ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『捨てられちゃった……』 イザヤ書5:1〜7、使徒言行録13:44〜52

礼拝メッセージ 2018年8月19日

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【捨てられたイスラエル】

 神様に見捨てられた……と感じた経験はあるでしょうか? イスラエルの民は少なくともこれを二度経験します。一つは、アッシリアによって北イスラエルが滅ぼされたとき、もう一つは、バビロニアによって南ユダが滅ぼされ、イスラエルが完全に敵の国の支配下に陥ったときです。

 

 首都エルサレムは城壁を破壊され、外敵に侵入され、人々の家も美しい神殿も、皆焼き払われてしまいました。その様子を連想させる言葉が、先ほど読んだイザヤ書5章に出てきます。

 

 「さあ、お前たちに告げよう。わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ、わたしはこれを見捨てる」と。そう、神様がイスラエルを捨てられるという預言が、ここでなされていたのです。

 

 今日のメッセージにつけられた「捨てられちゃった……」というタイトル、主語も目的語もありませんが、教会に通っている方の多くはこう思ったはずです。神様が人間を見捨てることも、やっぱりあるのだろうか? 私も捨てられる可能性があるのだろうか?……いやいや、憐れみ深い神様が人間を見捨てるなんてあり得ない、そんなことあって欲しくない!……と。

 

 ところが、預言者イザヤが残した「ぶどう畑の歌」には、はっきり「見捨てる」という言葉が出てきます。しかもご丁寧に、誰が見捨てられるのかまで明確に示しているのです。「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々」……その彼らが、神様の期待する公正な裁きも正義も行わず、流血と不正を繰り返したため、文字どおり捨てられることになった……そう言われているのです。

 

 神様から特別に選ばれ、愛され、守られてきたイスラエルの民は、ついに見放されてしまいました。彼らは故郷を滅ぼされ、外国へ連れて行かれ、帰るところを失います。そして今日、私たちはもう一つ、新約の時代に「ユダヤ人が見捨てられる」話を聞きました。イエス様の昇天後、弟子たちが教えを宣べ伝えている頃を描いた、使徒言行録に記されている話です。

 

【捨てられたユダヤ人】

 ここでは、アンティオキアで伝道を始めたパウロとバルナバの言葉を、多くの人が喜んで受け入れた一方、一部のユダヤ人たちが2人をひどく妬んだことが書かれていました。普段、自分たちが会堂で教えても集まらない人々が、パウロとバルナバのときには、ほとんど町中から集まってきたからです。

 

 彼らは、イエス様の教えに反対し、2人を口汚く罵ります。そこで、パウロとバルナバは、ユダヤ人たちにこう返しました。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く……」

 

 ようするに、ユダヤ人が神の子であるイエス様の教えを拒否したから、彼らではなく異邦人に伝道が行われるようになった……そういう話だと理解されます。さらにこの時、異邦人たちが主の言葉を賛美した後、「永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」と書かれています。

 

 とても気になる表現です。「永遠の命を得るように定められている者」……つまり、定められていない者、永遠の命を受けられない人間もいると聞こえてくるからです。ここでは、信仰に入らなかったユダヤ人、町の主だった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させた彼らが「永遠の命を受けられない者」というふうに見えてきます。

 

 神様のことも、神の独り子であるイエス様のことも拒絶し、ユダヤ人はついに見捨てられてしまったのか? そうは思いたくありませんが、パウロとバルナバは彼らのもとを去るとき、「足の塵を払い落とし」て出て行きます。これは、イエス様が弟子たちを最初に派遣したとき、行き先で拒絶されたらこうしなさいと命じられていた応答です。相手に対する決別を表す行動……お前たちのことはもう知らない、というふうに受け取れます。

 

 ある人々は救われて、ある人々は捨てられる……この話を読むとき、自分を異邦人に当てはめたら「ああ、私も救われる……」と安心できるかもしれません。しかし、自分をユダヤ人に当てはめたら、永遠の命を得られない、神様から捨てられてしまうことになる、恐ろしい話に感じます。

 

 だからこそ、多くの人はこう思うはずです。私はユダヤ人じゃない、どちらかというと異邦人の方だから、安心していいはずだ……あるいは、こう思うかもしれません。神様から捨てられないように、ユダヤ人みたいにならないようにしようと……こうして口に出すと分かります。特定の民族やグループを「捨てられる存在」という感覚に落とし込むことで、私たちは安心しようとしてしまう……。

 

【反ユダヤ主義】

 さて、教団の聖書日課で挙げられている今日の箇所は、『全ての人に対する教会の働き』というテーマで選ばれています。厄介なのは、預言書、福音書、使徒書のいずれにおいても「イスラエル」ないし「ユダヤ人」が、「主なる神」あるいは「イエス・キリスト」を拒んだゆえに捨てられる……という展開で一致しているところです。

 

 12世紀から13世紀のキリスト教社会では、そんなユダヤ教徒の服装や居住地を制限し、彼らを「内なる敵」として差別する反ユダヤ主義が進みました。また、19世紀になると、ユダヤ人を生物学的に劣った人種とする考え方が生まれ、ドイツではナチスによって数百万人のユダヤ人が殺されました。

 

 特定の人々を宗教的・経済的・人種的理由から差別・排斥しようとする考え方は、かつてのドイツやオーストラリアだけでなく、今の日本でも見出されます。中国、韓国、北朝鮮をルーツに持つ在日、滞日の人々へのヘイトスピーチ……それを繰り返しながら進む行列に、私も神戸で一度だけ遭遇したことがありました。

 

 直接遭遇しなくても、インターネットやSNSを開けばいくらでも、彼らへの誹謗中傷を見ることができます。自分の恋人、友人、先輩が「殺されてもかまわない」「捨てられて当然」の存在として扱われる……思い出すと今でも手先がビリビリしてきます。

 

 神様はそんなことなさらない、誰かを捨てることも、捨てられて当然という扱いもなさらない……私はそう信じていますし、切実にそう願っています。しかし、聖書には先ほどのような「ある人々は救われて、ある人々は捨てられる」と捉えられる箇所が出てきます。それも、捨てられる人たちに対し、あなたが拒んだから、あなたが信じなかったから、あなたが受け入れなかったから、だから神様も拒まれる……そう言われているところです。

 

 似たような言葉を、私たちは聞くことがあります。自分が見捨てられたときの言葉、もう知らないと放り出されたときの態度……そこにはいつも、「お前が悪いから」という理由がありました。頼んだことをしない、期待したことをやらない、失敗を繰り返して失望させる。だから、私はお前を捨てる、お前のことはもう知らない……

 

 自分に自信を失っては神様にすがりつき、もう一度立とうとしてきました。しかし、その神様も、いつか私を捨てるときがあるのでしょうか? 私たちが、神様に捨てられた……と呟く日が来るのでしょうか? 確かに、神様から「捨てられた」としか思えない経験をした人たちがいました。それはイスラエルの民だけのことではありません。他ならぬ、ユダヤ人に迫害されたキリスト者パウロ自身も、かつて「捨てられた」存在でした。

 

【捨てられたパウロ】

 使徒言行録9章には、パウロがキリスト者になる前の出来事が書かれています。彼はもともと、イエス様の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込み、男女問わず縛り上げてはエルサレムに連行しようとする人物でした。弟子たちの中で、最初に殉教したステファノが殺されるときも、その殺害に賛成していたことが前の章に記されています。

 

 イエス様の教えに反対し、罵るどころの話ではありません。パウロは誰よりも本気でキリスト者を迫害していた人間だったのです。ところが、そんな彼に対し、イエス様の幻が現れます。「なぜ、わたしを迫害するのか」そう呼びかけられたパウロは、次の瞬間、目が見えなくなっていました。

 

 盲目になる……それはレビ記で列挙されている神様の呪いの一つでした。これまで熱心に神様の教えを守り、異端だと思っていたキリスト者を捕まえてきたパウロは、自分が神様に呪われる者となってしまいました。彼は、三日間目が見えず、食べることも飲むこともできませんでした。その間、発言も全く記されず、まさに死んだような、捨てられたような状態だったことが分かります。

 

 ステファノが殉教したとき、その殺害に賛成したパウロは、きっと彼の最後の説教を聞いていたのでしょう。にもかかわらず、イエス様の教えを受け入れず、反対し、拒絶してしまった彼は、もはや手遅れの人間に見えました。永遠の命に定められない、滅ぶべき者として、自ら歩んでしまったのです。

 

 パウロは、幻のイエス様からこう語りかけられます。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」……暗闇で手を引いていかれる彼の心境は、これから処刑場へ引いて行かれる犯罪人と何ら変わらなかったのではないでしょうか?

 

 ところが、自分の過ちを示され、見えなくされ、捨てられたと思っていたパウロは、アナニアという主の弟子に手を置いて祈られます。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」

 

 アナニアがそう言うと、たちまち目から鱗のようなものが落ち、彼は見えるようになりました。パウロは身を起こして洗礼を受け、三日ぶりに食事をして元気になります。死んでいた者が生き返り、捨てられた者が甦りました。パウロは自分と同じようにイエス様を拒絶するユダヤ人にも伝道を始めます。

 

 彼は新しい土地に入ると、いつも最初に、ユダヤ人のいる会堂へ行って伝道しました。それは、アンティオキアでユダヤ人たちに拒絶されてからも変わりませんでした。彼は、「見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く」と言ってからも、最後の最後まで、ユダヤ人伝道を放棄しないのです。

 

 アンティオキアで足の塵を払い落とした後も、決別の徴を見せた後も、彼は再びこの地へやって来ます。神様に捨てられたと思われたパウロ自身が、もう手遅れと思われた彼自身が、再び救い出されたように、ユダヤ人もまた救われる日が来ると信じていたのです。

 

【捨てられたイエス様】

 最初に、神様に背いたイスラエルが、酸っぱいぶどうを実らせる畑にたとえて、神様に捨てられると預言されていたことを話しました。実は、同じぶどう畑を使った比喩が、同じ預言者の口から、こことは正反対の意味で出てきます。イザヤ書27章で、預言者は神様の言葉をこう語っているのです。

 

 「その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え、主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ、害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。わたしはもはや憤っていない……わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい。時が来れば、ヤコブは根を下ろし、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、地上をその実りで満たす」

 

 これは、終わりの日におけるイスラエルの預言で、神様が自分に逆らった人々へ「わたしは、もはや憤っていない」と宣言され、和解を呼びかけることが語られています。神様は、イスラエルを「捨てる」と言った後も、彼らが滅びへ向かうのを、最後の最後まで放置しません。

 

 結局のところ、誰一人捨てられることがないように、神様はご自分の独り子であるイエス様を遣わして、人々の代わりに捨てられたのです。イエス様は父なる神様の意志に従って十字架にかかり、息を引き取る前にこう叫びました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか!」 

 

 あれは本来、私たちが叫ぶはずの言葉でした。ユダヤ人が、ドイツ人が、朝鮮人が、日本人が、あらゆる人種・民族の人々が叫ぶはずの言葉でした。しかし、その痛みを背負って叫んだのはイエス様でした。神の子であり、死ぬ必要のなかったイエス様が、死に渡されて捨てられたのです。

 

 さらに、神様はこの独り子をも捨てた後、復活させます。そして、独り子を信じる者が一人も滅びないように、永遠の命を与えるのです。先祖代々、信仰を守ってきたわけではない人々……律法を守っていない、それどころか知りもしない異邦人……もともと神様に捨てられると思われていた人々も、永遠の命を得るよう定められている……自らの行いによって救われると思っていたユダヤ人にとって、それは衝撃的なことでした。

 

【見捨てない神様】

 このように、聖書全体に記されている出来事は、捨てられたはずの者が救われていく話の連続です。神様に逆らったアダムとエバは楽園を追放されながらも、その身を守るため皮の衣を与えられます。弟を殺して土地を追放されたカインは、誰からも殺されないよう神様に守られ続けます。繰り返し神様に背いて敵に攻め込まれたイスラエルは、その度に憐れみを受けて助けられます。

 

 全ての人に対し、神様はこの恵みと憐れみをもたらします。捨てられたままにされる存在はありません。地の果てまでも救いをもたらすために、神様は信じた者をどんどん派遣していきます。あなたの生き方を通して、神様の救いを知る人が広がっていくように、それぞれの場へと遣わされていきます。あなたはもはや捨てられる者ではなく、遣わされる者なのです。その道が整えられるように、共に祈りを合わせましょう。