ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『正しい戦争?』 士師記5:1〜18

聖書研究メッセージ 2018年8月1日

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【侵略戦争】

 聖書の中には、数多くの血生臭い話が出てきます。特に、ヨシュア記以降は戦争の記事が一気に増えます。イスラエルの民は、エジプトからカナンの地に移住する際、そこにいた先住民と繰り返し衝突してきました。「衝突」という表現はまだ柔らかいかもしれません。話によっては、イスラエルによる「侵略」と言っても仕方ないような場面が多々ありました。ヨシュア記と士師記は、そんな生々しい戦争の話でいっぱいです。

 

 キリスト教会において、これらの戦争の記事が読まれるとき、しばしば「信仰による勝利」というテーマが語られてきました。「神様を信じて進めば必ず勝てる」「神様は我々の敵を完全に滅ぼしてくださる」「ここに書かれているイスラエルの民も、神様によって強大な敵に対する勝利をもたらされたのだ」……そんなメッセージです。

 

 しかし、中には「神の名による戦争」ということで、本当に正当化していいのか疑問に思われる戦いも出てきます。特に、「女も子どもも全て滅ぼし尽くせ」と命じられるような箇所や、敵の方がよっぽど、神の力を認めて恐れているような箇所などです。そもそも、人々を愛し、平和を望まれるはずの神様が、なぜ、幼い子どもやお年寄りまで巻き込む戦いを命じるのか……牧師である私自身も、未だ答えに窮しています。

 

 ご存知のとおり、キリスト教会もこれまでたくさんの戦争を起こしてきました。「神が命じる聖なる戦い」「聖書に基づく正しい戦争」……そのような考えから、十字軍をはじめとする幾つもの戦争が正当化され、クリスチャンによっても支持され、悲惨な結果を招いてきました。この教会が属する日本基督教団という共同体も、かつて戦争に協力し、献金を集め、国家に戦闘機を提供した歴史を持っています。

 

 現代では、それらの戦争が決して正しいものではなかったこと、キリスト教会もかつての過ちを認めつつ、二度と戦争を起こさないよう、協力することのないよう、反省する声も挙がっています。しかし、先にも述べたように、聖書の中には、しばしば神の恵みとして「戦争における勝利」が与えられたような出来事が出てきます。

 

 私は、今のまま、これらの話を単純に「信仰による勝利の恵み」として聞き続けていいのか、ちょっと立ち止まる必要があると思います。自分たちの戦いを正当化する歴史が、再び繰り返されないために……実際、聖書における戦争の記事は、単純に勝利した者の正しさを語るわけではないのです。むしろ、私たちが目を奪われやすい「戦争の勝利」とは別のところに、神様の恵みが表されていることもあるのです。

 

【すっきりしない勝利】

 さて、先ほど読んだ士師記5章は、4章から続くデボラとバラクの話です。イスラエルの民は「神様に背いては敵に苦しめられ、再び主に助けを求める」というサイクルを懲りずに繰り返していました。今回は、カナンの王ヤビンがイスラエルを圧迫し、彼の将軍であるシセラによって、多くの戦車と軍勢が人々を押さえつけていました。

 

 そんな中、女預言者デボラが「士師」としての活動を始めます。士師というのは、イスラエルに王制ができる前の時代、人々の指導者として神様に選ばれた者たちです。彼らは、人々の間で起きた事件を裁き、有事の際には、戦闘を指揮するリーダーとして遣わされていました。デボラは唯一の女性の士師であり、同時に預言者とも呼ばれていた珍しい人物です。

 

 彼女は人を遣わして、アビノアムの子バラクに語ります。「イスラエルの神、主がお命じになったではありませんか。『行け、ナフタリ人とゼブルン人一万を動員し、タボル山に集結させよ。わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢をお前に対してキション川に集結させる。わたしは彼をお前の手に渡す』と」……ようするに、神の名による戦争開始の合図です。

 

 ところが、バラクはデボラにこう返します。「あなたが共に来てくださるなら、行きます。もし来てくださらないなら、わたしは行きません」……デボラの命令に対し、彼は躊躇しているように見えます。神に選ばれた彼女がいなければ、自分は勝てないと思ったのかもしれません。あるいは、危険な戦場に女性が来るわけないと思って、やんわり命令を拒否したのかもしれません。

 

 けれども、デボラは答えます。「わたしも一緒に行きます。ただし今回の出陣で、あなたは栄誉を自分のものとすることはできません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです」……こうして、デボラとバラクは一万人の兵士を動員し、シセラの軍勢に戦いを挑みます。彼女が宣言したとおり、敵の軍勢は次々と倒れ、シセラ一人だけが生き残りました。

 

 シセラは命からがら、友好関係にあったカイン人へベルの妻ヤエルのテントに逃げ込み、そこに匿ってもらいます。ところが、シセラが眠っている間、ヤエルは油断した彼のこめかみに釘を打ち付け、殺してしまうのです。後から追いかけて来たバラクは、テントから出て来たヤエルにこう言われます。「おいでください。捜しておられる人をお目にかけましょう」……こうして、文字通り「女の手によって」倒されたシセラの死体が発見されました。

 

 5章の歌は、その勝利に感謝して、デボラとバラクが神様を賛美したものでした。しかし、私たちは何となくすっきりしません。この歌には、味方の中で神に従わなかった者や、神に逆らい呪われる住民もいたことまで書かれています。しかも、この勝利をもたらしたのは、イスラエルの勇士ではなく、敵と友好関係にあった女性による騙し討ちという手段です。

 

 私たちが期待する正々堂々とした戦いではありません。団結や連帯というテーマにもふさわしく思えません。実は丁寧に読んでいくと、他にも、この「聖なる戦い」に影をさす要素が幾つも見えてくるのです。

 

【不吉な要素】

 まず、イスラエルを勝利に導く指導者として立てられたデボラには、人々を不安にさせる要素がありました。一つは、彼女の名前です。「デボラ」という名前は「蜂」という意味があり、彼女の勇敢で頼りになる性格が表されていると言われています。しかし、旧約聖書に出てくる「蜂」のイメージは、イスラエルにとってほとんど良い意味で使われていないのです。

 

 イザヤ書7:18では、神様に背いたユダを攻撃するアッシリアの王を示す言葉として「蜂」が出てきます。また、詩編118:12に登場する「蜂」は、イスラエル全体を包囲し、攻撃する敵として描かれています。さらに、申命記1:44では、民の不信と反抗のために、イスラエルを攻撃するアモリ人をたとえて「蜂」が使われているのです。

 

 このように、「蜂」を表すデボラの名前は、ほとんどが敵を表すときに使われており、全て否定的なイメージを持っています。そのため、彼女の名前はイスラエルの勝利を連想させるより、むしろ、神による審判や敗北の歴史を思い出させるのです。

 

 また、彼女に従うバラクという人物にも、私たちを落ち着かなくさせる要素があります。彼の名前は「稲妻」という意味がありますが、先に言ったように、バラクはデボラの命令にすぐさま従えず、名前にふさわしい行動をあまり見せません。そして、バラクの行動と、敵であるシセラの行動は、不思議と共通するパターンを持っているのです。

 

 第一に、バラクがゼブルンとナフタリをケデシュに「召集した」ように、シセラは彼の戦車と軍勢をキション川へ「召集」します。第二に、バラクが「彼の足で」戦場へ向かったことが4章10節と5章15節で繰り返されるように、シセラも「彼の足で」戦場から逃げたことが4章10節と15節で繰り返されます。第三に、バラクがヤエルに招かれて彼女の天幕でシセラの死体を発見するように、シセラもヤエルに招かれて彼女の天幕へ入ったことが記されます。

 

 このように、バラクの行動は敵の行動と重なるように書かれており、イスラエルと敵との境界があいまいにされています。神に撃たれた将軍シセラは、神に撃たれるイスラエルの姿と紙一重である……そのことが、イスラエルの戦闘を指揮する2人の名前と行動から思い起こされるのです。

 

【呪いから祝福へ】

 ここで、イスラエルの勝利が、本当に「信仰による勝利の恵み」なのか怪しく感じられてきます。むしろ、イスラエルがいつ敗北した敵と入れ替わってもおかしくないことが、強調されているようにさえ思えます。なにせ5章の歌では、勝利を収めた味方の中に、神様に従わなかった者がいたことを、もう一度丁寧に教えているのですから。

 

 では、神の恵みとして与えられているものは、戦争の勝利でなければ何なのでしょう? ヒントになるのは、敵の将軍シセラを倒したヘベルの妻ヤエルの話です。彼女は5章24節でこう祝福されています。「女たちの中で最も祝福されるのは、カイン人へベルの妻ヤエル。天幕にいる女たちの中で、最も祝福されるのは彼女……」

 

 そう、ヤエルはもともと敵と友好関係にあったにもかかわらず、稲妻のように素早い選択をし、イスラエルに勝利をもたらした女性です。しかし、ここで祝福されている彼女は、いったいどんな存在だったのでしょうか? ヤエルの夫ヘベルはカイン人で、モーセのしゅうとの子孫であり、移動して働く鍛冶屋であったと思われます。

 

 しかし、ヘベルはカイン人から「離れて」暮らしていました。つまり、ヘベルの家は、モーセに代表されるイスラエルの民から離れ、あるいは追い出されていたわけです。彼の名前「へベル」には、「強盗」や「呪い」「魔法」「呪文」といった意味があります。どれもイスラエルでは禁じられていた、忌むべき行いです。

 

 その名が彼につけられていることからも、イスラエルの民とは決して友好的な関係ではなかったと思わされます。また、戦いのために戦車の軍隊が準備されたその日、ヘベルは不在で、妻ヤエルだけが家に残っていました。つまり、ヤビンの鉄の戦車を整備することが、ヘベルの仕事であった可能性が考えられます。シセラの軍勢が滅ぼされたとき、おそらく彼も無事ではなかったと思います。妻を残して戦死していた可能性が高いでしょう。

 

 するとヤエルは、イスラエルの民からも孤立し、夫に頼ることもできず、この戦闘において最も孤独な人間であったと考えられます。自分の天幕へ逃げ込んできたシセラはただ一人残った戦士で、もうすぐ追いかけてきたイスラエルの民に殺されるでしょう。残された自分はヘベルの妻「呪いの妻」ということで、敵に味方し、イスラエルの神に背いた人間として殺されるでしょう。

 

 彼女はどうあがいても、救われるはずのなかった人間でした。完全に孤立し、イスラエルの共同体に受けいれられることは不可能なはずでした。回復不可能な存在です。ところが、この戦闘において彼女の立場はひっくり返ります。「敵に戦車を提供する者」から「敵を討ち亡ぼす者」へ、「神に呪われた家の者」から「神に祝福された者」へ、「共同体を離れていた者」から「共同体に回復される者」へ……あり得ない変化が起きました。

 

【戦争の勝利が恵みなのか?】

 かつて、ヨシュアの時代に、ヤエルと同じように敵の民族であった者が、イスラエルの共同体へ受け入れられる出来事がありました。そう、エリコの城壁でイスラエルから偵察に来た2人を匿った、遊女ラハブです。彼女も、本来は敵の民族であり、また遊女というイスラエルにとって好ましくない存在でした。イスラエルが排除しようとする者でした。ところが、神様は逆の結果をもたらします。

 

 呪われていた者が祝福される者へ、排除されていた者が受け入れられる者へ……この記事に書かれていたのは、神の恵みとして戦争の勝利がもたらされた話だったのでしょうか? それとも、共同体が排除し、呪っていた者が回復される、祝福される話だったのでしょうか? どう受け取るかは、私たちに委ねられています。

 

 願わくは、私たちが聖書から受け取ることを、暴力の正当化にではなく、関係性の回復、和解に至る力として繋げることができたらと思います。