ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『ワンマン・モーセ』 出エジプト記18:13〜27

聖書研究祈祷会 2018年5月16日

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【ワンマン牧師】

 ある若い牧師が、自分の初めて赴任した教会で幾つもの仕事をこなしていました。その教会では、信徒の高齢化であらゆるところにスタッフが足りていなかったのです。教会学校では、子ども向けに話をできるという人が1人しかいなかったので、牧師が月に3回メッセージの担当をしていました。

 

 パソコンを使える人がいなかったので、教会の記録や集計は全て牧師が行っていました。彼は一応オルガンを弾くことができましたが、教会には他に一人しかオルガンを弾ける人がいなかったので、牧師が奏楽とメッセージの両方をやる週もありました。

 

 牧師は毎日ヘトヘトになりながら、自分を助けてくれる人が現れるよう祈りました。「主よ、どうかこの教会に若い人を与えてください。子どもたちにお話ができる人を、パソコンで記録が打てる人を、オルガンで奏楽ができる人を与えてください」……しかし、彼がいる間、そういった人が新しく教会にやって来ることはありませんでした。

 

 数年経って、その牧師は新しい教会へ赴任することになりました。彼は疲れ果てていましたが、自分がいる間、何とかやりきったとホッとしていました。教会員の人たちも、彼が非常にがんばってきたことを知っていたので、心からの感謝をもって送り出そうとしていました。そんな時、ある信徒の一人が別れ際にこう言ったのです。

 

「先生、本当にこの数年間、私たちの教会で多くの働きを担ってくださり、感謝しています。しかし、新しい教会へ赴任されたら、私たちの教会でやってきたように、何もかも一人で背負わないでください。たとえ、次の教会で子どもたちにお話できる人がいなくても、聖書の絵本や紙芝居なら、読み聞かせてくれる人がいるでしょう。

 

 パソコンで記録を打てる人がいなくても、手書きでよければやってくれる人がいるでしょう。オルガンを弾けなくても、ピアノだったら弾けるという人が、この教会のように一人はいるかもしれません。先生、私たちにもできることがありました。次の教会でも、あなたを助けられる人たちがいるはずです。どうか何もかも一人で背負わないでください」

 

 牧師は思わずこう叫びました。「なぜ、皆さんは今までそれを私に言わなかったのですか? 私はいつだって助けてくれる人を探していたのに!」……すると、その方は答えます。「確かに、あなたは助け手を求めていました。しかし、私たちの助けは期待していませんでした。あなたはどこか別のところから、助けが来ることを期待していたのです」

 

 こんなふうに、私を含め多くの人が、しばしばワンマンに陥ってしまいます。助けてくれる人を求めながら、目の前の人間には助けを期待しなかったり、求めなかったりするのです。もちろん牧師だけではありません。信徒の皆さんもそうですし、日常生活でも似たような経験を知らず知らずのうちにしていることがあります。モーセもそんな人間の一人でした。

 

【疲れ果てたモーセ】

 モーセは、イスラエルの民をエジプトから脱出させた後も、まだ重要な役目が残っていました。一つは、神様が約束されたカナンの地に到着するまで、人々を導かねばならないこと。もう一つは、イスラエルの民と神様との間を仲立ちすることでした。

 

 人々は、神様に問いたいことができると、モーセのところにやって来ました。自分たちの間で何か事件が起きたとき、誰が悪いのか、どうすればいいのか、公正な裁きと判断を必要としていたのです。その数は毎日途切れなく続き、人々は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいたと言われます。

 

 つまり、イスラエルの間では毎日のように事件が起き、簡単には和解することも解決することもできなかったわけです。確かに、これまでのイスラエル人の性格を考えたら、無理もありませんでした。彼らは自分たちが困難に陥ったとき、素直に助けを求めるよりも、不平不満を吐き出す方が多く、より事態をややこしくしてきたからです。

 

 モーセとアロンがファラオとの交渉に失敗したとき、彼らは自分たちのために交渉しに行った2人を責めました。何とかエジプトを脱出できた後、再びファラオの軍勢が追いかけてきたとき、彼らはまたもモーセを責めました。エジプトの軍勢からも解放され、約束の地に向かっていたとき、お腹を空かせた彼らは「エジプトで奴隷をしていた方がマシだった」と言いました。水がなくて喉の渇きを覚えたときも、腹いせにモーセを石で撃ち殺そうとしました。

 

 そう、彼らは争いの絶えない人々だったのです。何か新しい困難にぶつかっては、以前自分たちがどうやって助けられたかも忘れて、すぐに怒りや不満をぶつけようとする困った人たちでした。そもそも、エジプトにいたときから、彼らはイスラエル人同士でも喧嘩をしたり、殴り合ったりしていたことが思い出されます。エジプトを出た後も、公正な裁きを求める人たちの列は途切れなく続き、毎日のように、どうすればいいかモーセは問い詰められていたのでしょう。

 

 モーセの姑エトロがやってきたときも、大勢の人々が彼の裁きを求めて朝から晩まで並んでいました。その様子を目にしたエトロは思わずこう口にします。「あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか」……まあ、言われているとおりです。モーセが一人で、民の全員の相手をするのはどう考えても無理があります。

 

 エトロははっきり「あなたのやり方は良くない」とモーセに語ります。「あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ」……その言葉どおり、こんなやり方を続けていたら、モーセはすぐに体を壊し、民をまとめきれなくなっていたでしょう。

 

 当然、人々の方も、いちいちモーセの判断を待っていられなくなり、弱者が強者に泣き寝入りする場面が増えていたかもしれません。そこで、エトロはこう助言します。「あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい」

 

 ようするに、何か事件が起きたとき、モーセ以外の人間でも、ある程度人々の間を裁くことができるように、基準となる掟と指示を、神様から受けなさいと言ったのです。そう、いわゆる法の制定と施行を勧めたことになります。ちょうど、エトロがこのように助言した後で、モーセとイスラエルの民は、シナイ山で神様から十戒を与えられます。非常に印象的な出来事の配置です。

 

 エトロはさらにこう続けます。「あなたは、民全員の中から神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい」

 

 実を言えば、エトロは特別新しいことをモーセに言ったわけではありませんでした。ある意味当たり前の、最も単純な制度を勧めただけです。そもそも、イスラエル人がエジプト人のもとで強制労働に服していたときだって、これと似たような制度のもとで、彼らは管理されていたのですから。しかし、モーセはこの時まで、何もかも自分一人で行なってきたようです。

 

 彼はエトロに助言されるまで、この方法に気づかなかったのでしょうか? それとも、自分が誰かに頼ること、助けてもらうことなんて考えられなかったのでしょうか? そういえば、この基本的な法体制がイスラエルに勧められたとき、神様は全く姿を現しません。モーセが一人で困っているのに、神様は何も助言せず、助けようとはされなかったのです。いえ、実はモーセの周りには、既に彼を助ける人々が十分与えられていました。

 

【モーセの助け手】

 出エジプト記を読んでいると、イスラエルの民から責められるのは、いつもモーセ1人だったかのように思えますが、実は、モーセが神様に選ばれたときから、彼は既に助け手を与えられていました。そう、「わたしは口が重く、舌の重い者なのです」と言うモーセに対し、神様は雄弁で頼りになる、彼の兄弟アロンも一緒に遣わしていました。アロンは、モーセと共にファラオと交渉に行き、失敗すると自分も一緒に民から責められ、いつもモーセを支える者として歩まされていました。

 

 また、エトロがモーセを訪問する直前に、アマレク人がイスラエル人を襲って来たとき、ヨシュアという頼もしい人物も、モーセを助けて戦闘を指揮していたことが書かれています。その時の戦いでは、モーセが丘の頂で両手をあげている間はイスラエル人が優勢になり、手を下ろすとアマレク人が優勢になったと記されています。モーセは神様に祈って両手を必死に挙げ続けていましたが、当然、手はだんだん疲れて重くなってきます。

 

 そこで、アロンともう一人、フルという人物が、二人でモーセの両側に立って、日の沈むまで彼の両手を支え続け、イスラエルは無事勝利を収めたのでした。実は、モーセが困難な状況に陥ると、いつも彼を支える助け手がすぐ側に与えられてきたのです。さらに、人々の間で何か事件が起きたとき、公正な裁きと判断を下すという役割は、何もモーセが出てくるまで、誰もやらなかったわけではありませんでした。

 

 イスラエルの「長老」と呼ばれる民の指導者たちは、昔から争いごとが起きると、町の門の前で裁判を開き、人々に守るべき掟と指示を与えていたのです。おそらく、エトロが任命するよう助言した千人隊長や百人隊長に、もともと長老であった人々も何人か選ばれたことでしょう。

 

 モーセがエトロの言うことを聞き入れ、その勧めのとおりにしたことを考えると、「神を畏れる有能な人」「不正な利得を憎む人」「信頼に値する人物」も全くいなかったわけではないと分かります。モーセは、それらの人が周りにいながら、誰にも頼ることをしなかったのです。もしかしたら、モーセは怖かったのかもしれません。

 

 人々のためにどれだけ自分が苦労しても、新しい困難にぶつかればすぐに責められ、命まで取られかねなかった。だからこそ、「自分がいなければみんなが困る」という状況を失いたくなかったのかもしれません。

 

 しかし、モーセの限界は、もうすぐそこまで来ていました。そんなとき、突然訪問してきた姑のエトロから、適切な助言を与えられるのです。この場面で、神様は全く姿を現しませんが、そもそもエトロの訪問は、神様がイスラエルのために為された業がきっかけであると、18章1節に記されていました。彼もまた、モーセのために送られてきた助け手の一人だったのかもしれません。

 

【助言したエトロ】

 エトロはモーセの妻ツィポラの父で、ミディアンの祭司であったことが記されています。ミディアンというのは、もともとイスラエルの父祖であるアブラハムと側女ケトラの間に生まれた4番目の息子の名です。北西アラビアの一部族になったと考えられていますが、聖書の中では他の民族とも混同されがちなややこしい部族です。

 

 最初にミディアン人の性格が現れるのは、創世記37章の記述です。ヤコブの息子である兄弟たちは、生意気な末っ子ヨセフに腹を立てて、エジプトへ行く隊商に売り飛ばしてしまいます。その時、ヨセフを買い取った人買いたちが、ミディアン人でした。この箇所や士師記の8章では、よくミディアン人とイシュマエル人が同一視されていますが、おそらく両者の風習や習慣が似通っていたのでしょう。どちらも、後のイスラエルにとってはあまり良い印象を持たない部族となります。

 

 なぜなら、自分たちが約束の地カナンに侵入する際、モアブ人と共に、イスラエルを呪う計画に加わった部族だからです。また、民数記25章、35章には、彼らミディアン人が異教の神々であるバアル信仰を持ち込んできたことが書かれています。出エジプト記が書かれた頃には、既に悪い印象を持たれていたミディアン人から、モーセは適切なアドバイスを受け、助けられることになったのです。神様は意外なところから助け手を与えられます。また、エトロの助言は、彼のひとりよがりな意見でもありませんでした。

 

 彼はモーセに助言する前、「神があなたと共におられるように」と祈り、意見を言った後には「もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができる」と、最終的には神様の意志で全てが決まることを語っています。

 

 モーセは、神様が人々に何を命じているか教えていましたが、自分に何を命じているかは、久しく考えることができていなかったかもしれません。エトロの言葉によって、モーセはもう一度、神様が自分にどうするよう願っているか考える機会を与えられました。

 

【エトロの訪問】

 実は、モーセは自分に与えられていた助け手を、自ら遠くにやってしまった人でもありました。モーセはエトロが訪ねて来るまで、自分のもとにいた妻ツィポラと息子たちを実家の方へ帰していました。ツィポラと言えば、かつてモーセが神様に突然襲われたとき、咄嗟の機転で彼の命を救ってくれた女性です。出エジプト記全体ではあまり目立っていないように感じますが、紛れもなくモーセが最も助けを必要としたときに側にいてくれた重要な人物です。

 

 また、息子の一人ゲルショムは、モーセがイスラエル人とエジプト人の両方の間でいられなくなったとき、孤独な自分を慰めてくれた存在です。もう一人の息子エリエゼルも、神様が自分を助け、救ってくれたことを思い出させてくれる存在でした。しかし、モーセは彼ら自分の家族を、エジプトに連れていった後、すぐミディアンに送り返してしまったようです。

 

 家族を危険に晒したくなかったのかもしれませんが、逆に言えば、イスラエルの民を守ると宣言された神様が、本当に家族も守ってくれるとは信じきれずにいたのかもしれません。彼はせっかく与えられていた助け手と、自ら離れ離れになっていました。しかしそこへ、新たな助け手が彼らを連れてやって来ます。モーセの姑エトロは、かつてモーセに与えられた助け手を、もう一度連れ帰ってきた助け手でもあったのです。

 

【助け手を与える神様】

 私たちは自分が困難な目に遭っているときこそ、自分に与えられている助け手の存在に気づかず、何もかも自分でやろうとしてしまいます。しかし、神様は常に助け手を送り続けてくださるのです。口下手なモーセは、自分の口を助ける者を与えられました。重くなった両手を支える者を与えられました。正しいやり方を見失っているとき、諌める者を与えられました。私たちにも、それぞれ必要な助け手が送られています。

 

 今度の日曜日、教会はペンテコステを迎えます。ペンテコステは、復活して天に昇ったイエス様が、弟子たちに聖霊を送ってくださったことを記念する日です。聖霊は、イエス様を信じて受け入れる人たちの弁護者であり、助け主として与えられました。見えない助け手となって私たちを支え、新たな助け手を、あるいは自ら遠ざけてしまった助け手を、もう一度連れ帰ってきてくれるのです。共に、そのことを思い出しながら、ペンテコステまで、神様を礼拝する準備を続けていきたいと思います。