ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『誰のせいかは問えません』 出エジプト記12:29〜36

聖書研究祈祷会 2018年5月2日

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【弱い者が裁かれる】

 悪いことをした者が裁かれる、弱い者が救われ、強い者が撃たれる……そんな物語を私たちは好みます。少年ダビデに3メートル近い大男のゴリアテが倒される。ギデオン率いるたった300人に13万5千人のミディアン人が打ち破られる。1人きりで挑んできたエリヤに450人のバアルの預言者が打ちのめされる……そして、奴隷となっていたイスラエル人が、エジプトを打ち破って脱出する。

 

 聖書の中で脈々と語り継がれてきた痛快な出来事、悪い者、乱暴な者が撃たれる話……しかし、今日聞いた話はどうでしょう? イスラエル人を虐げてきたエジプト人、彼らが受けた罰は、自分たちの家で最初に生まれた子どもが殺されるというものでした。今回、神様に撃たれた存在は、大男でも兵士でもありません。直接イスラエルの民を虐げてきた人たちでもありません。その子どもたち、小さく弱い者たちです。

 

 神様がエジプトに下してきた十の災いの内、最も残酷で重い話です。さすがに私たちも引っかかります。ちょっと待ってください神様、なぜ罰を受けるのが子どもたちなのですか? イスラエルを奴隷としてこき使ってきた大人たち、彼らを直接罰すればいいじゃないですか? どうして、あなたが守るべき、弱く小さい者が撃たれるのですか……と。

 

 正直、牧師もここから何を話すか悩むものがあります。エジプト人は繰り返し神様に背き続けたから、イスラエル人を虐めてきたから、その子どもが犠牲になったのだ。そう言うのは、簡単です。事実、4章23節には、神様がファラオに対し「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしの子を去らせてわたしに仕えさせよと命じたのに、お前はそれを断った。それゆえ、わたしはお前の子、お前の長子を殺すであろう」と言っています。

 

 本人の自業自得、深刻な災いは、それを受けた者たちに責任があるという話……しかし、本当に、その言葉どおりに、この話を受け取って良いのでしょうか? 神様は「悪い者が報いを受けた」「良い者が救われた」と単純に捉えるよう、私たちに求めているのでしょうか? 実は、もっと別なことを期待しているように思えるのです。

 

 なぜなら、この後エジプトを脱出するイスラエル人たち、神様に救われた人々もまた、神様に繰り返し背いてきた人間だからです。彼らは可哀想な、ただのいじめられっ子ではありませんでした。かつてモーセが止めに入ったように、イスラエル人同士でも互いに暴力を振るっていました。モーセを通して告げられる神様の言葉も、なかなか信じられませんでした。この後も繰り返し、神様の言うことに逆らいました。実は、イスラエル人もエジプト人も、神様に対する態度は、たいして変わりませんでした。

 

 むしろ、この時救われたイスラエル人は何とも思わなかったのでしょうか? エジプトの国で、全ての初子が撃たれると聞いたとき、誰も子どもが殺されることに異を唱えなかったのでしょうか? 残念ながら、そういった話は出てきません。彼らは自分たちが災いを免れることしか考えていませんでした。小さく弱い者のために、神様に執り成そうとする者はいませんでした。

 

【執り成さないイスラエル】

 長い間、多くの人を虐げてきたエジプトの国民のために、神様に執り成しをするわけにはいかなかったのでしょうか? いえいえ、そんなことはありませんでした。かつて重い罪を犯してきた町、ソドムとゴモラを滅ぼすと宣言した神様に、イスラエルの父祖アブラハムは、6度にわたって執り成しをしました。

 

「主よ、もしソドムの町に正しい者が50人いても、30人いても、20人いても、10人いても……それでも滅ぼされますか?」と。しかし、エジプトにいるイスラエル人たちは、誰一人、罪のない子どもたちのために執り成しをしようとはしませんでした。

 

 あるいは、アブラハムの場合は、ソドムの町に自分の甥であるロトが住んでいたから、正しい者が滅ぼされないよう執り成す必要があっただけだ。ひたすら自分たちを奴隷として虐げてきたエジプト人のために、イスラエル人が執り成す必要はなかったのだ……そう考えることもできるかもしれません。

 

 しかし、どうでしょう? エジプトには、かつて、イスラエル人が男の子を生んだら速やかに殺せと命じたファラオに逆らって、子どもたちを生かしてくれた助産婦たちがいました。彼女たちは神様に祝福され、自分たちも子どもに恵まれました。しかし、エジプトの国の全ての初子が撃たれると聞いたとき、助けられたイスラエル人の誰一人、彼女たちの子のために執り成そうとはしませんでした。

 

 かつて、ナイル川で拾った赤ん坊がイスラエル人の子だと知ってなお、自分の子として育ててくれたエジプトの王女がいました。彼女に救われた男の子は、やがてイスラエルの民を導き出す指導者、モーセとなります。しかし、エジプトの国で全ての初子が撃たれると聞いたとき、モーセは自分を助けた王女のために、また宮廷でお世話になってきた人たちのために、その子どもたちが失われないよう、執り成そうとはしませんでした。

 

 エジプト人の中には、正しい者、いわゆる「神を畏れる者たち」が、他にも何人かいたのです。それこそ、ファラオの家臣たちの中にも……先週お話した9章の後半では、一部の家臣がモーセの警告に従って、雹と雷の災いを免れたことが書かれていました。また、イナゴの災いがあったときには、ファラオに向かってイスラエルの要求を飲むよう勇気を出して言った者もおりました。エジプト人の全員が全員、神様の言葉に従わない者たちではなかったのです。

 

 以前、「正しい者が10人いればソドムの町を滅ぼさない」とアブラハムに約束された神様なら、きっと10人以上はいたと思われる「神を畏れる者たち」のために、エジプト人の初子を殺すのは、やめたのではないでしょうか? しかし、彼らのために、子どものために執り成す者は、イスラエルの中にはいませんでした。

 

 こうして見てみると、エジプト中の初子の死は、その災いを免れたイスラエルの人々にも、関係ない話とは言えません。彼らが子どもたちのために執り成す理由は十分にありました。チャンスもありました。神様はモーセに、イスラエルの民に、自分たちの子どもが死なないよう、備える時間を与えたのですから。最後の災いについては、他の災いと比べても、神様が予告してから実行するまでの間、いくらかの猶予があったのです。しかし、イスラエルの人々は、自分たちが助かるための用意しか行いませんでした。

 

 これらのことを考えると、災いを受けた人たちに、災いを受けなかった人々が「あなたたちは罪を犯したから災いを受けたのだ」なんて、とても言えないことが分かってきます。災いを受けた人も受けなかった人も、神様の前に、たいして変わらない人々で、世界中どこで起きる災いについても、誰のせいかは問えないのです。

 

 さらには、災いによって苦しい思いをする人々の中に、「正しい者」も含まれている可能性が、聖書を見ていると分かってきます。その人々に対し、「何かバチを受けたのだ」なんて言えるでしょうか? むしろ、その人たちのために執り成しが必要なのではないでしょうか? 大いなる災いが起きたとき、私たちはどうしても「誰のせいか」を問うてしまいます。

 

 あの人たちは、なぜこんなにひどい災いを受けたのか? 何か悪いことをしたのではないか? あるいは、自分のせいでこの災いは起きたのではないか?……そんなふうに悩みます。しかし、誰のせいか問うても、分からないのです。むしろ、誰もが神様から離れがちであること、神様に繰り返し背いてしまうことを覚えて、互いに執り成し合うべきなのです。

 

 エジプトの子どもたちの死は、本来イスラエルにとっても、あってはならなかったこと、もう二度と起こしてはならないこととして、繰り返し思い起こされるべきものでした。実際に、彼らがこのことを意識しようともしまいとも、この後、過越の祭りの度に、エジプトの出来事は親から子へと伝えられていくのです。

 

【子どもたちの救い】

 さて、エジプト人の家で最初に生まれた子どもたちは、みんな亡くなってしまいました。実は、これと似たような悲しい出来事が、イスラエルでも起きてしまいます。千年以上の時が経ち、新約聖書の時代に事件は起きました。マタイによる福音書2章16節から18節にこう書いてあります。

 

 「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子どもたちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子どもたちがもういないから』」

 

 有名なイエス様誕生の物語、「東方から来た博士たち」に続く、すぐ後の話です。当時、ローマの認定でユダヤを治めていたヘロデ王は、外国の博士たちから「ユダヤ人の王として新しく生まれることになっている」方を拝みに来たと聞き、非常に慌てます。ヘロデはすぐにそれが、自分たちイスラエル人の待ち望んできた救い主メシアの誕生だと、ピンと来たのです。

 

 しかし、彼はそれを素直に喜べません。新しい王の出現によって、自分の地位が脅かされると思ったからです。彼は博士たちに、イエス様の居場所が分かったら教えて欲しいと頼みます。後からそこへ行って、こっそり殺そうと考えていたのです。しかし、博士たちは夢で神様からお告げがあったので、ヘロデのところへ寄らずに国へ帰っていきます。

 

 騙されたと知ったヘロデは大いに怒り、イエス様の生まれたベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を、みんな殺してしまうよう命じました。ユダヤ人の王によるユダヤ人の子どもたちの大虐殺です。

 

 この時のことを預言する言葉として、エレミヤの言葉が引用されていました。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子どもたちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子どもたちがもういないから」……信仰深い家も、そうでない家も関係なく、ユダヤ人の家の幼い子どもたちが、皆殺しにされてしまった出来事……その間、ヘロデの手を逃れて生き延びるため、幼いイエス様が避難したのは、なんとあのエジプトの地でした。

 

 まさに、エジプトで起きた災いが、イスラエルの地で逆転して起きたような出来事……この話を聞くとき、ベツレヘムに住んでいた母親たちは悪い人だった、不信仰な者たちだった、そう思うでしょうか? 逆に、イエス様の逃れたエジプトの地にいた人々は、良い人たち、信仰深い人たちと思うでしょうか?……そうではないですよね。

 

 亡くなった子どもたちの犠牲について、「あなたのせいだ」「彼らのせいだ」と言える人は、いなかったはずなのです。もちろん、「私は関係ない」「私には責任がない」と胸を張って言える人も、いなかったはずです。ヘロデ王が「キリストはどこに生まれるのか?」と問いただしたとき、イスラエルの祭司長や律法学者たちは、自分たちが答えれば、きっとその子は殺されると予想できたはずなのに、正直に答えてしまいました。

 

 逆らえば自分が殺されるかもしれない。本当に救い主が生まれたら、自分たちの地位や教えも揺るがされるかもしれない……そんな恐れから神様の言葉を聞けなくなっていた人たちが大勢いました。というより、みんながそうでした。私たち人間は、子どもたちのような弱く小さいものを犠牲にしてしまう頑なさを持っている……そんな世の中にイエス様は生まれ、その有様を目に焼き付けて、大きくなっていきました。

 

 成長し、大人になったイエス様が、やがて子どもたちを見るとき、どんな眼差しをしていたのか、聖書には記されています。イエス様は誰よりも、子どもたちのことを愛され、大切にされました。「神の国はこのような者たちのものである」と語り、子どもたちを抱き上げ、祝福されました。イエス様の思いやり……そこにはきっと、ベツレヘム周辺にいた2歳以下の男の子たちも、かつてエジプトで撃たれた子どもたちも入っていました。

 

 人々の頑なな心の犠牲になるのは、いつも何の抵抗もできない弱い者たちです。中には、誰からも執り成しをしてもらえない存在だっています。しかし、イエス様はそれまで犠牲になるしかなかった子どもたちのような者こそ、神の国に受け入れられると宣言されます。さらに、エジプト人もイスラエル人も関係なく、どこの国の人々にも、「天の国は近づいた。神様を信じて受け入れなさい」と呼びかけます。

 

 神様は、エジプトに対しても、イスラエルに対しても、頑なな人々の心に語り続けました。さらに、イエス様を送って、全ての人が救われるよう導きました。かつてエジプトに下された最後の災いは、災いを受けた者も受けなかった者も、神様に立ち返るよう導くものでした。そして、神御自身も、自らのひとり子を殺されるという痛みを負って、全ての人を救われる道を開きました。

 

 神様は、全ての人を救うため、十字架にかかって復活したイエス様を信じる人に、永遠の命を与えます。亡くなった子どもたち一人一人にも、イエス様を通して永遠の命が与えられるのです。今、私たちも、その命を受け取るよう、信じることが求められているのです。共に、神様の深い憐れみと大いなる恵みを覚えて、感謝したいと思います。