ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『洗礼を受けたらこうならないといけませんか?』 ミカ書6:1〜8、エフェソの信徒への手紙4:25〜32

礼拝メッセージ 2018年8月12日

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【新しい生き方】

 「クリスチャンは、みんなこういう生き方をしているのですか?」……そう聞かれたら困ってしまうことが、今読んだエフェソの信徒への手紙に書かれていました。神様を信じる前の生き方ではなく、神様を信じた後の「新しい生き方」……それがこれだと手紙の著者は語っています。

 

 嘘をつかないように、隣人に真実を語るように。怒って罪を犯さないように、怒ったままでいないように。盗むのを止めるように、困っている人に分け与えるように。悪い言葉を言わないように、その人に役立つ言葉を語るように……さらには、一切の悪意を捨てるように、憐れみの心で赦し合えとまで言われます……まるで聖人のような生き方です。

 

 「私は神様を信じます」と告白した人は、ここに書かれているような生き方をしなければならない……洗礼を受けたら、こういう生き方にならなければいけない……そう言われているように感じます。しかし、ここで要求されている生き方は、なかなかハードルが高いものです。

 

 「ちょっと私には難しいので、神様を信じるのも、洗礼を受けるのも遠慮します」そう言いたくなる人もいるでしょう。私だって尻込みします。洗礼を受けて15年、牧師になって4年目の私でも、「さあ、こういう生き方をしてください……というか、牧師だからできているんですよね?」と言われたら、思いっきりたじろいでしまいます。

 

 誰にも偽らない人生を歩んでいるか? 怒りをいつまでも抱いてないか? 悪い言葉を語ってないか? 一切の悪意を捨てているか? 正直に言いましょう……そんな生き方できていません。牧師である私は洗礼を受けてからも、聖職者になってからも、嘘をついたことがないとは言えません。怒りを人に見せることは少ないかもしれないですが、長時間腹を立てている時もあります。ポロッと悪口が出ること、悪意が表に出てしまうこともあります。

 

 絶えず、こういう生き方ができているかチェックされるのだとしたら、クリスチャンというのはなかなか窮屈な生き方です。実際、ここにいる皆さんの中にも、その窮屈さを体験している人がいるでしょう。クリスチャンなのに……神様を信じているのに……なぜ優しくなれないのか? 嘘をつくのか? 自分だけ得しようとするのか? 周りの目は余計厳しくなり、自分も情けなくなります。

 

【告発される】

 でもきっと神様は優しい方だから、ここまでできない私のことも赦してくれるだろう。実際はこんな生き方できないけれど、この聖なる生き方にある程度近づけたら、満足してくれるだろう……そう思って、自分を慰めることもあります。私もそうしてきました。しかし、最初に読んだ、預言者を通して語られた言葉が、私たちを打ちのめします。

 

 「聞け、山々よ、主の告発を。とこしえの地の基よ。主は御自分の民を告発し、イスラエルと争われる」……かつて、イスラエルの民は、何度もその不誠実さを告発されてきました。「ここまでできていたら、神様は満足してくれるだろう」……そう考えて行われた形式的な献げ物は、神様に認めてもらえませんでした。神様は人間の偽り、盗み、悪意を大目に見てくれるわけではないようです。

 

 「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」……ここまでやっとけば大丈夫、これ以上やらなければ許される……そんな自分たちが勝手に引いたラインで安心しても意味がない。神様は形式的な行為よりも、正義と慈しみに生きるあなたの生き方こそ求めている……そう語ってくるのです。

 

 参りました。それなら私たちは、告発されたかつてのイスラエルのように、結局裁かれることになるでしょう。一切の悪意を捨てる、互いに親切にし、憐れみの心で接し、赦し合う……教会という共同体でも、それはなかなかできません。30節には「神の聖霊を悲しませてはいけません」とありました。神様を悲しませる行為、良心に背いた行動を、今後一切起こさない……そう自信満々で誓える人間はどこにもいないでしょう。

 

 私も自分が、聖霊を悲しませずに生きているとは思えません。牧師がそんなこと言うのですから、皆さんもますます、クリスチャンを名乗ること、洗礼を受けることがためらわれてきます。しかし、「神の聖霊を悲しませてはいけない」という言葉には続きがあります。「あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです」

 

 保証……それは「あなたが救われる」という保証でした。聖霊は、あなたを罪と死から完全に解放する。あなたが神の国に受け入れられ、永遠の命が受けられるように、聖霊が終わりまで付き合ってくれる……その宣言です。

 

 「こういう生き方をしたら救いの保証が受けられる」と言っているのではありません。むしろ、この生き方ができる前から、聖霊はあなたが神の国に入れるよう、保証していると言われたのです。保証される条件としてではなく、保証してもらえたからこそ、新しく、このように生きなさいと勧められているのです。

 

【師匠と弟子】

 金メダルを取りたい選手がいました。しかし、とても優勝候補とは思えないダメダメな選手でした。才能は乏しく、練習はサボりがち……引退するときには、金どころか、銀も銅も、一度もメダルを取らなかった選手として、みんなから笑われることが目に見えていました。

 

 ところが、その人のもとへ超一流のコーチがやってきました。かつて何度も金メダルを獲った人で、その人が師匠になれば優勝間違いなしと言われていました。しかし、超一流の最高のコーチです。その弟子を名乗れるのは、同じく素晴らしい才能を持ち、弛まぬ努力をしてきた者だけに思えました。少なくとも、基本ができる前の半人前を、弟子にするはずがありません。

 

 ダメダメな選手は「自分を弟子にしてくれ」と言い出せませんでした。その人の弟子を名乗ることが許されるなんて、とても思えませんでした。ところが、コーチは自分に語りかけてきます。「私を信じてついておいで」……その日から、コーチは片時も離れずに、練習に付き合ってくれました。

 

 何回言われたことを理解できなくても、何回練習をサボっても、どれだけ上達するのが遅くても、挫折し再び下手になっても……コーチは自分を弟子として扱い続けます。それどころか、才能を持っている人のように、メダルにふさわしい選手かのように、どこまでも、どこまでも自分に付き合ってくれました。

 

 自分にはコーチのようなプレーはできない……そう何度落ち込んでも言われました。「私が保証する。君がメダルを取る日まで、私は君と一緒にいる」……そうして、かつて自分のしてきた悪いやり方、古いプレーを捨てさせ、新しいプレーができる者となるよう、導き続けてくれたのです。

 

 コーチの名は聖霊です。選手は、あなた自身です。あなたが神の国に入るその日まで、聖霊は、愛と正義に生きる新しい生き方ができるよう、あなたに付き合い続けます。神様はあなたが愛と正義を行えないうちから、もう行なっている者として、「正しい者」として扱ってくださいます。必ず神の国へ入れると、保証し、励ましてくださいます。

 

【イエス様と弟子たち】

 聖書には実際に、師匠と弟子のこのような関係が出てきます。そう、イエス様と弟子たちのあり方が、まさにこのような関係でした。師匠であるイエス様は、一つも罪を犯さない、清く正しく思いやりに満ちた生き方をしていました。弟子たちは、師匠のような生き方ができるようになるため、イエス様から教えられ、学んでいました。

 

 ところが、彼らは弟子と名乗るのもおこがましいような、ダメダメな人たちでした。イエス様の言うことを何回聞いても理解しませんでした。「互いに愛し合いなさい」と言われたのに、誰が一番偉いか繰り返し論争しました。ずうずうしく、自分たちに特別な地位をくださいと願う者もいました。金でイエス様を敵に売り渡す弟子もいました。

 

 師匠が敵に捕まると、全員が見捨てて逃げてしまいました。自分の身が危うくなると、「私はイエスの弟子じゃない」と叫ぶ者もいました。それどころか、憤って呪いの言葉さえ口にしました。偽り、怒り、悪い言葉、悪意……そういった神様を悲しませる行動を何度もとってきたのが、「あなたを信じます」と告白した、イエス様の弟子たちです。

 

 そんな彼らに、復活したイエス様は言いました。「わたしに従いなさい」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」……挫折して自分から離れた者、自分の教えた生き方ができない者たちを、弟子として扱い続けました。弟子であり続けるよう求めました。

 

 イエス様はどこまでも、信じる者に付き合い続けてくださったのです。自分の言葉を信じられなくなった者にさえ、再び信じられるよう導きました。そして、自分が天に昇って人々から見えなくなった後も、一人一人の人生に付き合い、導いてくれるものとして、聖霊を送ってくださったのです。

 

 聖霊は、イエス様の弟子じゃないと嘘をついた人、仲間と争い、怒ってばかりだった人……そんな人々を根気よく導き、新しく変えていきました。この手紙を書いたとされるパウロという人物も、もともとはイエス様の弟子を捕まえて殺す人だった、もはや「手遅れ」と思われる人物でした。キリスト者になるなんて、イエス様を宣べ伝える生き方をするなんて、誰もが信じられなかった人でした。

 

 誰もが信じられない変化を経験したからこそ、彼はこの手紙で命じていることを教え続けました。古い生き方を捨て、新しい生き方をするように。あなたが期待さえしていない生き方を神様はもたらしてくる。自分を諦めているあなたに、聖霊は付き合い続け、変化をもたらし続ける。この方を信じて、新しい生き方へ果敢に挑み続けなさい……

 

【イエス様と私】

 さて、皆さんは、新しい生き方に到達する日が来るでしょうか? ここに書いてある生き方ができるようになるでしょうか? たぶん、頷く方はほとんどいないでしょう。しかし、神様は本気で、あなたがそうなれると期待しています。あなたの弱さ、冷めやすさ、挫折も問題も全て知った上で、あなたに新しい生き方を期待しているのです。

 

 私も、期待されています。家族の中で、一人だけ仲間外れになるのが怖いからという理由で、弟と一緒に洗礼を受けた私……牧師になるつもりはなかったのに、「牧師になることも視野に入れています」と嘘をついて神学部に入った私……恩師の先生に腹が立って一方的に連絡を断ち、その人が死ぬときも、最後まで和解の言葉が言えなかった私……もはや手遅れと思われる問題を抱えた私にも、神様は新しい生き方をもたらします。

 

 私が和解できないまま亡くなった先生は、牧会カウンセリングの授業でお世話になった方でした。たぶん、同期の人たちが聞いたら、喧嘩したことも仲直りできなかったことも信じないでしょう。それほど親しくしていただいた、みんなから愛される先生でした。私も、自分が先生とこんな別れ方をするとは思っていませんでした。

 

 葬儀には顔を出せませんでした。教会の仕事があったのは事実ですが、どうしても行く気になれなかったのです。それからしばらくして、関西で先生の記念会をするという案内が回ってきました。この時も、実は行けないということはありませんでした。しかし、私は理由をつけて行きませんでした。みんなと先生の思い出を語るのが、仲直りできずに別れた自分には辛すぎたのです。

 

 さらにまた、関東で別の日に先生の記念会をするという案内が回ってきました。3回も機会が与えられたのに、この時も私は、先生とお別れする、ごめんなさいと言える公の機会を踏みにじりました。もうさすがに今年度は、自分にそんな機会訪れないだろうと思っていました。生きているときも死んでからも、先生に和解の言葉を口にできないまま一年を終えるのだと思っていました。

 

 普段、和解と回復を礼拝で何度も口にしている私が、こんな有様です。和解に至る道を踏み出せない、ヘロヘロな人間……隠していますが、クリスチャンらしい生き方なんて、できていない姿の方がずっと多いのです。

 

 ところが、4回目が訪れました。まだ半年経っていないのに、こんなに何度も先生の記念会が開かれるとは思ってもいませんでした。9月16日の日曜日、名古屋という近場で、午後から記念会が行われます……先輩の牧師からそう連絡が来ました。

 

 この日は、私が遠野の付知教会へ行って、交換講壇をする日です。帰って来たら、ギリギリ終わりに間に合うかどうかという微妙な時間帯。ちょっと無理かな……と思いました。もともとみんなと先生の思い出を語るのはしんどいものがありました。しかし、「行かない」とはもう言えませんでした。嘘をついて、和解できなかったことを後悔したまま過ごす古い生き方から、神様の前で、先生と自分との関係に向き合う新しい生き方を促す力が働き続けていました。

 

 4回目だぞ、いい加減行ってこい…………生きているときに言えなかった言葉を言ってこい。彼女はもうこの世にいないが、その言葉は届く。私があなたと一緒にいる。何かが背中を押してきます。変わらなかった私の生き方が、今、少しだけ新しくなろうとしています。

 

 9月16日、その日が過ぎたら、たぶん皆さんに私は聞かれるでしょう。「先生、記念会には行けましたか?」「亡くなった先生に言いたかった言葉を言えましたか?」……皆さんが証人となるでしょう。愚かな私に付き合い続けてくれる方、私たちに変化をもたらしてくれる方、その力の業の証人に……

 

【聖霊の悲しみ】

 エフェソの信徒への手紙に記されたキリスト者の「新しい生き方」……それは、「こうならなければクリスチャンとは言えない」「こうなれないなら洗礼を受けてはいけない」というものではありません。

 

 神様を信じたあなたは、この到底到達できないような生き方をする者へ導かれてしまうのだ。聖霊が終わりまで、あなたに付き合ってくれるのだ。あなたの心と体と魂を、ここへ至らせるまで付き合ってくれるのだ……その信頼のもとで命じられた言葉です。

 

 実際、エフェソの教会で洗礼を受けた人たちは、この生き方ができるから洗礼を受けたわけではありませんでした。もしできているなら、こんなこと命じられる必要も、手紙を送られる理由もありませんでした。手紙の著者は強く勧めます。古い生き方を捨てて新しい生き方を送るように、「自分にはここまでしかできないだろう」という線を引き、自分に付き合ってくれる聖霊を悲しませないように……

 

 共に、新しい生き方を求めて、祈りを合わせましょう。