ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『神様ハラスメント』 マルコによる福音書9:42〜50、ヘブライ人への手紙12:3〜13

礼拝メッセージ 2018年7月29日

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【獅子の子落とし】

 「獅子の子落とし」という諺があります。皆さんも一度は耳にしたことがあるでしょう。簡単に言えば、ライオンは子どもが生まれて3日経つと、我が子を深い谷へ投げ落とし、生き残った子だけを育てるという言い伝えです。我が子に試練を与え、その才能を試すこと、また、厳しく育てることのたとえになっています。

 

 「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」という言葉でも知られており、同じ意味で用いられます。ちなみに、「千尋の谷」を文字通りに捉えると、深さ1800メートルくらいの谷ということになり、さすがに、どれだけ強いライオンの子どもでも、落ちれば死ぬ高さになります。実際には、野生のライオンがこういった行動をとることはなく、子どもが崖の下へ滑り落ちそうになれば、親ライオンたちは必死になって助けるそうです。

 

 しかし時には、自分が育てたい相手のために「獅子の子落とし」のような厳しい指導をすべきかどうか、たいへん悩まされるシーンが出てきます。親が子どもに、先生が生徒に、上司が部下に、その人が苦労することを知りつつ、成長のために敢えて厳しい態度を取る……私自身も、そうすべきかどうかで頭を悩ませることがあります。

 

 この教会には、幼稚園で子どもたちを見ている先生も、会社で部下の面倒を見ている上司もいるので、きっと多くの人が「厳しさ」と「優しさ」の間で、どのような態度を取るべきか悩んだことがあるでしょう。逆に、部下や後輩、子どもの立場から、「獅子の子落とし」のような指導に苦しめられた、あるいは傷つけられたことがある人もいるでしょう。

 

 そう、どれだけ相手の成長を促すつもりでも、敢えて厳しい態度を取る際には、パワハラに陥る危険が付きまといます。一歩間違えれば、関係性を破壊してしまう、相手を再起不能にしてしまう……だけど、このまま甘やかすわけにもいかない……そう思っている上司や先輩、そして、傷つきたくはないけれど、決して甘やかされたいわけではない部下や後輩……そんなジレンマを抱えている人が、ここにも、あそこにも、大勢います。

 

 だからこそ、今日ほど、説教タイトルを見た皆さんをギョッとさせた、あるいはガッカリさせた日はなかったでしょう……「神様ハラスメント」……今まで色んなタイトルをつけてきましたが、今回ほど、本当にこれでいくか迷ったことはありませんでした。なにせ、私自身もこのタイトルに心が騒ぎ、落ち着かなくなるからです。

 

【ハラスメント】

 パワーハラスメント……弱い立場の人が、強い立場の人から苦しめられること、傷つけられること。世の中は、この言葉で溢れかえるようになりました。皆さんも、この文字が頭に浮かばない日の方が少ないかもしれません。「今自分にされたことは、ハラスメントと言えるだろうか?」「今私がやったことって、ハラスメントになるのだろうか?」

 

 月曜日から土曜日まで、人間の上下関係で悩んできたのに、日曜日までこの話にどっぷり浸かりたくはありません。ところが、今日私たちに与えられた聖書箇所は、容赦なくこれに関わる言葉を語ってきます。

 

 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」……おっと、どうやら神様も「獅子の子落とし」に近い指導や訓練を行われるようです。

 

 これを聞いて、皆さんはどう感じるでしょうか? 「よし、それなら頑張ろう!」と思うでしょうか? 正直に言えば、私は「きつい」と感じます。神の言葉として書かれているのに、どこかの誰かがやっているパワーハラスメントに思えてしまう……あらゆる人間関係に疲れている現代人が、ここから力を受けるのは難しい……そう感じてしまいます。

 

 この手紙は、キリスト者への迫害がちょうど激しくなってきた頃に書かれました。手紙を受け取った人の中にも、公然と虐げられ、財産を取り上げられるなど、苦難を経験している人たちがいました。さらに、かつて期待していたほど、キリストの再臨はすぐに来なかったため、人々はイエス様を信じ続ける気力を失い、疲れ果てていました。

 

 そんな彼らに対し、手紙の著者はこう語るのです。「信仰生活における苦難は、神様があなたの信仰を鍛えているのであり、あなたを愛している証拠なのだ」……確かに、この言葉から力を受けることもあるでしょう。「この苦しみが神様の愛の鞭なら頑張ろう」と思わされた人もいるでしょう。ただし、同時に危険な言葉でもあります。

 

 なぜなら、反社会的な宗教団体だってこう言います、「あなたが世間から迫害されるのは、我々が正しい証拠です」……妻や子どもに暴力を振るう夫だってこう言います、「俺がお前たちを殴るのは、お前たちを愛しているからだ」……私たちがパワハラに陥るときも、同じ言い訳を使います、「あなたを思ってのことだ、あなたを愛しているからこうするのだ」

 

 多くの場合、ハラスメントを受けて育った人間は、縮こまってビクビクするようになるか、同じように自分もハラスメントをするようになります。自分はそうやって鍛えられたから、自分も耐え忍んで育ってきたから、このやり方は正しいのだ……そうして、言葉の暴力、物理的な暴力は連鎖していくのです。

 

 しかし、ヘブライ人への手紙には続きがあります。11節の言葉です。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」……神様が行う鍛錬は、暴力の連鎖ではなく、義という平和を実らせる。神様に鞭打たれた人は、誰かに暴力で訴えない。そう語ってくるのです。

 

 神様が行われる「鍛錬」は、小さい者に対する「獅子の子落とし」とはだいぶ違う……そのことが、聖書を見ていると明らかにされてきます。

 

【小さい者を躓かせる】

 最初に読まれたマルコによる福音書の言葉は、ヘブライ人への手紙と同じく、教団の聖書日課で「主に従う道」というテーマで選ばれているところです。ここでも、神の子であるイエス様から、人間である私たちに「敢えて厳しい言葉」が語られています。それも、弟子たちが自分たちの力関係について議論した後に言われています。

 

 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」……「大きな石臼」というのは、人間が手で回すような小さなひき臼のことではなく、ロバに引っ張らせるもので、首に巻きつけられれば骨が折れてしまうほどの重さでした。そして、海に投げ込まれるというのは、手足を縛って罪人を死に至らしめるローマの処刑方法でした。

 

 つまり、「死んだ方が良い」と言っているわけです。それほど、「小さな者」をつまずかせることは、重い罰に値することなのだ……イエス様はそう語ります。実は、イエス様はこの前に、誰が一番偉いか争う弟子たちの前に、一人の子どもを立たせて、「このような子どもの一人を受け入れる」よう命じていました。つまり、「わたしを信じるこれらの小さな者」は、「子ども」に対応しているのです。

 

 子どもと言えば、弟子たちが叱りつけ、軽んじてしまうことの多かった存在です。私たちがついつい、「お前はダメだ」「ほんとにしょうもない」と厳しく当たってしまいがちな存在……そんな人々をイエス様は「つまずかせるな」と言われます。それをするなら、あなたこそ主に従う道から外れ、重い罰を受けてしまうと……

 

 わが子を深い谷底へ投げ落とす獅子の話とは、だいぶ違う言葉が語られます。神様は小さな者に対し、闇雲に厳しい態度を取るわけではないことが、ここから分かってきます。今度の日曜日、平和聖日に読まれるエフェソの信徒への手紙6章では、こう命じられています。「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」

 

 なかなか耳が痛い言葉です。同時に、この言葉を聞くとき、私たちは思い出します。子どもを軽んじる弟子たちに、誰が一番偉いか争う人々に、自分の使命を妨げようとさえする彼らに対し、イエス様がどのように接してきたか……イエス様は、弟子たちに一度も拳を振り上げませんでした。「まだ分からないのか」と嘆きながら、厳しい言葉を吐きながら、それでも彼らに言葉で訴え続けました。

 

 普通なら、これ以上期待するのは無駄に思われる時でさえ、彼らに期待し、彼らに教え、彼らに命じられました。そう、神様が振るわれる鞭は、「お前は駄目だ」「もう引っ込め」とあなたを否定する鞭ではないのです。ある意味、それよりずっと厳しい鞭です。「お前は正しい道へ行く」「お前は新しく変化する」……その期待を決して捨てない、あなたを諦めず、あなたを肯定することを止めない、非常に厳しい鞭なのです。

 

【自分への警告】

 43節から、イエス様の話は「小さな者に対する態度」から、「自分自身に対する警告」に変わっていきます……「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」……心なしか、先ほどよりも、さらに語調が厳しくなってきました。再び、「獅子の子落とし」的な発言です。

 

 今日「神様ハラスメント」というタイトルで皆さんをつまずかせてしまった私も、自分で自分の口をえぐり取るよう迫られるかもしれません。私も他人事じゃないのです。恐ろしいことです。ここで、「つまずかせる」というのは、具体的には信仰を捨てること、イエス様を信じなくなることです。

 

 この後、イエス様は足と目についても、「あなたをつまずかせるなら切り捨ててしまいなさい」「えぐり出してしまいなさい」と勧めてきます。なんとも生々しい言葉です。自分で自分の手足を切り落とす、自分で自分の目をえぐり出す……実はこれ、人間が実際にやろうとしても、普通の精神状態では、まず不可能な行動なのです。

 

 精神的に非常に不安定な状態か、大量の麻薬を投与されてようやく実行できる……そんな話です。実際には野生のライオンが行うことのない「獅子の子落とし」と同じです。私たち人間は、自分でそれをできないし、実行しようとも思えません。つまり、はっきり言ってしまえば、あなたの一部が誘惑に陥れば、あなたはもう自分で裁きから逃れることはできない……そう言っているのです。

 

 「これらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」……既に言われていたように、私たちは自分が軽んじやすい小さな者に対しても、また、自分自身に対しても、つまずかせてしまった瞬間、死ぬことが決定するのです。永遠の命を得ずに、滅びへと定められる……

 

 困りました。どうしたらいいのでしょう? 神様は、イエス様は、私たちが谷底へ落ちて死ぬことを分かっていながら、こんな厳しい言葉を語っているのでしょうか?……確かに、これらの話は、ここだけ切り取って聞くと、単なる裁きの言葉です。私たちを圧迫し、押しつぶしてくるパワーを持つ言葉です。

 

 しかし、マルコによる福音書も、ヘブライ人への手紙も、他人を、自分をつまずかせてしまう私たちの代わりに、自ら裁きを受けてくださった方のことを証言しています。私たちが切り落とされるはずだった手足に、釘を打ち付けられた方……私たちが受けるはずだった鞭を、代わりに受けてくださった方……そう、他ならぬイエス様ご自身が、私たちを死から救うため、十字架にかかって執り成してくださったのです。

 

【平和のうちに】

 不思議なことに、ヘブライ人への手紙と同じく、マルコによる福音書の方にも「平和」という言葉が出てきます。「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」……他人を、自分をつまずかせるくらいなら、手足を、片目をえぐり取れ……そんな物騒な言葉の後で、「互いに平和に過ごしさない」と命じられる。

 

 これは、決して矛盾した話ではないのです。キリスト者は、お互いに「あなたは聖書につまずいているから自分の手を切り落とさなければならない」「あなたこそ自分の目をえぐり取らなければならない」と争い合うことが求められているのではありません。本来、死ななければならなかった私の代わりに、手足を切り落とさなければならなかったあなたの代わりに、イエス様は十字架にかかってくださった。

 

 私を、あなたを赦して、復活してくださった……そのことを思い出し、互いに励まし合うことが求められているのです。神様の厳しい語りかけは、パワハラのように言葉と力で私たちを擦り潰そうとするものではありません。私たちがあり得ない仕方で赦されるほど、愛された者であること、私たちへの期待が絶対に失われないことを思い出させる言葉なのです。

 

 もしかしたら今日、自分が受けている何らかのハラスメントを思い起こし、苦しまれている方がいるかもしれません。あるいは、自分が誰かをつまずかせてしまった、つまずかせているかもしれないことに気を落とし、悩んでいる方がいるかもしれません。私も今、けっこう酷く皆さんを圧迫しているのではないかと恐ろしくなっています。

 

 どうぞ皆さん、一緒に神様の言葉を聞きましょう。イエス様の生涯を思い起こしましょう。圧力を受けているあなたに、過ちを犯してしまったあなたに、イエス様が寄り添って、語りかけ、諭され、力づけている事実を思い出しましょう。日毎に養い、私たちを新しく生かしてくださる、神様の招きを聞きましょう。