ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『この家族は平和になれますか?』 創世記27:41〜45、エフェソの信徒への手紙5:21〜6:4

礼拝メッセージ 2018年8月5日

f:id:bokushiblog:20180805152040j:plain

【家族と平和】

 平和について語るとき、「家族」という言葉ほど便利なものはありませんでした。私たちが「争いのない平和な世界」と聞いてまず思い浮かべるのは、家族と平和に過ごせる世界です。お父さんとお母さんが喧嘩しない世界、子どもが反抗的でない世界、兄弟の仲も親戚の関係も円満で、和気あいあいと一家団欒のときが持てる……そんな絵に描いたような世界です。

 

 そう……家族が平和である状態こそ、私たちが世界の平和としてイメージしてきたものでした。家族の平和を守ることこそ、何よりも優先されると考えてきました。たとえ、隣の国で5人に1人の子どもが餓死寸前であろうと、自分の国で独裁者の誕生を防ぐ法がなし崩しにされようと、自らの家庭を守り、大切にし、愛することができていれば、「平和的な人間」と思うことができます。

 

 自然なことです。家族の平和なきところに、心から平和を宣言する人はそう居ません。今日読んだ聖書の言葉でも、家族と共に平和的に過ごすことが促されていました。大多数の人にとって、生まれてから死ぬまでの間、最も身近な集団であり、最も基本的な共同体である「家族」……これを大事にしろという言葉に、誰が疑問を持つでしょう?

 

 戦時中も、十代の少年たちが、心から愛する家族に手紙を残し、特攻隊の飛行機に乗り込みました。自分ごと敵の戦艦に体当たりすることが、愛する人たちを守ることになると信じて、彼らはぶつかっていきました。現代も、国家の安全保障について議論されるとき、「あなたの家族が敵に襲われたらどうするのか?」と問いかけられます。多くの人は、自分の家族を守るためならば、武器を手に取り、戦うことも辞さないでしょう。

 

 ……敵が爆弾を抱え、自分の家族がいる方向へやって来ました。こちらへたどり着く前に撃たなければ、妻や子どもたちは木っ端微塵に吹っ飛ばされてしまうでしょう。たとえ、その敵が、自分の子どもより小さな相手でも、家族を守るためならば、引き金を引く人がいるでしょう。私も、自分がどうするか分かりません。

 「家族を守る」……それ以上の大義名分なんて、この世の中にあるでしょうか? ある者は家族を引き合いに出して対話の重要性を訴え、ある者は家族を引き合いに出して戦力の保持を訴えます。どちらも、愛する人を理不尽な死から守ろうとする行動です。自然なことです。

 

【家族と暴力】

 しかし今日、私たちはエフェソの信徒への手紙を読んだとき、家族に関するいくつかの問題を思い出さずにはいられませんでした。「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」「夫は妻の頭だからです」……妻を夫の下に置く、家父長制を彷彿とさせる言葉、この言葉を根拠に、キリスト教徒の中でも、妻を自分の思い通りに支配しようとする夫が、後を絶ちませんでした。

 

 夫からの暴力に苦しむ女性には、「相手のために祈りましたか?」「彼を許してあげるべきです」とアドバイスがなされ、男性の方には、妻のために変わるよう注意する人は、ほとんどありませんでした。(自分で言うのもなんですが)私のように外面上は優しくて穏やかな人々の暴力が、そうやって見過ごされてきました。ここに果たして「平和」は実現されるでしょうか?

 

 「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです」……自分の父を、母を敬えない、愛することができない人たちは、この言葉に長年苦しめられてきました。「あなたを産むつもりはなかった」「お前はいらない子だ」幼い頃、言われた言葉、振るわれた暴力、あるいは興味を持ってもらえなかった現実が、繰り返し自らの存在を否定してきました。

 

 それでも、「キリスト者なら、あなたのお父さん、お母さんを許してあげなさい」と語られます。苦しめてきた人間より、苦しんでいる人間に対し、反省と許し、耐えることが一方的に求められました。ここに「平和」は実現されるでしょうか? ついこの前、入試における大規模な女性差別が明るみになったばかりですが、私たちキリスト者も、世俗的な主張を補強するように、聖書を引用しては暴力を容認してきました。

 

 「正常な家族」を形成するため、夫が妻を管理し、両親が子どもを管理する。下の者はそれに従う……世の中の考えを正当化するように、聖書の言葉も抜き出され、やがて上には逆らわず、下には権威的に振る舞うことが「普通」の感覚になっていきました。キリスト教会も簡単に、国家の戦争協力に従いました。

 

 他人事ではありません。私たちの教団の話です。そして、「家族のために」という言葉は、簡単に「国家のために」という言葉へすり替えられます。この国を形成しているのは、間違いなく、私たち「家族」という共同体の集まりだからです。

 

 聖書に出てくるイスラエルという国民も、もともとはヤコブの子孫と、その家族から始まりました。十戒をはじめとする律法には、家族のあり方について言及しているところが幾つか出てきます。家族についての考え方は、国家についての考え方を補強し、国と国との関係にもつながっていきます。

 

 今日は平和聖日です。明日には、広島に原爆が投下された日を迎えます。その原爆を落とした戦闘機には、クリスチャンの機長が乗っていました。命令を受けて、子どもからお年寄りまで、数えきれない命を奪いました。「仕方なかった」と言える建前と大義名分があれば、私たちも同じことができてしまいます。「私には守るべき家族がいる」そのひと言で、同じ数十万人の家族を殺すのが人間なのです。

 

【実現困難な平和】

 大切な人を守ろうとする愛が、殺人を許容させる力にも使われました。しかし同時に、私たちは、愛こそ平和を作り出すとも信じています。誰よりも人々を愛されたイエス様は、全ての人を救うため、十字架にかかってくださいました。自分を見捨てて逃げてしまった人たちに、死という壁を乗り越えて、復活し、和解しに来てくれました。

 

 その主が私たちに命じたのは「互いに愛し合いなさい」という言葉でした。隣人を愛し、敵を愛することで、平和を実現するよう求められました。今日、愛なくして「平和を実現できる」と言う人は、一人もいないでしょう。本当に全ての人がイエス様の言葉に従えたら、世界は平和になるだろうと、キリスト教徒の誰もが思います。

 

 互いに愛し合う……最も身近にいる人間で、その相手を思いつくとしたら、やはり家族の誰かでしょう。実際、先ほどの手紙では、妻と夫について書かれている部分だけで、5回も「愛」という言葉が出てきました。しかし、家族の間で愛し合うことも、一筋縄ではいかないことを、私たちはよく知っています。

 

 「夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません」……妻を支配しようとする夫が、都合よく無視してきた言葉……暴力を振るっているつもりのない男性でも、妻に、あなたはそれができていると心から頷いてもらえる人が、どれだけいるでしょう? 「子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」……娘や息子にいらついて、声を荒げたことのない人が、どれだけいるでしょう?

 

 「私の家族は平和です」あるいは、「私は家族を平和にできます」と胸を張れる人は、ここにいるでしょうか? 私たちは「世界平和」と聞いたとき、それが実現困難であるとすぐ思います。「家族の平和」ならば、まだ実現できるかもしれないと可能性を感じます。しかし、よくよく考えれば考えるほど、実は家族の平和こそ、非常に実現困難であったことを思い出すのです。

 

 上手くいかない嫁と姑との関係、疎遠になった子どもたち、自分には仲裁できなかった親と兄弟……敵が攻めてこなくても、私たちが守れなかった「家族の平和」は、こんなにも身近なところにありました。何なら、この関係が将来「平和」になること、回復されることも、既に諦めてしまっているかもしれません。どれだけ解決が難しく、現実的でないことか、もう身に染みて分かっているからです。

 

 私たちは聖人じゃありません。聖書に出てくる英雄でもありません。平凡で情けない自分たちには、世界の平和どころか家族の平和さえ実現不可能だ……そう感じてしまうかもしれません。ところが、聖書において「神の家族」として選ばれた人々も、私たちと同じ、あるいはそれ以上に歪んだ現実を持っていました。

 

【聖書における歪んだ家族】

 人類最初の夫婦は、神様の掟を破った後、夫が妻に責任をなすりつけます。人類最初の兄弟は、兄が弟を嫉妬して殺します。そして、イスラエルの先祖となったヤコブは、兄エサウの恨みを買い、家出せざるを得なくなります。

 

 これらの家族は、平和とは思えない状況を生きていました。彼らが互いに愛し合える日は来るのでしょうか? むしろ、この家族が平和になるなんて、期待できない方が普通ではないでしょうか? 世界平和の実現並みに「そりゃ無理でしょう」と言いたくなります。なにせ、彼らの関係は徹底的に破壊されているからです。

 

 最初に読んだ創世記の記事は、ヤコブがエサウに憎まれているところからスタートしていました。その原因は、父がエサウに与えるはずだった祝福を、ヤコブが騙し取ってしまったからです。こう聞くと、ヤコブとエサウだけの問題に聞こえますが、もとをたどれば2人だけの問題にはできません。

 

 父のイサクはエサウを愛し、母のリベカはヤコブを愛しました。どちらも子どもたちを平等には愛せなかったのです。ちなみに、イサクがエサウを愛した理由は、自分の好物を獲って来てくれるからという理由です。おいおい食べ物が理由かよ……と思っていたら、さらに事件が展開します。

 

 なんと、長男が受けるはずの祝福をヤコブに受けさせようと、リベカが夫を騙す計画を立てたのです。目の悪い夫が、肌の滑らかなヤコブを、毛深いエサウだと勘違いするように、毛皮を着せて祝福を受けさせる……彼女は、これを実行してしまいました。

 

 いくら弟の方が好きでも、母親のしたことはやり過ぎだと思われるかもしれません。しかし、父親の方も人のことは言えませんでした。彼はまんまと騙され、エサウと思い込んでヤコブを祝福してしまいます。その後やってきた本物のエサウが、「自分にも祝福してください」と言うと、イサクはこう語ります。

 

 「既にわたしは、彼をお前の主人とし、親族をすべて彼の僕とし、穀物もぶどう酒も彼のものにしてしまった。わたしの子よ。今となっては、お前のために何をしてやれようか」エサウは思わず「お父さん、祝福はたった一つしかないのですか!」と叫びますが、結局、泣こうが喚こうが、父親から祝福を受けることはできませんでした。

 

 裏を返せば、イサクは子どものための祝福を、全てエサウだけに与えるつもりで、ヤコブのためには何も残そうとしていなかったことが分かります。父親も、母親に負けず劣らず、異常な偏愛ぶりでした。

 

 かといって、子どもたちも単なる親の被害者にはできません。2人が成人した頃、ヤコブは飢えて死にそうになっていたエサウに、食べ物を与える代わりに長子の権利を譲ってくれるよう交渉します。エサウは空腹のあまり「長子の権利などどうでもよい」と言って、自分の権利を譲ってしまいました。

 

 しかし、ここに出てくる「長子の権利」が、父親から祝福を受ける権利のことなら、通常、子どもたちの間だけで決められることとは思えません。父親の承諾なしに、あるいは法的なやりとりなしに、2人だけで行われてよかったことではないでしょう。聖書には、エサウが「長子の権利を軽んじた」と書かれていますが、同時にヤコブも、エサウを愛する父親の意志を軽んじて、兄の権利を奪ったのです。

 

 どうでしょう? いかにこの家族が歪んでいたか分かったでしょうか? やがて、憎しみに燃えるエサウが、父が死んだらヤコブを殺してやると決意したことで、この家族は徹底的な崩壊を迎えます。リベカは急いでヤコブを呼び、自分の兄ラバンのもとへ逃げるよう促しました。

 

 「お兄さんの怒りが治まるまで、しばらく伯父さんの所に置いてもらいなさい。そのうちに、お兄さんの憤りも治まり、お前のしたことを忘れてくれるだろうから、そのときには人をやってお前を呼び戻します」……彼女は本当に、エサウがヤコブを許す日が来ると思っていたのでしょうか? 2人が和解する日が来ると信じていたのでしょうか?

 

 おそらく、こうは言いつつも信じられなかったのだと思います。彼女がヤコブを呼び戻すことはありませんでした。2人が平和的に再会できると思えないまま、20年以上の月日が流れていきました。母親であっても、子どもたちの関係が回復すること、平和が訪れることを信じられなかったのです。そりゃそうです、私たちでも無茶な話と思います。

 

【あり得ない回復】

 「この家族は平和になれますか?」……今日のメッセージのタイトルを見て、どういう話か気になった方が多いと思います。今、皆さんは気づいているでしょう。「この家族」とは、イスラエルの国民の基礎となったヤコブの家族、同時に、私たちと同じく、解決困難で、複雑な問題を抱えている家族です。

 

 自分の家族の問題と重ね合わせながら、私たちはこの問いを反芻します。「この家族は平和になれますか?」……私の家族は、私の姉夫婦は、私の甥たちは、平和になれますか?  切実な問いに対し、聖書には、ある出来事が書かれています。ヤコブとエサウの再会です。創世記33章に、2人が抱擁し、和解するシーンが出てきます。

 

 ちょっと信じられない話です。ヤコブは神様から「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる」と言われ、生まれ故郷に帰ってきます。しかし、家に戻って来たヤコブ自身、兄との和解を最後まで信じられませんでした。もし、自分の家族や家畜の半分が襲われても、半分はエサウから逃げられるように準備までしていたのです。来たるべく戦闘に備えていました。

 

 しかし、エサウと再会する直前の夜、彼は正体不明の者に襲われて、夜明けまで格闘し、腿の関節を外されてしまいます。戦闘不能な状態にさせられたのです。その相手は、実は神様であったことが後から分かります。ヤコブは神様によって、自分を襲ってくるかもしれないエサウと戦えない状態にされました。

 

 もはや、武力によって家族を守ることはできません。残された手段は、武器を手に取ることではなく、話をすること、両手を広げて抱きしめることだけです。ところが、先に両手を広げて抱きしめてきたのは、自分を殺すほど憎んでいたはずの兄でした。エサウは、ヤコブに口づけし、声をあげて泣きました。騙しているのでもフリでもありません。彼は生涯、ヤコブとその家族を襲うことはなかったのです。

 

 私たちは、家族の平和を守るため、戦いへと駆り立てられます。しかし、本当に家族を守り、家族に平和をもたらすのは、武器を手にする我々ではなく、神様なのです。現実的とは思えない平和への道、自分を襲うかもしれない相手と再会する道……それは戦闘の準備をすることより勇気のいることです。しかし、神様が共におられる道のりです。

 

【食事と聖餐式】

 この後、私たちはキリストの十字架と復活を思い起こす聖餐式を受けます。どこの国の教会でも、私たちキリスト者は、イエス様の体と血であるパンとぶどう酒をいただきます。北朝鮮も中国も、韓国もアメリカも、それぞれの地にある教会は、皆一つとなってこの食卓に集います。

 

 共に食事をすることは、家族の象徴的な風景です。仲違いした者が和解する、数々の機会ともなりました。イエス様を見殺しにした弟子たちも、復活したイエス様と共にパンを食べ、魚を食べ、ぶどう酒を飲み、本当に自分たちが赦されたことを実感し、神の家族となりました。

 

 私たちも、握りしめた銃や剣を床に降ろして、イエス様が差し出すパンとぶどう酒をいただきましょう。同じ時、聖餐に与っている世界中の家族を思い出しましょう。この家族が平和になれることを信じましょう。平和を実現する道にあなたが招かれていることを思い出しましょう。