礼拝メッセージ 2018年6月10日
【神から悪霊が送られる?】
「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった」……子どもの日・花の日の礼拝で、あまり子どもに聞かせたくない言葉が読み上げられました。主から来る悪霊? 神様から悪霊が送られる? そんなこと、ちょっと教会学校じゃ話せません。
古代においては、たとえ悪霊であっても、神様の許可がなければ人を悩ますことはできないと考えられていました。確かに、「悪魔は堕天した天使だ」なんて言われたりもするので、そう考えれば「主から出て」きたと言うのも納得できないことはありません。とはいえ、なかなか厄介なところです。
神様は悪霊が悪さをするのを許してしまうのか? 悪霊を止めてはくれないのか? それどころか、神様が人に悪霊を送ることさえあるというのか? 様々な疑問が不安と共に押し寄せてきます。
しかもこの話、少年ダビデが神の霊を受けた直後の話です。なんで今日の聖書日課は、子どもの日なのに、直前の箇所ではなく、こっちの箇所を選んだのでしょう? おかげで私は、悪霊に悩まされるサウルのごとく、月曜日から頭痛がしています。もう旧約の方は無視して、今日のメッセージの中心である新約だけを取り上げようかと思ったほどです。
しかし、2つの聖書箇所を読んでいて、私は重要なことに気づかされました。皆さんが今聞いた旧約と新約の話、どちらも悪霊が追い出されるエピソードでした。しかし、どちらの悪霊も、それなりに神様の役に立ってしまいます。まずはサウルの方から見てみましょう。彼はこの少し前に、神様の命令に従わないで背いてしまいました。それが原因で、神の霊はサウルから離れ、代わりに悪霊が送られてしまいます。
「わたしはあなたと共にいる」……繰り返しこう人々に語ってきた神様が、「離れてしまう」という記述は、かなりショッキングです。しかも、この悪霊はサウルの精神を錯乱させ、彼をひどく苦しめました。
心配した王の家臣が、彼に向かってこう助言します。「あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。私はベツレヘムで竪琴を巧みに奏でるエッサイの息子に会いました。悪霊があなたを襲うとき、彼に竪琴を弾かせれば、その音色で、きっとご気分が良くなります」
そうして、エッサイの末っ子ダビデが王宮に召し出され、イスラエルの政府関係者と親しくなります。本来なら、王と何の血縁関係もない、田舎に住む羊飼いに過ぎない少年が、これから新しい王として支持を受ける可能性なんて、どこにもないはずでした。少なくとも、我々人間の目から見たら……ところが、悪霊がサウルを苦しめたことをきっかけに、ダビデ台頭の歴史が始まっていくのです。
ダビデを新しい王として選んだ神様の計画が、着々と進んでいく様子……おっと、余計に困ります。聖霊ならともかく、悪霊が神様の計画に貢献するなんて! 悪霊は悪霊らしく、悪いところから出て、悪さだけをしていてくれれば、私たちにも理解しやすいのですが、聖書の記述は繰り返し私たちを混乱させます。
【悪霊が人に伝道させる?】
さらに、新約の方ではもっと驚くことが報告されています。パウロとシラスが、マケドニアでの宣教を開始し、フィリピの街へ行ったときの話です。2人は、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取り憑かれた女奴隷と出会います。「占いの霊」と訳されているのは、もともとギリシャ神話に登場するアポロンの化身「ピュートーンの霊」です。
ようするに、ユダヤ人から見れば、人々に向かって異教の神々を宣伝し、偽りの信仰へと導く悪霊だったわけです。ところが、彼女はパウロとシラスについて、事実を正確に語り始めます。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです!」
その通りです。間違っていません。キリストの弟子について彼女は正しいことを言っています。しかも、それを人々に宣伝しています。まるでキリスト教を広めようとする宣教師のように……困ったことに、悪霊に取り憑かれていない私たちよりも熱心に、彼女はキリスト教を宣伝しています。悪霊にこんなことされては我々の面目も丸潰れです。
実は、マタイ、マルコ、ルカによる福音書でも、悪霊は度々、事実を正確に語っていました。マルコによる福音書1章24節では、汚れた霊がイエス様に向かって叫びます。「お前の正体は分かっている。神の聖者だ!」……はい、その通りです。
また、5章7節では、汚れた霊が大声で「いと高き神の子イエス」と呼びかけます。アーメン(本当にそうです)としか言いようがありません。さらに、ルカによる福音書4章41節では、多くの人に取り憑いた悪霊たちが「お前は神の子だ」とイエス様に言ってきます。どうも悪霊たちは、すすんでキリストのことを世に知らしめているようです。
なんということでしょう! 聖書の中でキリストを「神の子」と告白したのは、もしかすると人間よりも悪霊の方が多いかもしれません。キリスト者として、屈辱を感じずにはいられない話です。しかし、問題はさらに続きます。パウロとシラスは、この女性を幾日も放っておくのです。
色んな意味でまずいことです。この女性は占いの霊に取り憑かれています。もともとは本当の神でないもの、ピュートーンを神として予言してきた女性です。聖書に出てくる悪霊をどう解釈するかは意見が分かれるでしょうが、少なくともこの女性は、自分の意志に関係なく、この霊に従わされているようでした。本来助けるべき存在です。
さらに、彼女は奴隷でもあります。主人たちから商売に利用されていました。彼女は悪霊と人間に囚われた、解放されるべき女性でした。それなのにパウロとシラスは、しばらくの間無視します。自分たちのことを「神の僕だ」と宣伝してくれるこの女性を、そのままにしておいた方が、便利だったのでしょうか?
確かに、並みのCMや広告よりも効果がありました。なにせ、この女性の占いによって、主人たちは多くの利益を得ていたのですから。彼女が語ることに対する人々の信頼は厚く、その言葉を聞いて、次々と2人のもとへ市民が集まってきたと想像できます。キリストの十字架と復活を宣べ伝えるには、素晴らしい状況が整っていくわけです。
しかし、パウロははっきりとこの女性にイライラしていたことが書かれています。確かに、幾日もついて回られ、自分たちのことをこんな風に宣伝されては心も休まりません。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」……そんなふうに言ったイエス様と同じ状況が、パウロとシラスにも訪れます。それでも、だいぶ長いことパウロは耐えていました。
しかし、彼はようやくたまりかねて、その霊に向かって言うのです。
「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」
すると、霊は即座に女から出て行きました。彼女は解放されます。もう自分の意志に関係なく占いをしなくていいのです。主人たちも、好き勝手彼女を利用できなくなります。一瞬で解決です。早いとこパウロがこう言えば、彼女はもっと早く解放されていたのではないでしょうか?
【悪霊追放の代償】
ところが、女性が解放された瞬間、今度はパウロとシラスの自由が奪われます。この女性の主人たちが、金儲けできなくなったことに腹を立て、2人を役人に引き渡したからです。なるほど、パウロはこの状況に陥ることを分かっていたのでしょう。なにせ、彼もローマに市民権のある人物です。市民の商売を結果的に邪魔すればどうなるか、十分理解していました。厄介なことにならないよう、女性をやり過ごすつもりだったのかもしれません。
しかし、そうは問屋が卸しません。悪霊は、自分から追い出してもらいたいかのように、いつまでも、どこまでも、パウロとシラスについて回ったからです。おっと……話が大きくなってしまいました。ローマ市当局に目をつけられないように、大人しく、スマートに、神の言葉を宣べ伝えるわけにはいかなくなりました。
今や2人は、自分たちの教えがローマ社会の風習から見て、受け入れることも実行することも許されないものであると暴露されてしまいます。現人神とされたローマ皇帝ではなく、イエス・キリストを神の子として礼拝する異端者だと。
2人はローマの市民から敵として訴えられました。彼らの風習、彼らの掟、もっと言えば、彼らの政治と社会に深刻な影響を及ぼす教え、変革を促す教えだということが、思想犯・政治犯として捕えられた瞬間、公にされてしまったのです。
皆さん、お分かりでしょうか? キリスト教が私たちに求めているのはこういうことです。あなたの内面、あなたの生き方だけが変わったと言って満足しないのです。聖書が、あなたの生き方に変化を求めるということは、あなたの属する共同体に、あなたを取り巻く社会に変化を求めているということです。それも、あなたが行政に基づいて捕えられ、司法機関に引き渡されるほどに……神様ってほんとに容赦がないのです。
さて、群衆たちは、女奴隷の主人と一緒に2人を責め立て、高官はパウロとシラスの服を剥ぎ取ります。さらに何度も鞭で打ってから、牢屋の中に閉じ込めてしまいました。看守は牢の鍵を閉める前、2人に木の足枷まではめていきます。
女性から霊を追い出して、ここまでされるのですから、パウロが長いこと我慢して耐えていたのも分かります。私たちだって、いくら目の前の人物を助けなければならないと分かっていても、これはさすがにためらうでしょう。
【思いがけない伝道】
ところが、ふと思い出されます。パウロも正当な司法手続きを受けられるローマ市民であったことを! 裁判を受けるまでは、不当な拘束から守られるはずの権利を有していたことを! しかし、彼はなぜかそれを言いません。鞭で打たれているときも、足枷をはめられたときも、黙ってシラスと一緒に耐えているのです。
さらに、真夜中になると、捕えられた部屋の中で、2人は賛美の歌を歌い始めます。気でもおかしくなったのでしょうか? 女性に取り憑いていた霊が、今度は2人に憑いてしまったのでしょうか? いえいえ、そうではありませんでした。この状況で、手足が自由にならず、どこにも出ていけない状況で、神様は2人に伝道させるのです。
突如、大きな地震が襲います。牢屋の土台が揺れ動き、扉の鍵が外れ、たちまち全ての牢の戸が開いてしまいました。ありえないことに、囚人たちを繋いでいた鎖も一気に外れてしまいます。これは大チャンスです。パウロとシラスはいつでも逃げ出すことができます。囚人たちの逃亡による混乱に乗じて、看守たちから解放されるチャンスでした。
運の悪い看守は、目を覚まして自分の管理する牢がめちゃくちゃになっていると気づき、サッと青ざめます。扉は開き、鎖は外れ、きっと囚人たちは誰一人残っていないでしょう。犯罪者が街に野放しです。とても責任を負いきれません。彼はその場で剣を抜いて、自ら命を絶とうとします。
その時、大声で叫ぶ者がありました。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」それは、ついさっき自分が牢にぶち込んだばかりのパウロでした。なんと2人は、この大チャンスを棒にして、監獄に残っていたのです。
看守が慌てて明かりを照らすと、パウロとシラスの他、他の囚人たちも全員お行儀よく残っていました。扉だけが壊れ、全ての鎖が外れるというあり得ない現象、普通なら逃げているはずの囚人が全員残っている状況……これらを前にして、看守は認めざるを得ませんでした。
あの女奴隷が言っていたとおり、この2人は神の僕だと……パウロとシラスを外へ連れ出した彼は、ひれ伏してこう言います。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか?」2人は答えます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」そして、彼とその家の人たち全員に神様の言葉が語られました。
この後、看守は2人の打ち傷を洗い、「自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた」とあります。家族の一人が信仰告白をしたことによって、その家族全員が、子どもから大人までみんな洗礼を受けたのです。そのため、ここは幼児洗礼の聖書的根拠となった箇所でもあります。
実は、フィリピに到着して、最初にパウロが洗礼を授けたのも、彼の話を注意深く聞いていたリディアという女性と、その家の家族たちでした。今日は先ほども言ったように、子どもの日・花の日として礼拝を守っていますが、フィリピにおける伝道の始まりに、女性の家族、看守の家族が、子どもたちも一緒に洗礼を受けたことは非常に喜ばしい報告です。
しかし、これはパウロたちが予想していたことだったのでしょうか? パウロは、女性や子どもを大事にするよう手紙に書き残していますが、彼自身が女性や子どもをそこまで好きだったとは思えません。けっこう差別的な発言、問題のある言葉も残しているからです。
にもかかわらず、新しい土地でパウロが最初に遣わされたのは、彼の苦手な女性や子どものいる所でした。さらに、その次に彼が遣わされたのも、囚人や看守のいる所でした。もともと、彼らが行こうとしていたのは「祈りの場所」です。決して監獄ではありません。彼らはいつも、新しい土地に着いたら最初にユダヤ人が礼拝している会堂へ行き、そこで教えを語ってから、各地へ出て行きました。今回もそうなる予定だったのです。
しかし、占いの霊に取り憑かれた女性のおかげで、予定は台無しになりました。彼女が自分たちを宣伝してくれたおかげで、ユダヤ人ではなくローマ市民が集まってきました。彼女が自分たちについて回ったおかげで、想像もしていなかった監獄という場所で伝道することになりました。
お行儀のいい、自分たちに好意的な市民ではなく、手グセも口も悪い囚人たちや、偉そうな看守たちのいる所へ……そして思いがけず、その人たちは賛美の歌に耳を傾け、神様の言葉を聞いて、洗礼を受けていったのです。
【神様の支配下にいる悪霊】
こうして見ていると、悪霊や汚れた霊といったものは、人間を神様から引き離そうとする存在でありながら、実質、神様の支配を避けられない存在だと分かってきます。神様から来たものは、神様に帰って行かざるを得ないのです。彼らは、神様の計画を邪魔するどころか、手伝ってしまいます。私たちが、悪魔や悪霊に煩わされていると感じるときこそチャンスです。私たちが思ってもみない計画が、御業が展開されるときです。
一番初めに、少年ダビデが竪琴を奏でることによって、サウル王から悪霊を追い出す話を聞きました。神様が自分に背いたサウルから離れてしまったという記述、代わりに悪霊が送られてきたというショッキングな話……しかし、その後不思議な矛盾が起きていることに気づきます。
サムエル記上16章23節で、彼から離れたはずの「神の霊」が、「サウルを襲う」という記述が出て来るからです。悪霊と神の霊がごっちゃになっているかのように感じます。しかし実は、離れたはずの神の霊が、サウルを襲うとき、彼に近づいたときこそ、悪霊が追い出されるときでした。主の霊は結局のところ、サウルを懲らしめたけれども、彼を離れることはなかったのだと思わされます。
神様は、自分から離れた者に繰り返し悔い改めを求めました。自分との関係を回復するチャンスを与え続けて来ました。悪霊でさえ、その主の意志に反することはできません。人々を洗礼へと、神様に結びついた関係へと、回復する計画を止めることはできません。
さらに、神様とあなたの関係が回復されたとき、あなたの家族、あなたの属する共同体、あなたが生きる社会の変革も止められません。神様はご自分と結びついた人たちに、神様の愛と教えに生きる世界の実現を求められるからです。
夜が明けました。救いの道を宣べ伝えに、出て行きましょう。