆる地域の方言が話されているのを聞いて、エルサレムに住んでいた信心深いユダヤ人たちは、あっけにとられます。長らく耳にしていなかった、自分たちの出身地の言葉を語っていたからです。

 

 ちなみに、この時集まって来た多くの人々は、生まれた頃からエルサレムに住んでいた人たちではなく、もともとは違う国に住んでいた外国出身のユダヤ人たちでした。彼らは、イスラエルがバビロニアに征服されたとき、外国に連れて行かれたユダヤ人の子孫であったり、親の代から外国で仕事をしていたユダヤ人であったり、様々な理由で世界各国に散らばっていた、いわゆるディアスポラの民でした。

 

 彼らは、イスラエルを離れ、新しい環境に順応し、母国語のヘブライ語やアラム語を話せなくなっていましたが、神様への信仰は失っていませんでした。そして、それぞれの国でシナゴーグという会堂を建て、毎週礼拝をささげていました。しかし、いつか本当にきちんとした礼拝を守るため、エルサレムに帰りたいと願い、こつこつと準備をしていました。そうして、もともと住んでいた外国から、エルサレムに移り住んできたのが彼らだったのです。

 

 当時はイスラエルでも、東の国々で使われていたアラム語と、西の国々で使われていたギリシャ語が共通語として話されていました。そのため、外国出身のユダヤ人でも、何とか言葉は通じました。しかし、何代にもわたって外国で暮らしてきた彼らにとって、母国語として馴染みがあるのは、アラム語やギリシャ語ではなく、やはり出身地の言葉でした。

 

 懐かしい自分たちの言葉で語られる弟子たちの話を聞き、人々は耳を傾けます。これまで、弟子たちがイエス様のことを語っても、彼らには「神を侮辱する言葉」にしか聞こえませんでした。ユダヤ教の指導者が教えているのと正反対の言葉、自分たちの耳に慣れ親しんだ教えとは全く違うもの、それゆえに、容易に受け入れることはできませんでした。

 

 しかし、今や弟子たちは、アラム語ではなく、聴いている人たちの立場に立って、それぞれの言葉で語り始めます。人々は、弟子たちの話が「神への侮辱」ではなく、「神の偉大な業」を褒め称えるものだと気づきます。12人しかいない弟子たちの口から、それ以上の種類・地域の言葉が彼らの耳に入りました。

 

 それは、イエス様の送られた聖霊が、語っている弟子たちだけでなく、聴いている人たちの耳にも働いたからでしょう。先ほどメッセージの前に、私たちはみんなで、赤いスカーフを振りながら、子ども讃美歌の42番を歌いました。普段、主日礼拝では歌われない讃美歌、大人よりも子どもたちの立場に立った讃美歌です。

 

 しかし、子どもたちだけでなく、我々大人の心にも、この讃美歌は弟子たちに聖霊が与えられたときの様子を綺麗に映し出してきます。毎週行なっている礼拝と違って、少し戸惑いを覚えながらも、讃美歌の歌詞が、心に染み込んできたのではないでしょうか。

 

 かつて、ユダヤ人はモーセを通して、石版に記された神の言葉、律法を与えられました。五旬祭は、そのことを記念する祝祭日でもありました。ユダヤ人たちは、律法として与えられた神の言葉を、あらゆる所に書き記して、覚えておくよう命じられましたが、今や石版ではなく、人々の心に神様の言葉が刻まれます。

 

 イエス様が弟子たちに約束され、送ってくださった聖霊は、二千年の時を超え、現代の私たちにも神様の言葉を、教えを、刻みつけるのです。

 

【聖餐式】

 さて、メッセージの間、黙って牧師の話を聞いていた皆さんが、いよいよ口を開くときが近づいてきました。私たちはこの後、聖餐式でパンとぶどう酒をいただくため、今まで閉じていた口を開きます。思い返せば、メッセージが終わった後、礼拝が終わった後も、私たちはイエス様のこと、神様のことについて、あまり口を開いてきませんでした。

 

 職場で、家庭で、学校で、おそらくほとんどの人は、聖書の話をすることはないでしょう。イエス様の話を誰かにすることはないでしょう。家族に、友人に、知り合いに、聖書の話を、イエス様のことを、どうやって話したらいいか分からないのです。口を閉じてしまうのです。何か大きな失敗をするのではないかと恐れてしまうのです。かつて、弟子たちが家に閉じこもって、舌がないのも同然だった時のように……。

 

 かく言う私も、一度教会の外へ出れば、イエス様の話をする機会なんて滅多にありません。気持ち悪いと思われるのが、警戒されるのが怖いからです。毎週水曜日、祈祷会が始まるまでの30分、教会玄関の前で通り行く人に挨拶するだけでドキドキです。

 

 ただ、「こんにちは」としか言っていないのに、来週から自分を警戒して、ここを通る人がいなくなってしまったらどうしようと不安になります。私も外に出ないで、教会の中に閉じこもって、舌を動かさないでいたくなります。

 

 しかし、ここに集まっている人のうち何人かは、そうやって恐れながらも勇気を出して口を開いた人のおかげで、教会に来ることのできた人たちです。学校の友人から誘われて、大学の教師から教えてもらって、職場の同僚がクリスチャンだと聞いて、家族から聖書に書いてあることを聞いて……少しずつ、少しずつ教会に人が集まってきました。

 

 戸惑いながら来た人もいたでしょう。弟子たちが語り始めた時も、はじめは皆驚いて、戸惑いながら集まってきたのです。私たちも驚かされ、あるいはこちらが戸惑わせながら、みんなでここに集まっています。確かに、イエス様は私たちに舌を与え、耳を開いて、教会へと集めているのです。

 

 今、私たちはキリスト者であり続けるために、イエス様のことを伝え続けるために、聖餐に与り、力を受けようとしています。沈黙を打ち破る激しい風を、炎のような舌を、私たちは受けようとしています。そして、同じ場所で、信仰を告白していない人たちにも、その恵みが伝わるように、祝福が受けられるように、祈りを合わせようとしています。

 

 この後、華陽教会から出て行く私たちに、誰かがこう言ってきます。「二千年前のイエスという男をなぜ信じるのか?」「見えもしない神がいるとなぜ信じるのか?」「新しい酒にでも酔っているんじゃないか?」……皆さんはその時、なんと答えるでしょうか? 

 

「いいえ、どうか私たちをよく見てください。酒に酔っているわけではありません。聖餐式で使っているのはぶどう酒ではなくぶどうジュースですから。嘘だと思うなら、どうぞ私たちの教会に来てください。日曜日、私があなたを案内しましょう」

 

 さあ、私たちも閉じていた口を開きましょう。聖霊を受けて、聴く人の立場に立って、神様の業を伝えていきましょう。私たちはもう、舌を失った人間ではないのです。