ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『無謀なカレブ? 臆病な民?』 民数記13:17〜33

聖書研究祈祷会 2018年6月6日

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【攻略困難な土地】

 「主よ、どうか私たちを助けてください。この苦しみから解放してください」……度々、天に向かって訴える私たちの声を、神様は確かに聞いてくれます。そして、私たちが想像する以上に、壮大な解放事業を展開します。ところが、神様が私たちを苦しみから、困難から解放する過程には、私たちにとって攻略困難な壁が必ずと言っていいほど立ちふさがります。

 

 イスラエルの民も叫びました。「主よ、私たちをエジプト人の過剰な強制労働から解放してください!」彼らが願っていたのは、エジプトの王が新しく変わってから、過剰に増やされてきた苦役を減らしてほしいという程度のものだったでしょう。まさか、強制労働そのものから解放され、奴隷状態を脱するところまでいくとは考えていなかったと思います。

 

 ところが、神様は答えます。「分かった、私はお前たちをエジプトから連れ出し、新しい土地を与える。乳と蜜の流れる土地、約束の地を」……そうして、モーセによって率いられた民は、数ヶ月に及ぶ旅の末、たどり着いたカナンの地を目にします。たった一房のぶどうが、一人では担げないほど豊かに実る肥沃な土地を。

 

 しかし、問題がありました。この土地に偵察へ行ってきた12人のスパイは、27節でモーセにこう報告しています。「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行って来ました。そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました……」

 

 かたや、エジプトから脱出してきた何の武装もしていないイスラエル人、かたや、この土地にもともと住み着いていた好戦的な部族たち……明らかに、こちらが勝てる見込みのある相手ではありません。神様はどう考えても、攻略困難な土地を「約束の地だ」と言って与えたのです。現代の私たちに例えるならこんな話です。

 

 ある人が祈ります。「主よ、私を低賃金で働かせ、休日もとらせず、残業代も出してくれない上司から解放してください!」神様は答えます。「分かった、私はお前を劣悪な労働環境から連れ出し、新しい職場を与えよう」……そうして会社をクビにして、素晴らしい立地条件のテナントに引っ越させたのです。

 

 いやいや神様! 確かにここは法務局の側で県庁も近くて、起業するにも仕事をするにも便利な所です。しかし、だからと言って、素人の私に会社を作れと言いますか? 期待はずれです! 私は上司がもう少しだけまともな人に変わってくれたらそれで良かったのに!……そうなのです。神様は私たちに「期待以上のもの」を与えるために、「期待外れな所」へ連れていくのです。

 

【無謀に思える説得】

 新しい土地を偵察に行ってきた12人の報告を聞いて、長旅に疲れていたイスラエルの民も唖然とします。そんなバカな! 3ヶ月以上歩いてきて、やっと約束の地に着いたと思ったのに、これから先住民を相手に戦えと言うのか? ところが、偵察に行ってきた12人の一人、ユダ族のカレブは、モーセに向かってこう進言します。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます」 

 

 必ず勝てる? いったい何を根拠に言っているのでしょう! 彼と11人の偵察者はその目で見たのです。約束の地を闊歩する、巨人のようなアナク人を。「アナク」は「首が長い」という意味で、エジプトの文書によれば、紀元前2000年頃には、既にパレスチナに住み着いていました。

 

 この人々は「ネフィリムの出だ」と噂されますが、ネフィリムというのは創世記6章に出て来る半神的な存在です。その子孫の多くが英雄になったと言われるほど、戦闘的に優れた人々です。彼らに比べれば、イスラエル人はまるで簡単に踏み潰されてしまうイナゴのような存在です。人々が怯えてしまうのも無理はありません。

 

 さらに、29節の報告ではこうも言われています。「ネゲブ地方にはアマレク人、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人、海岸地方およびヨルダン沿岸地方にはカナン人が住んでいます」と。

 

 アマレク人は、イスラエル人がエジプトから脱出して間も無く、最初に攻撃を仕掛けてきた民族です。アモリ人は紀元前2000年初頭にシュメール王国のウル第3王朝を倒した民族。そしてカナン人とヘト人は、エジプト人と兄弟で、同じ頃、シリアで勢力を振るっていた民族でした。

 

 お聞きの通り、ポッと出のイスラエル人が敵う相手ではありません。こちらには大した武器はなく、「占領する」なんて大口叩けるほど戦闘に優れた人々でもありません。カレブの言っていることは明らかに無謀です。愚かです。笑い話にもなりません。一緒に偵察から戻ってきた他の11人も反対します。「いや、あの民に向かって上っていくのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」と。

 

 しかし、本当にカレブの言っていることは無謀なのでしょうか? 確かに、普通に考えたら「必ず勝てる」なんて言えるわけがありません。しかし、カレブには確信がありました。イスラエルをエジプトから連れ出した神様、主が共におられるなら、我々はどんな敵にも必ず勝てると。

 

 エジプトを脱出した民に向かって、ファラオの軍勢が戦車を伴って追いかけてきたとき、普通なら勝てるはずはありませんでした。しかし、戦う力のないイスラエル人に代わって、神様はエジプトの戦車から車輪を外し、海に呑み込ませ、全軍隊を壊滅に追い込みます。

 

 アマレク人と最初に戦ったときも、神様は不利だったイスラエル人を優勢に変え、最後にこう宣言しました。「わたしは、アマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る」「主は代々アマレクと戦われる」と。イスラエルをエジプトから脱出させた神様こそ、ありえない勝利、ありえない解放をもたらす方でした。

 

 そう、実はカレブの言っていることの方が、経験に基づいた確かな話でした。約束の地を偵察に行ったのは12人だけですが、エジプトから今日に至るまで、神様の救いの業を見てきたのはイスラエルの全部族です。

 

 自分たちを苦しめてきたエジプト人に、十の災いをもたらした神様、ここへ来るまで毎日のように、雲の柱と火の柱で導いてくださった主、その主が共におられるなら、約束してくださったことなら、この土地は必ず手に入る……そう信じられる根拠を、神様はいくつも与えてきたのです。

 

【約束の土地を拒否する民】

 ところがどっこい、民全体は声をあげて叫び、夜通し泣き言を言い始めます。「神様、今回もどうか助けてください」なんて願うことはありません。彼らは一斉に自分たちを率いてきたモーセとアロンに不平を言います。「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ」

 

 出ました! 「エジプトにいた方がまし」宣言! 出エジプト記の14章でも、16章でも、17章でも、民がモーセに向かって叫んだ言葉です。彼らは苦しみから解放される過程で困難に出会うと、神様に助けを求めるどころか「何もされない方がましだった!」と言うのです。それも繰り返し、何回も、です。

 

 しかもこのとき、民は痛い目を見たばかりでした。というのも、モーセが出かけている間に、民は金の子牛の像を造って、偽物の神を崇め、本当の神様から怒られていたからです。実に、民の中から3000人の人々が剣にかかって死にました。神様を信頼しない結果、自分たちがどうなってしまうのか、身をもって経験した後でした。後でしたが、彼らは再び罪を犯します。

 

 「さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう」……私たちは、自由になることを望んでいるようで、実は自ら奴隷になろうとすることが多々あります。これだけ神様の近くにいた民でさえ、奇跡を目の当たりにしていた人々でさえ、繰り返し人間の支配下に戻ろうとするのです。神様も呆れ果ててこう言います。

 

 「わたしの栄光、わたしがエジプトと荒れ野で行なったしるしを見ながら、十度もわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった……」出エジプト記を読んでいるときから、私たちは、十の災いを受けたエジプトのファラオとその民が、かたくなに神様に従わないイスラエルを映し出す鏡のようになっていると聞いてきました。まさに今、神様の口から、そのように言われてしまいます。「あなたたちはかたくなな民だ」と。

 

 イスラエルの民は、期待していた以上のものを受けるとき、期待外れな場所へ連れてこられたと喚き立て、自分たちを奴隷とするエジプトへ引き返そうとするのです。私たちもしばしば同じことをしているかもしれません。しかし、神様はご自分の声に聞き従うカレブのような存在を、共同体の中に必ず見出してくださるのです。

 

【ある教会の話】

 ある教会が、建物の老朽化で悲鳴をあげていました。会衆は2階で礼拝をささげていましたが、教会全体が徐々に傾き、いよいよ階段を登ることが危険になってきました。「このままではいけない、この建物を出なければ!」そして、新しい会堂を建てる計画が始まったのです。

 

 しかし、会員数が20名にも満たない平均70歳以上の小さな教会です。予算も300万円ありません。そんな中、神様から示された新会堂の建築計画には、6000万円以上の資金が必要でした。素晴らしい音響、素晴らしい設備、地域の人々にも活用してもらえる豊かな教会堂のビジョンが与えられます。

 

 しかし、どう考えても、自分たちにそんな教会を建てる力はありません。古い会堂を出て、他の会場を借りながら礼拝を続け、人々は「前の会堂で礼拝を続けていた方がましだったかもしれない」と考えます。期待はずれです。どうすれば良いと言うのでしょう!

 

 すると、そのとき一人の会員が声をあげます。牧師ではありません。年老いた一般信徒です。彼は新任の牧師と希望を持てない会衆にこう勧めます。「先生、まずは神様に祈りましょう。毎日同じ時間にみんなで集まって祈りましょう。神様にできないことはありません」……そうして、毎日午後3時に会衆みんなで集まって、新会堂建築のための祈りがささげられるようになりました。

 

 やがて、その教会には、思ってもみないところから少しずつ献金が集まり、会衆も懸命に献金をささげ、非常に美しい、素晴らしい会堂が建ちました……お気づきになった方もいるでしょう。そう、去年まで、私たち華陽教会を会場に借りて礼拝をささげていた、あの教会の話です。

 

 そこの牧師先生は、はじめこの信徒から「祈りましょう」と聞いたとき「正直、何を言っているのかと思った……」と告白されました。そんな場合じゃないだろう。どう考えても300万円ない予算で会堂なんて立つわけがないだろうと……「しかし、このとき『祈りましょう』と勧めてくれた信徒さんこそ、イエス様だったのです」そう先生は語ってくれました。

 

【神様の罰とカレブの出自】

 思ってもみない人が、誰に聞き従うべきか、誰に頼るべきかを教えてくれます。実は、イスラエルで唯一神様の言葉に忠実であったカレブという人物……その詳細を調べていくと、私たちはさらにショックを与えられます。そもそも、カレブという名前はヘブライ語で「犬」という意味で、奴隷を表現したりする言葉です。

 

 ヨシュア記において、カレブは「ケナズ人」としても出て来ますが、このケナズが創世記36章11節の「ケナズ」だとすると、エドム人ということになり、カナンに先住していた部族とのつながりを匂わせます。ようするに、カレブは異民族の出と思われるふしが多いのです。神様の命令に忠実に従って、約束された土地に最初に入った人物が純粋なイスラエル人ではないカレブだった……これは後のイスラエル人にとっても衝撃的な話です。

 

 人間を苦しみから解放しようとする神様の計画はあまりにも壮大です。私たちが期待する以上のことを実現します。エジプトの過剰な強制労働に苦しむ人々を奴隷状態そのものから脱出させ、ローマ帝国の支配に苦しむ人々を罪と死の支配から解放されます。さらに、思ってもみない人々を用いて、この計画を実行されます。

 

 私たちは、その度に、「いえいえ、無理です」「こんな壮大な話になるなんて聞いていません」と怯えてしまいます。しかし、神様の力は全てを覆します。思い出しましょう。神様に祈り、期待外れなところへ連れてこられたと感じたとき、私たちが期待している以上のものが与えられると……神様は意外な存在を用いて、ありえない解放をもたらす方だと。そして、その業に私自身の小さな力も用いられるのだと。

 

 主は、生きておられます! アーメン。