ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『死体にくっつけられる』 列王記下4:18〜37

聖書研究祈祷会 2018年4月4日

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【神様と異邦人の関係】

 先日の日曜日、私たちはイエス様が復活した日を記念するイースターを迎えました。イエス様は全ての人を死から解放し、永遠の命を受けることができるように、この世へやって来てくださいました。そして自ら十字架にかかって死に、三日目に復活して、死の力に勝利してくださったのです。イエス様は、ご自分が十字架につけられる前にも、何人かの人を死から甦らせていました。

 

 実は旧約聖書にも、預言者と呼ばれる人たちが死んだ人を生き返らせた出来事が出てきます。今読んだところにも、エリシャという預言者がシュネムに住む女性の息子を生き返らせたことが書かれていました。シュネムの女性……彼女は少し前の4章6節から出てきます。シュネムという土地は、かつてペリシテ人がサウルの軍勢を破る以前に陣を敷いていた場所です。

 

 そこを通りかかった預言者エリシャに、彼女は様々な親切をしてくれます。初めて会ったときから、エリシャが何か特別な人だと感じていたのでしょうか。彼女はエリシャが自分の家の前を通る度に食事を提供し、しばらくすると、彼が来たとき滞在できる部屋まで作ってくれたのです。どうやら、相当裕福な女性のようでした。エリシャのことを「聖なる神の人」と呼び、最高のもてなしをしてくれます。エリシャを遣わした神様こそが、本当の神様だと直感的に感じていたのかもしれません。

 

 イスラエルでは、エリヤ・エリシャをはじめとして、多くの預言者が遣わされていきますが、民のほとんどは預言者のことを拒否する態度をとってしまいます。しかし、シュネムの女性は、神様の遣わした預言者を真摯にもてなし、その言葉を受けとめます。しかも、彼女は何か見返りを求めて、エリシャをもてなしたわけでもないようです。

 

 13節でエリシャが、「あなたはわたしたちのためにこのように何事にも心を砕いてくれた。あなたのために何をしてあげればよいのだろうか」と聞くと、彼女は「わたしは同族の者に囲まれて何不足なく暮らしています」と答え、何も求めなかったからです。

 

 他の人々が、自分たちのもとに遣わされた預言者へ不平不満ばかり言っていたのに対し、非常に大人で落ち着いた態度でした。これはエリシャも予想外だったのでしょう。何か恩を返したいけれども、この謙虚な女性に何をしてあげればいいか分からない……困ったエリシャは、いつも自分に付き添っていた従者ゲハジに、「彼女のために何をすればよいのだろうか」と尋ねます。

 

 するとゲハジは、「彼女には子どもがなく、夫は年を取っています」と答えます。どこかで聞いたことのある状況です。子どもができない女性と年老いた夫……まるで、サラとアブラハム、ハンナとエルカナ、エリサベトとザカリア……そう、聖書の中で度々登場するシチュエーション、「信仰深い夫婦が、念願の末に神様から子どもを授かる」という奇跡が思い出されます。

 

 当時のイスラエルでは、子どもが生まれないことは神様の祝福から外れていると見なされ、不名誉なこと、恥ずかしいことと思われていました。今から見ればたいへん問題のある考え方でしたが、そういった周りの目に晒されて、この女性も辛い思いをしていたのかもしれません。

 

 そんな彼女に、エリシャは16節で「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱いている」と宣言します。すると彼女は「いいえ、わたしの主人、神の人よ、はしためを欺かないでください」と返します。聖書を読んでいれば何度も聞いたことのあるやり取りです。神様から遣わされた者に、「あなたは子を授かるんだ」と言われ、「いいえ、そんなわけありません」と答えてしまう。だけど、本当に言われたとおりになる……実際、彼女にも翌年、エリシャの預言どおり男の子が生まれました。

 

【息子と父親の関係】

 ところが、物語はこれで気持ちよく終わりません。その子はすくすくと育ち、あっという間に大きくなりましたが、ある日事件が起きてしまいます。なんと、畑で刈り入れをする父親のもとへ行ったとき、男の子は急に「頭が、頭が」とわめき出したのです。ひどい頭痛がしていたのでしょうか。もしかすると、長時間外にいて日射病にでもかかってしまったのかもしれません。年老いた父親は、急いで従者に「この子を母親のところに抱いて行ってくれ」と命じます。

 

 母親のところへ連れて行かれた息子は、彼女の膝の上でじっとしていましたが、やがて昼ごろ静かに死んでしまいました。ここで、サラッと読み飛ばしてしまいそうになりますが、皆さんは父親の行動に、何か違和感を覚えないでしょうか? 刈り入れどき、確かに忙しかったのかもしれません。歳老いていたため、すぐには子どもを抱いて行けなかったかもしれません。

 

 しかし、父親は子どもに異変が起きたとき、自分は息子と一緒に行こうとせず、後から追いかけようともしません。「母親のもとへ連れて行け」と命じるだけで、それ以上の行動をしなかったのです。さらに、仕事から家に帰ってきた後も、彼は子どもの様子を見に行こうとは一切しません。

 

 母親はエリシャのために用意した部屋で、子どもの遺体を寝かせていました。帰ってきたら、自分の家にいるはずの息子が、生活空間のどこにもいない。それなのに彼は「息子はどこにいるのか?」とは尋ねません。母親が、「神の人のもとに急いで行って、すぐに戻ってきます」と言ったときも、不審に思いながら、息子の様子について尋ねようとしなかったのです。

 

「どうして、今日その人のもとに行くのか。新月でも安息日でもないのに」……夫の質問に対し、妻は直接答えず「行って参ります」とだけ言って出て行きます。非常に淡白なやり取りのように感じないでしょうか? これは想像ですが、私はおそらく、父親は息子を母親のもとへ行かせたとき、その子が死んでしまうことを、うすうす感じていたのではないかと思います。彼は、息子が自分と一緒にいるとき、異変を見せて以来、極力その側に寄ろうとしませんでした。

 

 まるで息子の異変、息子の死には自分の責任がないことを表そうとしているようです。責任があるとすれば、それは自分ではなく、息子が死ぬときまで側にいた母親の方だ……そう思いたい部分があったのかもしれません。彼女の方も、息子の死について自分だけに責任が押し付けられるかもしれないと、どこかで感じていたのではないでしょうか。

 

 このままでは、やっと生まれた大事な息子との関係も、自分と夫との関係も、全てが遠く離れたもの、隔たりのあるものになってしまう……そんな中、彼女は急いで神の人エリシャのもとへ向かったのです。

 

【母親とエリシャの関係】

 母親は24節で従者に命じます。「手綱を引いて進んで行きなさい。わたしが命じないかぎり進むのをやめてはいけません」……猛スピードで進んでいく様子を想像させるセリフですが、彼女たちを運んでいくのは馬ではなく雌ロバです。馬と違って乗り手と呼吸を合わせるのが難しい動物で、スピードもそこまで出せません。もどかしさの中、母親が目的のカルメル山へ着く前に、先にエリシャの方が遠くから彼女を見つけます。

 

 しかし、エリシャは随分早くに彼女を見つけておきながら、自分から直接会おうとはしませんでした。従者のゲハジに迎えさせて、「お変わりありませんか、御主人はお変わりありませんか。お子さんはお変わりありませんか」と挨拶させます。自分が聞けばいいのに、わざわざ間に人を挟もうとする。あれだけいつも親切にしてくれた女性へ、自ら会おうとはしない……。

 

 彼もどこかで感じていたのかもしれません。必死に雌ロバを走らせてやってくるあの女性は、きっと何か難しい案件を持ち込んできたと……それも、自分に責任を問われることを。案の定、彼女は後で「わたしがあなたに子どもを求めたことがありましょうか。わたしを欺かないでくださいと申し上げたではありませんか」と責めるわけですが、母親はゲハジに対して、「変わりはございません」とひと言答えて通り過ぎます

 

 おそらく、ロバから降りないままそう答えたのでしょう。エリシャが間に人を挟もうとするのを無視して、彼女は直接会おうとします。自分も夫も息子も変わりはないと嘘までついて……「嘘をつかなければ、直接会ってもらえない」……そんな予感があったのかもしれません。実際、山の上にいるエリシャのもとに到着した彼女は、彼の足にすがりつきますが、後から追いついたゲハジに引き剥がされそうになります。

 

 しかし、エリシャは観念してこう言います。「そのままにしておきなさい。彼女はひどく苦しんでいる。主はそれをわたしに隠して知らされなかったのだ」……驚きの事実が明かされました。神の人エリシャに、神様はこの母親のことを知らされなかった。以前、神様によって子どもを与えられたこの女性が、その子を失ってしまったというたいへん重要な事実が、神様から隠されていた……なぜでしょう?

 

 隠していなければ、エリシャは母親に会うことをためらったからかもしれません。そう、彼女の夫が、極力自分の息子と関わろうとしなかったように、エリシャもこの後、母親の子どもに直接会いに行くのを避けようとします。このエピソードの中で、母親と子どもの二人は、しばしば自分たちと関わることを避けられます。二人はいくつもの関係から切り離され、孤立するのです。

 

 しかし、神様は切り離された関係を近づけ、くっつける方です。敢えて、エリシャに彼女の苦しみを隠して知らせず、ためらう隙を与えず、きちんと母親に向き合うよう促したのです。エリシャも神様が自分に何を求めているのか分かったのでしょう。母親の頼みを聞くことにします。

 

【息子とエリシャの関係】

 ところが、彼は母親とは対峙しますが、彼女の息子と会うことはまだ避けようとします。彼は再びゲハジに命じました。「腰に帯を締め、わたしの杖を手に持って行きなさい。だれかに会っても挨拶してはならない。また誰かが挨拶しても答えてはならない。お前はわたしの杖をその子どもの顔の上に置きなさい」……預言者が身につけている物、いつも手にしている物、それらは彼ら同様に神様からの特別な力が宿っていると信じられていました。

 

 エリシャは、自分が直接行かなくても、それで十分だろうと思ったのかもしれません。相手は子どもとは言え、既に死んでいます。死体に触れることは汚れを受けることとされ、清めのために、しばらくの間通常の生活もできなくなります。彼はできる限り、自分とその子との間に距離を置きたかったのでしょう。

 

 「だれかに会っても挨拶してはならない。まただれかが挨拶しても答えてはならない」という言葉も、そういう儀式的な要素だと取ることもできれば、一刻も早くこの難しい一件から手を引きたい気持ちの表れのようにも見えます。しかし、母親はすかさず言いました。「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしは決してあなたを離れません」。

 

 端的に言えば、「一緒に来い」と言ったわけです。このとき彼女が口にした「主は生きておられる」という言葉は、ユダヤ人が神様に向かって何かを誓うとき、よく使う言葉です。たいていこの後には「もし、そうでなければ神が幾重にも罰してくださるように……」といった言葉が続きます。つまり、ユダヤ人にとっては、自分たちと神様との関係に基づいた、相当きつい脅しの言葉、誓約の言葉だったのです。

 

 本来なら王や預言者の口から出るべき言葉を女性に言われ、エリシャはついに立ち上がります。そして、彼女の後について行ったのです。一方、先にエリシャから杖を持って子どもの顔に置いてみるよう言われていたゲハジは、二人より先に到着し、命じられたとおりにしてみました。

 

 ところが、子どもは声も出さず、何の反応も示しません。直接子どもと会うことを避けようとしていたエリシャは、いよいよ会わずにはいられなくなります。エリシャが家に着いてみると、子どもは自分がいつも使っていたベッドに寝かされていました。彼はついに覚悟を決めて、部屋の戸を閉じ、子どもの遺体と二人きりになって神様に祈ります。

 

 やがて、エリシャはベッドに上がって、子どもの上に体を重ねます。自分の口を子どもの口に、目を子どもの目に、手を子どもの手に重ねて屈み込んだのです……なかなかすごい体勢です。エリシャもかなり抵抗があったと思います。しかし、神様は母親の息子と距離を置こうとするエリシャを、これ以上ないほど近づけさせました。いえ、むしろくっつけさせました。そうしてしばらくすると、死んでいた子どもの体は次第に暖かくなってきたのです。

 

 エリシャは一旦起き上がって、家の中のあちこちを歩き回ります。そういう儀式的な行動だったのでしょうか? あるいは、これ以上身を重ねずに子どもが目を覚ますことを祈ってウロウロしていたのかもしれません。しかし、子どもはまだ目を覚ましません。エリシャは再び男の子の上に屈み込みます。すると、ようやく子どもは7回くしゃみをして目を開いたのです。

 

 ここでエリシャは、近くに控えていたゲハジを呼んで、「あのシュネムの婦人を呼びなさい」と命じました。そして、やってきた母親に、今度は自分の口で直接言います。「あなたの子を受け取りなさい」……そうして、母親もエリシャの足元に身をかがめ、地にひれ伏した後、自分の子どもを受け取って帰っていったのです。

 

【離れた関係を近くする神】

 私たちにとって、人の死という出来事は、人と人との関係を切り離す、最も強力な力です。この「死」という力を前にして、父親でさえ息子との間に距離を置き、さらには預言者でさえ子どもと距離を置こうとする……そんな人間の弱さがあります。しかし、神様は離れた関係を近くにし、切り離された関係を回復される方なのです。

 

 十字架にかかって死に、三日目に復活してくださったイエス様は、まさにその業を完成された方でした。私たちの間には関係性の喪失や崩壊という様々な問題が日々、起きていますが、その度にこれらの出来事を思い出し、力を受けて歩んでいきたいと思います。