ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『そんな計画ありですか?』 エステル記4:5〜17、マルコによる福音書6:14〜29

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礼拝メッセージ 2018年6月24日             

【ギョッとする計画】

 今日は日本基督教団創立記念日であり、同時にこの後、私の就任式が行われます。そんな日に、なんてところを話すのだろう! と思われたかもしれません。教団の出版局から発行されている『信徒の友』をご覧になれば分かるとおり、本来なら、今日は使徒言行録13章13節から25節が読まれるはずでした。

 

 ピシティア州のアンティオキアで、人類を救済する神様の計画について、パウロがメッセージをしたところ……こちらの方が、教団の創立記念日としても、牧師の就任式としても、ありがたいメッセージを受け取れそうです。実は、日本基督教団の聖書日課では、旧約、福音書、手紙、詩編という4つの中から、日曜日に読む箇所を選べるようになっています。

 

 先ほど読んだエステル記とマルコによる福音書は、この中から私が選んだものです。どちらも、使徒言行録の記事と同じく、「神様のご計画」というテーマで選ばれています。神様のご計画……何ともありがたい計画のように聞こえますが、その実、行われていることはめちゃくちゃです。

 

 人類のために、神様が自分の子どもを犠牲にして、十字架につけてしまうという計画。ユダヤ人を虐殺から救うため、一人の女性に死を覚悟させる計画。そして、救い主キリストに洗礼を授け、その道を整えたバプテスマのヨハネには、残虐な処刑から逃れる道が、用意されていない計画……どれも、冷静に考えればギョッとする話ですよね。

 

 神様の計画は、私たちが期待するほど穏やかに、平安に事を進めてはくれません。どれくらい計画が進行しているのか、これから何が行われていくのか、私たちの目には見えません。ただ一つ、「どのような出来事も神様の計画を阻止できない」ということだけは、私たちにはっきり語られます。問題は、計画の内容がおおかた理解できないところです。

 

 

 

【ユダヤ人の危機】

 最初に読まれたエステル記は、あまり皆さん読まれたことがないかもしれません。なにせこの書物は、一言も「神」について直接言及がなく、旧約聖書が成立するまで、聖典に含めるかどうかも、長いこと議論されてきたものです。この書物が書かれたのは、ペルシャの王キュロスがバビロニアを滅ぼした後の時代でした。

 

 王は、ユダヤ人たちに故郷イスラエルへ帰還する許しを与えていましたが、多くのユダヤ人は、荒廃したエルサレムに帰るより、そのままペルシャに留まることを選びました。彼らは寛容な王のもとで、しばらく平和に暮らしていましたが、ある日事件が起きてしまいます。

 

 王の大臣であるハマンに対し、ユダヤ人のモルデカイが敬礼を拒否したため、ユダヤ人全体が怒りを買ってしまったのです。ハマンは王をそそのかし、数ヶ月後にユダヤ人を絶滅させる法律を制定させてしまいます。しかし、絶体絶命の危機だったイスラエルに、一筋の光が差しました。

 

 モルデカイの養女であったユダヤ人の女性エステルが、クセルクセス王の王妃として召し出されていたのです。彼女の頼みであれば、王はユダヤ人絶滅の命令を取り消してくれるかもしれません。ただし、問題がありました……王妃とはいえ、王から呼ばれもしないのに、突然王宮の内庭に入れば、死刑に処せられる恐れがあります。

 

 死刑を免れる条件は一つだけ……やってきた王妃に、王が金の笏を差し伸べてくれた場合のみです。機嫌が悪かったり、もう自分に興味をなくしたりしていたら、その場で処刑が確定します。しかも、この時エステルは、30日にわたって王からの呼び出しを受けていませんでした。つまり、王は自分に飽きてしまった可能性が高かったわけです。

 

 モルデカイはエステルに対し、「自分の民族のため、王に寛大な処置をするよう頼みなさい」と言いますが、エステルは冷静に直訴の難しさを訴えます。ところが、モルデカイはなかなか厳しい言葉を突きつけます。

 

 「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時にあたって、あなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるに違いない」……

 

 もう、ほとんど呪いというか、脅しに近い言葉ですよね。もともとは、モルデカイ自身の態度が原因で、ユダヤ人全体に危機が迫っているわけですが、その後始末を、彼に従順で、素直な1人の女性が行わなければなりません。彼女の立場は非常に厳しいものです。「王妃の地位についてしまった」という事実が、エステルに責任と使命を負わせてきます。

 

【使命と責任】

 私も華陽教会の牧師になって、2ヶ月が過ぎようとしています。「ここの牧師になってしまった」という事実が、私に責任と使命を負わせてきます。礼拝の後で、私たちは互いに誓約を交わします。牧師は、御言葉の奉仕者としてふさわしい発言と行動をするように、教会員は、牧師の説く真理に聞き従い、牧師に対して従順であるように、約束し合います。

 

 しかし、正直私はこの誓約の言葉が嫌いです。特に、教会員の皆さんに「私に従順であるよう」求めるところが嫌いです。それは別に謙遜からではありません。皆さんが私に従順になることで、私の言動が、皆さんに誤った考えや行動をさせるかもしれません。下手をすれば、皆さんを滅びの道に導いてしまうかもしれません。神様の計画を、台無しにしてしまうかもしれません。

 

 そんな責任負いたくないのです。私は皆さんに自分で考えて、自分で行動してほしい。私に従うなんて危険なことをせず、自己責任でクリスチャンをやってほしい……しかし、自信がない牧者に対し、神様は容赦なく要求をしてきます。「主の栄光のためにその身をささげ、牧師としての職務を忠実に果たしなさい」

 

 30日にわたって王からのお召しがなく、計画を遂行する自信がなかったエステルに対しては、こう語られました。「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」……彼女は答えます。

 

 「スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります」

 

 モルデカイに従順であった彼女は、その姿勢を貫きますが、もはや単に、言うことを聞くだけの存在ではありません。彼女は自分を育て、教えてきた人物に命じます。「スサにいる全てのユダヤ人を集めてください」「私のために三日三晩断食させてください」……簡単なことではありません。それなりに無茶なお願いを、彼女はひるむことなく要求しました。

 

 神様の計画に導かれるとき、私たちもう、単なる主従関係ではないのです。私は皆さんが自分に倣い、自分に聞き従うことを恐れず、その発言と行動を整え、晒していく義務があります。皆さんは私の言うことにただ聞き従うのではなく、牧者として相応しい振る舞いと導きを私に求め、要求していく義務があります。

 

 私たちは、人間の尺度なら、普通無茶に思えることを互いに求め、それを神様が実行させてくれると信じ、行動することが勧められています。エステルとモルデカイも、そのような行動を促され、そのように行動していきました。すなわち、エステルは王へ直訴するよう命じたモルデカイに断食を命じ、モルデカイはエステルの頼まれたとおり、聞き従います。

 

 エステルは、ユダヤ人全体の執り成しを受けて、王宮の内庭に入っていきました。王は彼女を見て、満悦の面持ちで、金の笏を差し伸べます。第一関門クリアです。王は上機嫌でこう言います。「王妃エステル、どうしたのか。願いとあれば国の半分なりとも与えよう」

 

 エステルは慎重に、自分が主催する宴会に王とハマンを招き、ハマンが自分たちユダヤ人を不当に滅ぼそうとしていることを明かします。王は激怒し、ハマン自身がモルデカイを吊るすために用意していた高い柱に、彼を吊るしてしまいました。その後、エステルの願いによって、ユダヤ人絶滅の法律は取り消され、人々は滅亡の危機から脱したのです。

 

【義人が殺される】

 ……めでたし、めでたしの話でした。今日のメッセージもここで終わりたいところです。しかし、私たちは先ほど、マルコによる福音書から、もう一つ別の話を聞きました。それは、イエス様に洗礼を授けたバプテスマのヨハネが、首をはねられてしまう出来事です。ここでは4人の人間が登場します。

 

 ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスと、その妻ヘロディア。ヘロディアの娘と洗礼者ヨハネです。ヘロデとヘロディアは、叔父と姪の関係でした。ユダヤ人の掟では、本来結婚が許されない関係です。洗礼者ヨハネは、2人の結婚は律法で禁じられていると、はっきり告げます。

 

 それが原因で、彼はヘロディアから恨みを買い、牢に繋がれてしまいました。しかし、ヘロデ・アンティパスは、捕まえたヨハネが聖なる正しい人であることを知って、彼を保護します。その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けます。不思議な話です。彼を当惑させるヨハネの言葉は、彼を喜ばせもします。皆さんに驚きとショックを与える聖書の言葉は、同時に皆さんを新しい生き方へと招きます。

 

 ところが、ヘロデ・アンティパスは、まさに自分の誕生日、新しい人生を歩み始めるはずだった日に、後退してしまいます。彼は、ガリラヤの有力者たちを招いて、盛大な宴会を催していました。その時、ヘロディアの娘が入ってきて、踊りをおどり、彼とその客を喜ばせます。

 

 「娘」と訳されている言葉は、エステル記の七十人訳で、エステル自身を指しているギリシャ語と同じ単語です。つまり、当時の結婚適齢期を迎えた女性でした……ヘロデ・アンティパスたちの前で、大人になった彼女は、少しセクシーなダンスを見せたのかもしれません。男たちは手を叩いて喜びました。上機嫌になったヘロデは、少女にこう語ります。

 

 「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」……どこかで聞いた言葉です。そう、ユダヤ人を救うため行動したエステルに対し、クセルクセス王が語った言葉……しかし、少女はエステルと違って、自分の民族を守るため、自分の頭で考えて、要求をするわけではありません。彼女は母ヘロディアに従って、「洗礼者ヨハネの首を、盆に載せていただきたい」と願うのです。

 

 少女は従順でした……母ヘロディアに。少女が王に呼ばれもしないのに宴会の席へ入ってきて踊ったことは、下手をすれば「領主の娘がハシタない!」と激怒され、何らかの罰を受けてもおかしくないことでした。リスクがありました。しかし、おそらく母親からそうするよう命じられたのでしょう。彼女は言われるまま踊り、言われるまま王に要求します。自分の命を危険に晒す行為でありながら、まるでロボットのように……。

 

 憐れな少女です。きっと神様から正当な裁きを受けるのでしょう。あのモルデカイを木に吊るそうとしたハマンのように、ヨハネを殺そうとした彼女は、逆に裁きを受けるのでしょう。ところが、物語はそうは進みません。自分が保護していたヨハネを殺せと言われ、ヘロデ・アンティパスは非常に心を痛めますが、客の手前、もう後には引けませんでした。彼は衛兵を遣わし、ヨハネの首を切らせ、盆に乗せて少女のもとへ持って行かせます。

 

 最初から最後まで、洗礼者ヨハネの抵抗や呻きは一切記されません。自分が殺されることに、彼は何一つ反応できません。神様にずっと従ってきたのに、イエス様のために道を整えてきたのに、彼の命はあっさり奪われてしまいます。これが神様の計画です。罪人が裁かれず、正しい人が殺される……

 

 あの少女は、いったい報いを受けたのか? あの母親は、何かしらの罰を受けたのか? 聖書は語ってくれません。ハマンが裁きを受けたようには、私たちをスカッとさせてくれません。生々しいヨハネの死で終わり、私たちは非常に後味が悪い印象を受けます。

 

【少女は誰だった?】

 しかし皆さん、この時の少女はいったい誰だったのでしょう? 少女に指示をした母親は、客の手前正しいことができなかった父親は、いったい誰なのでしょうか?……認めたくないかもしれませんが、これは私たちの姿です。ヘロデであり、ヘロディアであり、少女である存在は、私たちです。本来裁かれるべき罪人なのに、逆に正しい人の首をはねてしまう存在……それが私たち人間です。

 

 エステル記では、王をそそのかし、ユダヤ人を虐殺しようとしたハマンが、木の柱に吊るされました。しかし、マルコによる福音書では、意外な人物が罰を受けます。木に吊るされたのは、自分で考えず、ただ母親の言うことに聞き従った少女ではありません。恨みに支配された母親でもありません。正しさより保身をとった父親でもありません。

 

 木に吊るされたのは、何一つ罪を犯さず、人々を癒してきた、あのイエス様です。全ての人の罪を背負い、十字架にかかって死んだイエス様……洗礼者ヨハネは、その道を整えました。裁かれるはずだった少女の代わりに、彼は首を切られました。イエス様も、ヨハネがどのように殺されたかを聞きました。その後から、主はご自分が十字架につけられて、木に吊るされて殺される未来を、打ち明けるようになったのです。

 

 どの福音書でも、イエス様は洗礼者ヨハネが殺された後に、ご自分の十字架による死と復活を予告し始めます。生々しい洗礼者ヨハネの死は、これから起こるイエス・キリストの十字架と復活を示したのです。本来裁かれるはずの人々に代わって、木に吊るされ、罪を贖い、新しい生き方を与えられる……そんなお方がやって来た。わたしはその方の履物を脱がす値打ちもない……ヨハネは生涯にわたって、そのことを示しました。

 

 神様のご計画は、本当にとんでもないものです。私たちがそう簡単に理解できるものでも、素直に受け取れるものでもありません。しかし確かに、私たち全ての人間を、救いへと導く計画です。過ちだらけの人間が、その計画に参与し、たくさんの失敗を繰り返します。今日、創立記念日を迎えた日本基督教団も、もともとは、国家の戦争協力のため、強制的に合同させられて出来た教団でした。

 

 今なお、多くの課題・問題を抱えている教団ですが、それでもなお、神様はこの教団を用いられ、新しい生き方を示し、私たちを進ませようとしています。容赦なくこの計画に皆さんを巻き込み、私を牧師として立て、共に執り成し合いながら、変化と回復の道を歩ませようとしています。

 

 神と教会の前で、謹んで誓約を交わしましょう。私たちの体を、聖なる生ける犠牲として献げましょう。これこそ、私たちのなすべき礼拝です。