ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『火と雲を出して海も割る』 出エジプト記14:5〜31

聖書研究祈祷会 2018年5月9日

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 【考えが一変する出来事】

 出エジプト記には、繰り返し「気が変わる」人間の姿が出てきます。特に、神様から心をかたくなにされていたファラオは、イスラエル人がエジプトを出て行くのを許しては撤回する、ということを何度も行なってきました。一方で、神様から心をかたくなにされていなかったイスラエル人も、神様を信じたり信じなくなったり、畏れたり不満を言ったり、コロコロと態度を一変させていました。

 

 そんな中、ついにクライマックスがやって来ます。神様によって、エジプトに十の災いを下されたファラオが、とうとう根を上げて、イスラエル人が出て行くことを許したのです。イスラエル人はさっそくエジプトを出て行きますが、もちろんあっさりとはいきません。ここでも、困難を前に「気が変わる」人間の姿が出てきます。しかし、神様は一貫して、ファラオとイスラエル人に同じ態度を貫きました。

 

 信じない者に対して、信じる者となるよう呼びかける……これを続けたのです。自分を否定し続ける者に対し、「私はあなたの主人だ」と言い続け、何に頼るべきかを指し示した。何度も気が変わってしまう私たち人間に、神様はどのように働きかけてきたのか、共に見ていきたいと思います。

 

【気が変わるファラオ】

 さて、自分がイスラエル人の出発を許さなかったがために、最後の災いで長男の命を失ってしまったファラオ……彼は12章の後半でようやく「民を連れて出て行くがよい」とモーセに言います。しかし、その舌の根が乾かないうちに、また考えを一変させてしまいます。「ああ、我々は何ということをしたのだろう。イスラエル人を労役から解放して去らせてしまったとは!」

 

 もともと、ファラオがイスラエル人を奴隷として酷使していたのは、イスラエル人がこれ以上数を増し、力をつけて、エジプトに反旗を翻さないようにするためでした。しかし、いつの間にか、イスラエル人の労働力はエジプトにとって不可欠なものとなっていたようです。とはいえ、これまで神様から下された災いによって、エジプトは既に家畜を失い、畑の作物も失い、普通に考えて壊滅寸前の状態です。さすがに、またモーセとの約束を破って被害を受けたら、労働力を確保するどころの話ではありません。

 

 しかし、神様から心をかたくなにされていたファラオは、懲りずにまたイスラエルの民を追いかけようとします。彼自ら馬をつなぎ、軍勢を率いて、エジプトの戦車全てを動員したのです。不思議なのは、既に神様から下された災いによって全滅していたはずの馬が、当たり前のように出てくることです。それも、戦車の数を考えれば少なくとも600頭以上いなければいけません。家畜は全て滅ぼされたという記述が、ここで疑わしくなってきます。

 

 もちろん、これは出エジプト記を構成している資料が複数あって、それを組み合わせているから矛盾が起きてしまうのだと説明されます。ですが、敢えて、これを今ある形のまま素直に読むと、エジプトにたいへん厳しい災いが下された中で、裁きを免れた者も、いたのかもしれないと思わされます。

 

 そう、この後イスラエルが繰り返し神様に背いて、神様から厳しい裁きを受けたとき、敵の手に滅ぼされたとき、それでも災いを免れた「残りの者」がいたように、エジプトの中にも神様から災いを受けずに済んだ人や家畜が居たのかもしれない……そんな読み方も出てくるのです。

 

 これまで、エジプトとイスラエルは、神様の前に、たいして変わらない態度をとっていた……と話してきました。どちらも、「神様から裁きを受ける」国でした。そして、どちらも「裁きの中で滅びを免れる者がいる」のだとすれば、いよいよエジプトとイスラエルの違いがなくなってきます。

 

 つまり、聖書は単純に、「イスラエルが信仰深いから神様に救われた」と言っているのではないのです。神様は自分に背いた人々がもう一度自分に立ち返るよう、裁きもするし、救いもするのです。

 

【怯えて叫ぶ民とモーセ】

 さて、ファラオがイスラエル人を追いかけ始めたとき、民の方は意気揚々と出て行くところでした。「意気揚々と」という言葉の原文は、「手を高くあげて」という意味の単語で、かなりはしゃいでいた様子が感じられます。5章の21節で、ファラオとの交渉に失敗したモーセとアロンに向かって「どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように!」と言っていた民が一変し、急に明るくなっています。

 

 ところが、イスラエル人が海辺の前で宿営し、休んでいたとき、ふと顔をあげると、エジプト軍が自分たちを追いかけてきたのが目に入ります。さっきまで意気揚々としていた彼らは一気に青くなり、神様に向かって叫びます。また、モーセに向かっても不平を言います。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか」

 

 現代においても古代においても、いわゆるピラミット、巨大な墓で有名だったエジプトに、自分たちの墓がない……非常に皮肉を込めた言い方です。さらに、彼らはこんなことまで言い始めます。「我々はエジプトで『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」

 

 この手の平の返し方はすごいですよね。やっとの思いでエジプトを出たのに、これまでいかにファラオとの交渉が大変だったのか見てきたのに、自分たちの身が危うくなると、我々人間は、すぐこんな言葉を口にしてしまうのです。

 

 モーセは民を必死になだめます。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる」……さすがモーセです。彼はちゃんと神様に信頼して落ち着いています……と言いたいところですが、そうでもないことがすぐ分かります。

 

 なぜなら、神様がモーセにも「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか」と問うからです。そう、イスラエルの民が、自分たちを追いかけてきたエジプトの軍を見て、即座に神様に向かって叫んだように、モーセも神様に叫ばずにはいられませんでした。彼も、怯えていたのです。もともと神様から「ファラオが追いかけてくるよ」と聞いていたにもかかわらず! イスラエルの民はエジプトを恐れてモーセになだめられ、モーセも神様になだめられます。

 

「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる」。ついに、あの有名なシーンがやって来ました。映画や絵本でご覧になった方も多いと思います。ここで、神様がモーセに杖を高く上げるように言ったこと、手を海に向かって差し伸べるよう命じたことは、なかなか印象的です。

 

 最初は、意気揚々と、手を高く上げて出て来たイスラエル人が、敵の軍勢を目の当たりにした瞬間、手を下ろし、慌てふためいてしまう。しかし神様は、再び手を上げて、意気揚々と海の中を進んで行くように、今まで歩けなかった場所を進んで行くように、人々に向かって命じられる。

 

 私たちの人生はこれの繰り返しですよね。大きな困難にぶつかれば、すぐ神様に向かって叫んでしまう。神様は私たちをなだめ、落ち着かせ、進むべき道を示される。信仰というのは、常に揺れ動いてしまう私たちの心に働きかける、神様の声を受け取り続けることなのです。

 

【エジプトと戦う神様】

 さて、イスラエルの民は言われるがまま海に向かって進んでいきます。人々が逃げている間、神様はどうしているのかと言えば、かなりダイナミックに敵と戦われます。19節には、民の先頭を進んでいた神の御使いが移動して一番後ろに下がり、エジプトの軍とイスラエルの民との間に入ったことが記されていました。

 

 「神の御使い」と書かれているのは、イスラエルの人々が進むべき道を案内していた火の柱です。この後、雲の柱も移動してイスラエル人とエジプト人との間を遮ります。そう、イスラエルの民は荒れ野を進んでいくとき、昼は雲の柱によって、夜は火の柱によって導かれていました。火、雲、風、雷といった自然現象は、古代において、神様が人々の前に現れるときのしるしと考えられていました。モーセが神様と最初に出会ったのも、燃える柴の前であったことが思い出されます。

 

 エジプト人は、雲と火の柱で遮られて、イスラエルの民に近づくことができません。さらに、「真っ暗な雲が立ち込め、光が闇夜を貫いた」とあります。まるで雷ですよね。もう完全に、「ここに世界を創造した、あの神がいる!」とアピールされているのが分かります。

 

 加えて、モーセが神様に言われたとおり海に向かって手を差し伸べると、夜の間中、激しい東風が吹きつけて、海の水を押し返していきました。火、雲、風、雷という神顕現の代表的な要素が揃います。主がここにおられる、まさにその時に、海の水は右と左に分かれて大きな壁ができ、人々の進むことのできる道が現れました。火と雲を出して海も割る……最近の若者の言葉で言えば、チート感溢れる神様の顕現です。

 

 イスラエルの民は急いでこの道を進んでいきます。サラッと書いてありますが、彼らは火と雲の柱を隔てた、すぐ向こうに敵がいる状態で一晩待っていたのです。一晩……思ったよりも長いですよね。敵が来ているのに気がついてから、すぐに海を渡れたわけではなかったのです。いつ襲われるか気が気でなかったでしょう。もちろん、イスラエル人が移動し始めたら、エジプト人も追いかけないわけがありません。彼らも海の中に現れた道を進んで、民の後をつけてきます。

 

 ところが、神様はここでまたエジプト軍を混乱させます。両者を遮っていた火と雲の柱が、エジプトの軍をかき乱したのです。戦車の車輪が次々と外され、エジプト人は容易に進むことができなくなりました。ここで、エジプト人はようやく諦めます。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる」

 

 しかし、時既ニ遅シです! エジプト軍は完全に神様の手の内にありました。神様はモーセに命じます。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう」……そう、イスラエルの民に、わざわざ海の中を通らせたのも、その後をエジプトの軍に従わせたのも、全て神様の罠でした。モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に、海は元の場所へと流れ返っていきます。

 

 エジプト軍は水の流れに逆らって逃げようとしますが、追い打ちをかけるように、神様は彼らを海の中に投げ込まれます。とうとう、戦車と騎兵、ファラオの全軍は海の中に飲み込まれ、一人も残りませんでした。夜が明けて、イスラエルの民が後ろを振り返って見ると、エジプト人の死体が海辺にあがっています。ついに、彼らは自分たちを奴隷にしていたエジプトから、逃げ切ることができたのです。

 

【再び神様を信じる民】

 エジプト人に降りかかった恐ろしい状況を目の当たりにして、イスラエルの民は神様を畏れ、主を信じます。そして、その僕モーセのことも信じたとあります。つい前日、「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか」と皮肉を言い、モーセを非難していた民は、また態度を一変させたわけです。素直に、彼らが神様を信じたゆえに救われたとは、もう思えないですよね。

 

 むしろ、これだけコロコロと態度を変える人々に、どれだけ根気よく神様が付き合って来たか、考えずにはいられません。神様はエジプトの軍隊をかき乱すとき、こう言っていました。「わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」

 

 わたしが主であることを知るようになる……敵に向かって言われた言葉ですが、同じことを何度もイスラエルは言われています。自分たちが神様に背いて裁きを受けるときも、救われるときも……神様は、イスラエルにもエジプトにも、自分が創られた世界中の全ての民に、「わたしが主であることを知るように」願っています。そして繰り返し、神様を信じなくなった者が、信じる者となるよう、働きかけてきたのです。

 

 エジプト人に起きた出来事は、イスラエル人にも自らの在り方を問い直させます。心をかたくなにされたファラオは何度も神様に背き、愚かな姿を我々に見せた。しかし、そういう私たちはどうだろう? 自ら心をかたくなにし、神様に背き、愚かな姿をしていないか? 自分から心をかたくなにしている分、あのファラオよりも、ずっと愚かな生き方をしていないか? そう気づく機会を与えてきます。

 

 イスラエル人に起きた出来事も、今私たちに自らの在り方を問い直させます。イスラエルの民は虐げられ、苦しんできたのに、いざ自分たちを救おうとする者が現れると、「放っといてくれ」「エジプト人に仕える方がましだ」と言って、愚かな姿を私たちに見せた。しかし、そういう私たちはどうだろう? 助けてほしい、この状況が変わってほしいと願いながら、いざ自分を取り巻く環境を変えようとする者が現れると、「放っといてくれ」「このまま目立たずに耐えている方がましだ」と言っていないか?

 

 神様を信じながら、私たちは一番残念な方向へ進んでしまうことがあります。それは、「求めなくなること」です。苦しい、もう嫌だ、助けて! と叫びながら、解放を求めなくなる。ただただ、自分が苦しみに耐えること、平気になることだけを期待し、正義と公正を、困難からの解放を求めなくなる……それこそ、私たちを救う力がある神様に、信頼しなくなることです。

 

 神様は言います。「わたしが主であることを知りなさい」「わたしに助けを求めなさい」「わたしを信じる者となりなさい」……どんなに愚かで、自分のかたくなさに気づけない人たちにも、今ここにいる私たちにも、神様は頼るべき存在を示し、進むべき道を開かれます。もう一度、この出エジプト記の出来事を通して、私たちは自らの在り方を問い直し、神様のことを求めていきたいと思います。