ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『立ち止まれって本気ですか?』 ヨシュア記3:7〜17

聖書研究祈祷会 2018年7月18日

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【立ち止まる恐怖】

 私たちは大いなる脅威を前にしたとき、足のすくむ思いがします。特に、四方八方から何かが自分に襲いかかりそうなとき、とにかくその場から逃げ出したいと感じます。私にとって、その最初の記憶は、夜中のトイレです。オネショはしたくないけれど、真っ暗な廊下を通って一人でトイレに行くのは怖い……

 

 双子だった私と弟は、暗黙の了解で、夜どちらかがトイレに行く時は、一緒についていく……ということを小学4年生くらいまでしていました。一人では通れない暗い廊下も、二人でなら平気でした。ところが、問題は片方がトイレに入っている間です。もう一人はトイレの前で、暗い廊下の中を待っていなければならないのです。

 

 暗闇の中をさっと駆け抜けるのではなく、暗闇の中で立ち止まっている……この時間ほど怖かったことはありませんでした。いつ、見えない何かが自分に触れてくるか分からない。暗い影から見たくないものが見えてしまうか分からない。かといって、目をつぶっているのはもっと怖い……そんな数分間を、私たちは過ごしていました。今思えば、廊下の電気をつければ済む話だったのですが。

 

 私はよく、弟がトイレから出てくるのを待っている間、自分がもし廊下の真ん中に立っていたらどうなるのだろうと想像していました。寝室からトイレまで伸びる一本の長い廊下……トイレの隙間から漏れるかすかな光は、私を安心させてくれますが、廊下の真ん中辺りは、ちょうど何にも見えない真っ暗な空間です。

 

 もし、「一人であそこを通りなさい」と言われても、がんばれば、何とか進むことができるだろうと思いました。事実、私がトイレに行きたいとき、弟が起きてくれないこともあったので、一人でトイレに行く日もあったからです。しかし、あの廊下の真ん中で「待っているように」と言われたら、自分は気が狂ってしまうだろうなと思いました。光が漏れているトイレの前でさえ怖いのだから、がんばって進むことはできても、立ち止まっていることはたぶんできない……

 

 けれども、私たちは時に脅威を前にして、進むのでもなく、退くのでもなく、立ち止まらなければならない時が出てきます。何かを守るため、何かを助けるため、危険を覚えつつも、立ち止まって待っていることが必要とされます。豪雨や洪水の際、救助活動に当たった人たちは、しばしばそういった場面に立たされました。たぶん、今の私に同じことはできません。告白すると、夜中のトイレに、弟を置き去りにして帰ってしまったこともあるのです。

 

 だからこそ、神様からもう一度力を受けたいと思うのです。暗闇の真ん中で、脅威に囲まれている中で、救いを信じて立ち止まっている力……共に、今日の聖書の言葉から養われたいと思います。

 

【モーセの後継者】

 さて、水曜日の聖書研究祈祷会では、これまで出エジプト記、民数記、申命記と読んできましたが、今日は続きのヨシュア記が選ばれています。モーセの死後、エジプトからはるばるカナンの地までやって来たイスラエル人には、新たな指導者が必要でした。そこで神様はモーセの後継者として、彼の従者であったヨシュアを選びます。

 

 ヨシュアは民数記13章で、イスラエルの民が約束の地カナンへたどり着いたとき、偵察に遣わされた者の一人です。もともとはホシェアという名前でしたが、モーセは彼のことをヨシュア、ヘブライ語で「ヤハウェ(神)は救い」という意味の名で呼ぶようになり、以後、それが定着していきました。

 

 民数記14章では、土地を偵察にいった者のほとんどは、強大な敵がうろついているのを見て恐ろしくなり、土地について悪い情報を流したと記されています。神様に背いた彼らは、間も無く疫病にかかって死んでしまいました。しかし、「断然上っていくべきです。そこを占領しましょう」とモーセに進言したカレブと、ヨシュアだけは生き残りました。

 

 2人は巨人のような敵を前にしても、自分たちを守ってくれる神様に信頼し、恐れずに突き進もうとした勇敢な人たちだったのでしょう……と、言いたいところですが、実際にモーセに土地を攻め入るよう進言したのはカレブだけです。ヨシュアの発言は特に記されておらず、単に、その土地について悪い情報を流さなかっただけなのかもしれません。

 

 ヨシュア記では、神様が彼を新しい指導者に選んだ際、「強く、雄々しくあれ」という言葉が繰り返し語られています。「強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である」「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法を忠実に守り、右にも左にもそれてはならない」「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない」

 

 どれだけ念入りに「強く、雄々しくあれ」と言うのでしょう? しかも、神様からだけでなく、民の方からもヨシュアはこう言われています。「いかなる命令であっても、あなたの口から出る言葉に背いて、従わない者は死に定められねばなりません。どうぞ、強く、雄々しくあってください」……

 

 ヨシュア記が始まって1章が終わらないうちに、4回も「強く、雄々しくあれ」と言われているわけです。3回以上繰り返されると、かえって本当に彼が強かったのか、雄々しかったのか、疑わしくなってきます。実際にヨシュアは「強く、雄々しくあれ」と言われた直後、それとは反対に、慎重に行動を開始します。

 

 「ヌンの子ヨシュアは2人の斥候をシティムからひそかに送り出し、『行って、エリコとその周辺を探れ』と命じた」……彼は神様の言葉を受けて、潔く戦いに出たのではなく、むしろ自分たちの脅威となる敵を少しでも知るために、ひそかに、慎重に、行動したのです。かつて自分自身も、敵を偵察してきた一人であるにもかかわらず、もう一度……

 

【葦の海とヨルダン川】

 そんなヨシュアに、指導者として最初の困難が訪れます。なんと、約束の地の手前で流れるヨルダン川が、雪解けによって水かさが増し、渡れなくなっていたのです。時は春の刈り入れの時期、気温の上昇によってヘルモン山から大量の雪がとけ、水が勢いよく流れ込んでくる時期です。水温は低く、流れも速く、とてもとても徒歩で渡っていける状況ではありません。

 

 ヨシュアは3日間、川の前で野営することを余儀なくされます。しかし、どうやらその間に、神様からどうすればいいか教えられたようです。彼は祭司たちに契約の箱を担がせ、民から900メートルほど離れて先に行かせます。そして、彼らにこう命じたのです。「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」……

 

 ちょっと待ってください……ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていました。その中に入っていくなんて、「溺れろ」「流されろ」と言われているようなものです。しかも、祭司たちは十戒の石版が入った重い契約の箱を担いでいるのです。泳いで渡ることなんてできません。さらに、神様はびっくりするようなことを言ってきます。

 

 「あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい」正気でしょうか? 重い箱を担いだまま、雪解けでカサが増し、非常に冷たい川の中を「進んでいけ」ではなく「立ち止まれ」……下手すれば、息継ぎに苦しむ前に、心臓麻痺で死んでしまいます。ヨシュアから神様の命令を聞かされた祭司たちは困ってしまったに違いありません。いやいや、無茶でしょそれはと。

 

 しかし、ヨシュアは先にこう宣言していました。「主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる」……渡れるはずのない大きな川で、驚くべきことが行われる……この言葉に、人々はある出来事を思い出していたでしょう。それは、エジプトを脱出して間もない民が、敵に追いかけられる中、通れるはずのない海の中を渡ったという奇跡です。

 

 ヨシュアはこう預言します。「全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう」……かつて、神様が激しい東風を起こし、海の水が押し返され、右左に壁のようになったこと……その中を進んで、敵に追い詰められていた民は逃げることができたこと……水の中に乾いた地が現れた、葦の海の奇跡的な出来事が、まさに思い出されます。

 

 あの時のように、神様は再びヨルダン川の水を押しのけられ、我々を進ませてくださるに違いない……祭司たちは素直にそう思って、ヨシュアの言葉に従ったのかもしれません。ただ、正直私が祭司なら、葦の海の奇跡を思い出させられたことで、なお一層、彼の言葉に従いづらくなるのです。

 

 なぜか……それは「川の中を進め」と言われたのではなく、「川の中で立ち止まれ」と言われたからです。かつて、葦の海の真ん中で立ち止まった人々が、どのような結末を迎えたか……イスラエル人を追いかけて、海の真ん中で戦車を進ませることができなくなり、退却しようとしたエジプト軍……道の真ん中で立ち止まってしまった彼らは、夜が明ける前に、左右で壁のようになっていた水が流れ返り、次々と溺れ死んでしまいました。

 

 流れに逆らおうとした者も、皆神様に押し返され、一人も残らなかったことが出エジプト記14章に記されています。水をせき止められた道の真ん中で立ち止まる……いつ、水が流れ返ってくるか分からない中を、進まずに立ち止まっている……これがどれほど恐ろしく感じられたか、考えずにはいられません。

 

 「行きなさい」「歩きなさい」「進みなさい」……脅威が迫ったとき、これらの言葉は、ある意味、一度思い切ったら何とか従うことができるかもしれません。とにかく突っ走れば良い、脅威から離れれば良い命令だからです。しかし、ヨシュアを通して祭司たちに命じられたことは少し違います。脅威を前にして、立ち止まっているように……これは本当に厳しいことです。

 

【契約の箱】

 「俺たちも海の真ん中で立ち往生したエジプト軍のように、水が流れ返ってきて死んでしまうんじゃないか?」……他のみんなが川を渡っている間、祭司たちは震える足で立っています。留まっています。自分たちの足が水際に浸った瞬間、川の水ははるか遠くでせき止められ、民は喜びの声をあげました。しかし、祭司たちは川の真ん中で立ち止まり、最後まで、自分たちに襲いかかってくるかもしれない水の脅威を感じなければならないのです。

 

 川の水がせき止められた後も、不安や恐怖の戦いは続いていました。しかし、彼らは黙ってヨシュアの言葉に従います。民が渡り切るまで、川の真ん中に留まります。何が、彼らにその勇気を与えたのでしょう? 何が、彼らの震える足を支えたのでしょう? そのヒントが、彼らの担いでいた契約の箱と、ヨシュアに語られた神様の言葉にありました。

 

 契約の箱……それは主の臨済、すなわち、神様が人々と共におられるしるしでした。イスラエルは、数々の敵との戦闘において、この箱を持ち歩きました。敵という脅威を前にしても、神様が自分たちを離れず、守ってくれることを象徴する箱だったのです。本来なら負けるはずだったあの戦いも、自分たちが逃げ帰るはずだったあの戦いも、みんな神様が一緒にいてくれたから、生き残ることができた……帰ってくることができた。

 

 そのことを思い出させる象徴的な箱が、最も水の脅威を感じている祭司たちに担がされました。今、ここで恐怖を感じている自分たちに、一番近く、神様が共にいてくれる……そのことに、彼らは励まされて、立ち止まり続けることができたのではないでしょうか?

 

 また神様は、ひそかに、慎重に、行動してきたヨシュアに対し、7節でこう言っていました。「今日から、全イスラエル軍の見ている前であなたを大いなる者にする。そして、わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、すべての者に知らせる」と。ここでも、「強く、雄々しくあれ」という言葉をすぐ行動に移せない人に対し、「わたしはあなたと共にいる」というメッセージが強調されています。

 

 うろたえてはならない、おののいてはならない、あなたが前に進むための力も、敵から逃れるための力も、仲間を守るため立ち止まる力も、私が一緒にいて与えるのだから……神様はそう語るのです。

 

【わたしはあなたと共にいる】

 私たちはよく、神様を信じるまでの困難、大変さを語られます。目に見えず、触れられず、はっきりと声を聞くことのできない神様……その方を信じて行動することの難しさは、確かに大きいです。しかし、信じた後も、信じ続ける難しさが私たちを襲います。脅威を前にすれば、一世一代の決心も、すぐに揺らいで逃げ出したくなります。

 

 しかし、神様は私たちに「脅威から逃れる力」「前へ進ませる力」と共に「立ち止まる力」も与えます。いずれも、神様が共にいてくださることで与えられる力です。私がいる。あなたが敵から隠れるときも、逃げるときも、戦うときも、耐えるときも……私はあなたと共にいる。それが神様の語られる驚くべきしるしです。

 

 かつて、夜中のトイレに弟を置き去りにして、部屋に帰ってしまった私にも、この言葉が語られます。逃げるべき時に逃げることができず、進むべき時に進むことができず、立ち止まるべき時に立ち止まることができなかったあなたにも、神様は変わらず「あなたと共にいる」と語りかけてきます。強く、雄々しくあれない私たちにも。共に、今必要な力を受けるために、神様が一緒にいることを思い出して歩みましょう。