ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

そんな理由で? 出エジプト記3:1〜12

聖書研究祈祷会 2018年4月11日

【神様の人選ミス?】

「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルをエジプトから連れ出すのだ」……唐突な命令が神様からモーセに下されました。有名な出エジプトの出来事が始まろうとしています。イスラエル、それは神様が特別に選んで愛したアブラハム、イサク、ヤコブの子孫を意味します。

 

 彼らはヘブライ人とも呼ばれ、ヤコブの息子、ヨセフの時代にエジプトへ移り住むようになり、みるみるうちにその数を増していきました。最初、エジプトの王とイスラエル人との関係は良好でしたが、だんだんと世代が変わるに連れて、次々と数を増し、力をつけていくイスラエル人に、新しいエジプトの王は危機感を持つようになります。

 

 これ以上イスラエル人が増えて自分たちの国を乗っ取ることがないように、王はある時から、彼らに強制労働を命じます。それだけでなく、イスラエル人を監視する監督を置いて、虐待まで行わせたのです。ところが、虐待すればするほど、なぜかイスラエル人は増え広がっていき、エジプト人はますます危機感を募らせます。

 

 王もまた、イスラエル人に新しく男の子が生まれたら殺すよう命令を出したり、さらに重い苦役を負わせたりするなど、日に日にその暴虐をエスカレートさせていきました。そんな中、痛みと苦しみのために叫びをあげるイスラエル人の声が、神様の耳に入ってきます。神様はそれを聞いて、イスラエルの人々をエジプトから脱出させ、新しい土地、乳と蜜の流れる土地、カナンの地へと導き出すことに決めたのです。そこで、民を導くリーダーとして選ばれたのが、荒れ野で羊を追っていたモーセでした。

 

 しかし、神様からの命令を聞いたモーセは、思わずこう返します。「わたしは何者でしょう? どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか?」……端的に言えば、「なぜ私が?」と聞いたわけです。モーセイスラエル人の一人です。自分の仲間がエジプトからどれだけ酷使されているかはよく分かっています。しかし、そこから彼らを導き出すのに、自分が選ばれるのは、どう考えても人選ミスでした。

 

 なぜか? 彼はこの時、様々な問題を抱えて誰よりも孤立し、不安な要素をいくつも持っていたからです。人々を導いて目的地まで引っ張っていくなんて、とても自分にはできない。あるいは、自分なんかにその資格はない……そう思う理由がたくさんありました。ところが、神様はモーセの問いに直接答えてくれません。モーセは何者なのか? 民を導く素質があるのか? 資格があるのか? そういったことは何も語ってくれません。

 

 ただ一つ、「わたしは必ずあなたと共にいる」とだけ語ります。それが、「あなたを遣わすしるしである」と……実はこの言葉、民を導くのにモーセが選ばれた理由を何一つ説明できていません。「わたしがいるから大丈夫」と言っている。つまりは、モーセがリーダーとしてやっていけるか、知恵や力を持っているか、そういったことは関係ないことになります。

 

「なぜ私が?」というモーセの問いに返された答えは、本来なら「そんな理由で?」と返したくなるものでした。「私がこの使命に選ばれた理由に、私自身の力や素質は関係ないのか?」「私が自分に自信を持てる理由があるわけじゃないのか?」……思わずそうこぼしてしまいたくなる言葉です。

 

 しかし、モーセは神様の言葉を聞いてすぐ、「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります」と返したのです。どういうことでしょうか? 自分の問いに正面から答えてくれなかった神様、「お前ならやっていけるさ、こんな理由があるんだから」とは言ってくれなかった神様、それなのにすぐ、「分かりました」と答えるモーセ……。

 

 もちろん、彼は何のためらいもなく神様に従うと言ったわけではありません。むしろ彼は、このあと自分が不安に思っていることをしつこく訴え続け、4章13節に至っては「やっぱりダメです、他の人に……」なんて言い出したりします。逆に言えば、それだけ自信がなかったのに、不安だらけだったのに、思わず「はい」と言ってしまうだけの力が、「わたしは必ずあなたと共にいる」という言葉にあったのです。

 

 何があのとき、これだけ不安な彼の心を動かしたのでしょうか? 共に聖書から読み取っていきたいと思います。

 

モーセの孤独】

 さて、モーセの心の動きを理解するためには、まず、このとき彼の後ろにあった背景について見ておかなければなりません。先ほども言ったように、当時エジプトではイスラエル人に新しく男の子が生まれたら、「一人残らずナイル川へ放り込め」という命令がファラオから下されていました。本来なら、モーセも生まれてすぐのとき、殺されるはずだったのです。

 

 ところが、2章で彼の母親は、子どもがあまりにかわいかったので、しばらくの間、周りに内緒で育てようとします。この時から、モーセの孤独な人生は既に始まっていました。生まれてすぐの三ヶ月間、彼は誰にも見せられず、ひたすら隠され続けて過ごします。そして三ヶ月後、もはや隠しきれなくなった母親は、パピルスで籠を作って、その中に赤ん坊を入れ、ナイル河のほとりに生えていた葦の茂みに置いていくのです。

 

 きっと藁にもすがる思いだったのでしょう。何とかして子どもに生き延びて欲しいと思っていたところ、奇跡的な巡り合わせがやってきます。なんとそこへ、エジプトの王ファラオの娘が水浴びにやって来て、パピルスの籠を見つけるのです。王女は籠を開き、泣いている赤ん坊を見て不憫に思い、自分の子として育てることに決めました。

 

 こうして、モーセイスラエル人でありながら、エジプトの王女の子として育てられるようになります。彼は母親と王女の憐れみによって、何とか一命を取り止めますが、半分イスラエル人で半分エジプト人という特異なアイデンティティを持つことになりました。さらに、彼と同世代の男の子は、皆王の命令でナイル河に捨てられたため、周りにいる男性は、自分より年上の人たちだけです。

 

 彼は生涯、自分と同じイスラエル人、自分と同じ世代、自分と同じ男性の友達を作ることができない人生を送ります。非常に孤独な環境でした。さらにその上、ある事件がますますモーセを孤立させてしまいます。それは、今日読んだところの直前、2章の11節から書かれていました。

 

 モーセが成人した頃、彼は自分の同胞、つまりイスラエル人のところへ出かけて行って、彼らが王の命令で重労働に服しているのを見かけます。さらに、彼らを監督していたエジプト人でしょうか? その人によってヘブライ人の一人、自分の仲間が虐待を受けているところに遭遇します。

 

 モーセは辺りを見回し、誰もいないのを確かめて、なんとそのエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めてしまったのです。カッとなって殺した……というよりは、周りの状況を確かめて、見つからないよう犯行を計画し、事に及んだ殺人でした。自分と同じイスラエル人を守るためとは言え、彼は人殺しになってしまったのです。

 

 翌日、モーセは何食わぬ顔でまた出かけていき、今度はヘブライ人同士が二人で喧嘩をしているところに遭遇します。どうやらこの喧嘩には、明確「悪い方」がいたようで、モーセはその男に向かって「どうして自分の仲間を殴るのか」とたしなめます。ところが、相手の男はこう言います。「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」……なんと、誰も見ていなかったはずの殺人を、モーセは知られてしまったのです。

 

 さらに、このことはファラオの耳にも入り、モーセは追われる身となってしまいます。なぜファラオの耳にも入ってしまったのか……おそらく自分が助けようとしたあのヘブライ人たちから犯行を密告されたからだ……すぐにそう気づいたでしょう。彼は死の危険に晒されますが、何とかファラオの手を逃れてミディアン地方へたどり着きます。

 

 そこで、ミディアンの祭司レウエルの娘たちを助けたことをきっかけに、モーセは彼らのもとで暮らすようになりました。イスラエル神のもとにも、エジプト人のもとにもいれなくなった彼は、遠く離れた地で生活するしか道がなかったのです。

 

 やがてモーセは、レウエルの娘ツィポラと結婚し、息子が与えられます。2章22節には、「モーセは彼をゲルショムと名付けた。彼が、『わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ』と言ったからである」と記されていました。寄留者とは、他人の土地、他人の家に住む人々のことです。「わたしの土地」を持てない、「わたしの帰る所」を失った者……モーセ自身、自分のことをそう表現するほど、孤独な状況にいたのでした。

 

【神様との遭遇】

 モーセは長い年月をミディアンの地で過ごします。その間にエジプトの王は死に、新しい王へ変わっていました。しかし、相変わらずイスラエルの人々は重労働に苦しめられ、助けを呼び求めています。すると、神様はその嘆きを聞いて、彼らを脱出させる計画を立てたのです。その計画とは、エジプトから逃げ出さざるを得なかったあのモーセに、民を導かせるというものでした。

 

 いったい、神様は何を考えているのでしょうか? 彼はエジプトで殺人を犯して逃げて来た人物です。同胞のヘブライ人から密告され、殺されそうになった人間です。その彼に、「エジプトへ行ってイスラエルの人々を救え」と言っても、頷くはずがありません。エジプトには狙われ、イスラエルには恨みを持っている……そんな相手に、普通こんな使命を与えるでしょうか?

 

 しかし、神様はモーセが羊の群れを追って荒れ野の奥へやってきたとき、その使命を与えようと彼に姿を現します。モーセがふとホレブの山を見上げると、そこに生えていた木の間に、燃え上がっている炎が見えたのです。新共同訳では「柴」と訳されていますが、これは低くて棘のある木のことです。この柴はなぜか燃えているのに、いつまで経っても燃え尽きません。モーセは不思議に思って、この光景を見届けようと、自分のいた道を逸れて柴の方へやってきます。

 

 それを見た神様は、柴の間からモーセに呼びかけ、こう語ります。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」……聖なるものにむやみに近づいてはならないという警告は、他の箇所でもよく使われます。「履物を脱ぐ」という行為にも象徴的な意味があり、自分の所有権を放棄することを意味しました。

 

 同時に、「近づいてはならない」と言いつつ「履物を脱げ」という神様の言葉は、モーセとの間に絶妙な距離感をもたらします。当時、人間は神様を直接見たら死んでしまうと言われていたため、モーセは恐れて顔を伏せていますが、履物を脱いだ状態ではそこから逃げることもできません。人間は神様との間に、近づくことのできない絶対的な距離があるにもかかわらず、神様は自分から離れようとすることを許しません。神様の方から近づいたその時、私から離れてはならないとおっしゃるのです。

 

 そしてようやく、神様は本題に入ります。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」……同胞のイスラエル人との間に距離ができてしまったモーセに対して、神様はもう一度、「わたしはあなたの神、あなたの同胞のイスラエルの神だ」と告げてきます。

 

 自分は何者か、エジプトの王女の子か、イスラエル人の子か、もはや何者でもなくなってしまったのか……自らのアイデンティティを見失っているモーセに、神様は自分との関係を思い出させます。そして、エジプトからイスラエルの民を連れ出し、広々としたすばらしい土地へ導くよう命じるのです。

 

モーセの抵抗】

 しかし、モーセから出てきたのは「わたしは何者でしょう? どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」という言葉でした。無理もありません。「危険を犯してまで、私にそうする理由があるでしょうか?」そんな意味にも聞こえてきます。神様、あなたは知っているでしょう?

 

 私がファラオへ会いに行くのがいかに危険なことかを、私がイスラエルのために命をかけるほど、彼らにいい思いを抱いてないことを……。

 

 そう、神様は知っています。モーセの生い立ちも、背景も、どんな人生を歩んで来たのかも。知った上で、「あなたをファラオのもとに遣わす」と言ってきたのです。実は、神様から特別な使命を与えられた人間、預言者と呼ばれる人たちには、こういった人が多いのです。「わたしを遣わすのはおかしいでしょう?」「人選ミスでしょう?」「もっと他に誰かいるでしょう?」そう答えて、何とか神様の使命から逃れようとする人たち。

 

 しかし、神様は彼らにこう言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」……モーセは孤独な人間でした。生まれた頃から周りに隠され、エジプトとイスラエルの間で板挟みになり、最後にはどちらからも距離を置かざるを得なくなった人物……後で彼が自分のことを「口下手だ」と語るのも、そういった背景があったからかもしれません。

 

 他人との関係をうまく築くことができない。共同体の中で気持ちよく過ごすことができない。そんな孤独な背景を持っていたモーセ。その彼に、「わたしは必ずあなたと共にいる」という声がかけられる……実際は、モーセが期待していのは違う言葉だったでしょう。

 

「あなたはエジプト人に襲われても撃ち殺せるほど力を持っているから」「あなたは羊飼いの男たちからレウエルの娘たちを守るほど正義感に溢れているから」「あなたはエジプトの王女のところで育てられ、王宮での交渉術を知っているから」……そんな具体的な何か、自分が自信を持てる何かを言ってくれるよう期待していたでしょう。

 

 しかし、自分がこの使命に選ばれた理由として語られたのは、思ってもみない言葉でした。「わたしは必ずあなたと共にいる」……自分と共に誰かがいてくれた経験の少ない彼、常に孤独を感じる人生を送ってきた彼に、この言葉は何よりも力強く響いたのです。「私が何者であるかは関係ない。神様が私と共にいてくれるのだ」……だからこそ、思わずモーセはあれだけ不安で、あれだけ自信がないにもかかわらず、「わたしは今、イスラエルの人々のところへ参ります」と答えてしまったのです。

 

 一見、「そんな理由で?」と感じる言葉、「答えになってない」と思ってしまう神様の言葉は、実は選ばれた人にとって、何よりも必要としていた言葉でした。そして、この言葉は今、私たちにも語られることがあるのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」……この言葉からとられた名前、インマヌエル(主我らと共に)は、2000年前、私たちのためにこの世へ来てくださったイエス様を表す呼び名でもあります。

 

 神様が、イエス様が、私たちと共にいてくださる。だからこそ、「私なんて……」「私なんかが……」と感じるような場面で、精一杯役目を果たす力が与えられる。そのことを覚えて、次の日曜日まで、また歩んで行きたいと思います。