ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『私が神の子なわけないでしょう?』 マルコによる福音書1:9〜11、ローマの信徒への手紙8:12〜17

礼拝メッセージ 2018年5月27日

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【神の子とする霊】

「あなたがたは、神の子とする霊を受けたのです」……これは、パウロからローマの信徒たちへ宛てられた手紙に出てくる言葉です。神様を信じている人、洗礼を受けた人、イエス様を礼拝している人たちに向けて言われた言葉。いわば、今ここで教会に集まっている私たちにも向けられた言葉です。つまり、他人事ではありません。皆さんも「神の子とする霊を受けた」と言われているのです。

 

 いつの間に、皆さんが神の子とする霊を受けたのか、残念ながら私は知りません。そんな霊を受けた覚えなんてない! という人もいるでしょう。私自身、「あなたはいつ、その霊を受けましたか?」と問われれば、答えることができません。振り返れば、あの時かな? と思う部分がないわけではありませんが、はっきり言って分かりません。

 

 先週、私たちはペンテコステの礼拝で、復活して天に昇ったイエス様から、弟子たちが聖霊を受けた出来事を聞きました。家の中に閉じこもっていた彼らに、突然、激しい風が吹いてきて、炎のような舌が現れ、一人一人の上に留まった。それくらい分かりやすく聖霊が降りてくれば、私たちも自分が「神の子」とされた瞬間を自覚しやすいでしょう。しかし、そんな出来事は、ここ2000年近く誰も体験していません。

 

 パウロが手紙を書き送った相手、ローマの教会にいる人たちにも、私たちと似たような平凡な信徒が含まれていたでしょう。確かに、ローマ教会には、聖霊を受けた自覚のある人、病を癒す力や悪霊を追い出す力といった、特別な賜物を受ける人も、中にはいました。しかし、大半は違ったはずです。聖霊を受けて、急に外国語が話せるようになった弟子たちや、イエス様の幻と出会ったパウロほど、劇的な経験をしていない人たち。

 

 みんながみんな、自分に働きかける霊の力を、はっきりと感じたわけではないのです。だからこそ、パウロは思い切って宣言します。「あなたがたは神の子とする霊を受けたのです」……手紙を読んだ多くの人たちが驚きます。いやいや、こんな平凡で誘惑に負けやすく、教会に来て日も浅い自分のような人間が、「神の子」なわけないでしょう? そんな霊を受けた覚えなんてありません……と。

 

【養子とされる】

 「神の子とする霊」、これをもっと原文に忠実に訳すと、「神の養子として採用する霊」となります。あなたは神の養子として採用される。皆さんはそう聞かされて、どう感じるでしょう? 嬉しくて、嬉しくてたまらないでしょうか? それとも、ちょっと遠慮したくなるでしょうか? 

 

 最近ではだいぶ聞かなくなったかもしれませんが、「○○家の人間として恥じないように」という言葉があります。文字通り、その家で生まれた子であっても、養子として招かれた子であっても、「誰々の子」という記号は一定のプレッシャーを与えてきます。特に、その親が立派であればあるほど、自然と子どもも、それにふさわしい言動を求められます。

 

 親が別段「あなたは私の子なのだから」なんて言わなくても、周りの目が、周りの言葉が、その子に「ふさわしい在り方」を求めます。至る所で、特定の子に対するこんな呟きを聞くことができるでしょう。警察の子なのに信号無視するの? 教師の子なのに勉強がんばらないの? スポーツ選手の子なのに外で遊ばないの? そして、牧師の子なのに教会行かないの……?

 

 余計なお世話と言いたくなりますが、私たちは自分が誰の子であるかによって、しばしば人生に介入を受け、人格や行動に影響を及ぼされます。そう、これは私たちにとって、けっこう重要で厄介な事柄です。よくも悪くも、「誰の子」として見られるかは、私たちにどう生きるかを方向づけてきます。

 

 では、聖霊を受けて「神の子」とされることは、私たちにとって喜ばしいことでしょうか? 自分が神の子として見られる……そこには警察や教師の子に期待される「正しさ」とは、非にならない圧力があるかもしれません。私も牧師の子ですから、それなりに周りからのプレッシャーを感じて生きてきました。牧師の子なら真面目に説教聞いているよね? 優しくて思いやりがあって素直な子になるよね?……そんな期待を自然に受けてしまうわけです。

 

 信徒の方々もそうですよね。クリスチャンなら親と子の関係は良好で、喧嘩は少ないに違いない……嘘や悪口は言わず、人の嫌がることを率先して行い、品行方正な生活をしているだろう……今、苦笑いをされた方もいましたが、そういった期待、あるいは圧力を受けるのが嫌で、自分がクリスチャンであることを、なるべく外に明かさない人も多いと思います。

 

 神の子として見られることは、そういった期待による人生の介入を真正面から受けてしまうことになるでしょう。何せ、神の子ですから。聖なる者、清い者、正しい者、寛容な者……私たちが神の子とされたとき、期待される人物像を挙げるとキリがありません。ただの人間として歩む方がよっぽど気楽に感じます。

 

【死んでしまうこと】

 実際、先ほど読んだ手紙の箇所は、私たちがそんなに好まないこと、「わたしたちには一つの義務がある」という言葉で始まっていました。しかも、その義務は、どうやら簡単に果たせる義務ではありません。なぜなら、こう続いているからです。「それは肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」

 

 たいへんシビアな言葉です。肉欲を断つ禁欲主義的な生活が勧められているのでしょうか? 13節には「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」と出てきました。「仕業」と訳されている単語は、本来「行為」という言葉です。肉による行為、体の行為を止めたらどうなるか? 食べる、寝る、着る……それこそ、止めれば死んでしまいます。

 

 パウロは、クリスチャンにふさわしい節制を求めているのだと解釈する人もいます。体の行為には「良い行為」と「悪い行為」があって、悪い行為を止めなさいと命じているのだと……しかし、ここでは単に「体の行為そのものを止めてしまえ」と言われているだけです。ほとんど、死になさいと言われているようなものです。

 

 もう、お分かりですね? 「神の子とされる」「神の養子として採用される」ということは、まさに一旦死んでしまうことなのです。教会の一員になる「洗礼」という儀式が、まさにそうでした。水の中に体を沈め、溺れさせられる。冷たい水を頭からかけられ、冷やっとした感触に息が止まる。

 

 キリスト者のスタートは、そもそも不安と危険に満ちた旅の始まりでした。信仰を持ったからと言って、何者をも恐れない確固たる精神が与えられるわけではありません。イエス様を信じて歩めば、危険を回避できるわけでもありません。むしろ、実際にはかえって危険が増すのです。

 

 ウィリアム・ウィリモンの言葉を借りるなら、キリスト者とは、命の危険をもたらす水の岸辺を歩いている人たちです。ニネベに行くのを拒んで海に投げ込まれ、魚に呑み込まれてしまったヨナ、ガリラヤ湖で嵐の中イエス様に助けを求めた弟子たち、囚人として船で移送される途中、暴風に遭って転覆しかけたパウロ……聖書を読んでいれば、否応なしに気がつきます。神様を信じ、イエス様の弟子となった人たちが、いかに多くの危険に晒されていったか!

 

【霊に導かれる】

 いっそ、神の子とする霊なんて受けない方が、私たちは安全かもしれません。私たちは謙遜から、あるいは、自分が弟子たちのように危険な目に遭うのを恐れて、私が『神の子』なわけないでしょう? と言いたくなります。そんな中、パウロは14節でこう言ってきます。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」

 

 これを聞いて何人かの人は、どこかで少しホッとしながら、やっぱり私なんかが『神の子』なわけないと思うでしょう。自分が神の霊に導かれているなら、今ほど誘惑にわずらわされることも、苦しみにひるむこともないはずだと。神の霊に導かれているなら、清く、正しく、堂々と生きることができたはずだと。

 

 しかし、実際のところ、聖霊を受けて「神の子」とされた者が、誘惑を受けない話なんてないのです。むしろ、「神の子」とされた人こそ、小さくされ、弱くされ、誘惑に悩まされました。最初に読んだマルコによる福音書の冒頭を思い出しましょう。正真正銘、神の子であったイエス様が、洗礼を受けた直後、霊に導かれてどこへ送り出されたか……それは、サタンの誘惑が待つ、荒れ野という場所でした。

 

 飢えと渇きと砂嵐が待っている所、それこそ、肉に従っているなら、体の行為を大事にするなら、生命の危険を感じて訪れないはずの場所です。イエス様は、自分を「愛する子」と宣言された神の霊に連れられて、サタンの前に引き出されました。霊に導かれて、安全なエルサレムから離れ、危険な荒れ野で40日間も誘惑を受けました。

 

 神の子とされた者は、同じように長期間、多くの誘惑や苦しみ、悩みや葛藤を受けるのです。実は、小さく、弱く、誘惑に悩まされているあなたこそ、今「神の子とする霊」を受けている者なのです。

 

【神様を父と呼ぶ】

 思っていたのと違うかもしれません。もっと精神的に強く、安定した心で、より情熱を持てたときにこそ、自分が神の子とされたのを確信できるはずだったのに……いったい、何によって私たちは、自分が神の子とされたのを知ることができるのでしょう? パウロは、それを非常にシンプルな言葉で伝えています。

 

「この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶことができるのです」……神様のことを「父」と呼ぶことができる。それこそ、私たちが神の子とされたしるしなのだと。なんて素朴で、さりげない、目立たないしるしでしょうか? 私たちは礼拝で主の祈りを祈るとき、毎週神様に向かって「天の父よ」と呼びかけます。平日もそう祈っている人が多いでしょう。

 

 神様に向かって、最初に「アッバ、父よ」と呼びかけたのはイエス様でした。「アッバ」というのは、もともとアラム語で「パパ」とか「お父ちゃん」とかいう言葉です。そう、子どもが父親を呼ぶときの言い方。小さく、弱く、無防備な者として、神様に呼びかける、これこそが、私たちを神の子とする霊の働きです。

 

 「霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」という一見不可解な言葉、矛盾した言葉はこういう意味でした。神様の前に、子どものように無防備な者となって信頼するなら、あなたがたは生きると……神の子とする霊を受けた人、それは決して、この世の中で成功していく人間ではありません。どんな苦しみにも耐えられる英雄でもありません。誘惑をものともしない汚れなき人間でもありません。

 

 神の子とされたのは、あなたです。周りが気にしないことに傷ついているあなた、小さなことでつまずいているあなた、問題を克服できずにいるあなたです。もう自分の強さなんて、正しさなんて、どこにあるのか分からなくなっている、「パパ、ママ、助けて!」と虚空に向かって叫ぶときの無防備なあなたです。

 

【共同の相続人】

 パウロは何とも不思議な言葉を残しました。神の子とされた者は、「キリストと共同の相続人」なのだと……そして、「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける」と。今、ここにいる多くの人は、自分が神の子とする霊を受けたと聞いても、正直、何が変わったのか分からないでしょう。

 

 未だ、私たちは多くの誘惑にわずらわされ、悩みや葛藤から解放されずに日々を過ごしています。劇的に精神が強くなったわけでも、一気に心が穏やかになったわけでもありません。少々成長したとしても、新たな困難を前に再び弱くなり、くじけることも出てきます。繰り返し、私たちは挫折を経験します。

 

 そう、私たちは以前と変わらず、世の中に苦しめられている奴隷のように感じます。しかし、神様に「父よ」と呼びかけるようになった私たちは、キリストと共同の相続人です。パウロは、子と奴隷の対比について、ガラテヤの信徒への手紙でこう記しています。「子どもは、父親が定めた期日までは、後見人や管理人の監督の下にいて、未成年である間は、全財産の所有者であっても、僕と何ら変わるところがない」

 

 時が来るまで、私たちは世の中に縛られた奴隷と変わりがないように思えるかもしれません。しかし、私たちが神の養子として採用されていることを思い出すとき、苦しみはただの苦しみではありません。やがて受ける栄光を思い出すしるしとなります。思い返せば、イエス様もひたすら苦しみを受けました。紛れもなく神の子であったのに、罪人として十字架につけられ、最も重い罰を受けました。

 

 しかし、私たちのために十字架にかかったイエス様は、神様によって死から甦るという栄光を受けます。死によって隔てられ、和解することができなかったはずの人たちと和解します。神の子として歩んでいく中で受けてきた苦しみは、やがて栄光に変えられていったのです。子どものように無防備な姿となって、裸で十字架につけられて、「父よ!」と叫んで亡くなっていったイエス様は、全ての人に永遠の命を与える王となりました。

 

 私たちも、神の子として歩もうとし、自分の弱さを覚えるとき、神の子として無防備にされ「父よ」と叫ぶとき、この王から受けている永遠の命を思い出すのです。誘惑を受けながら、苦しみを受けながら、弱さを噛み締めながら、神様と共に生きていることを思い出すのです。

 

【キリスト者の旅立ち】

 神様は、愚かな人間の私たちに、どこまでも期待してくれています。私たちが抱える弱さも問題も知りながら、ご自分の養子となることを望んでくださいます。そして、私たちはこの世にいる間も変えられていきます。不可能を可能とする神様に頼って、死ぬはずの体を生かしてくれる神様に導かれて、サタンのいる荒れ野へ、嵐の吹く湖へ、暴風で荒れる海の中へ、漕ぎ出していくのです。

 

 さて、皆さんは神の子とされました。サタンとの対決が控える荒れ野の中へ導かれました。変化と改革の嵐の中に呼び出されました。神の子として皆さんに用意されている道は、安心と安定からは程遠い道かもしれません。正直このメッセージを話している私も、自分に何が待ち構えているのか、どこへ連れていかれるのか不安なのです。

 

 しかし、私たちはあらゆる人にその道を進ませてきた、誰よりも頼りになる方を知っています。私たちが子どものように親しく呼びかけられる方です。裸であろうが、泣き叫んでいようが、気にせずに「助けて」と呼べる方です。そして、この方は予想もしない形で、私たちに必要な変化をもたらします。共に、この方へ祈りを合わせて、新しい一週間を歩んでいきましょう。