ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『この愛は本物じゃないかもしれません』(vol.2)マルコによる福音書12:28〜34、コリントの信徒への手紙一13:1〜13

礼拝メッセージ 2018年8月26日(於:田瀬教会)

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【愛のハードルが高すぎる】

 世の中で最も崇められているもの、憧れられているものがあるとすれば、それは「愛」でしょう。ヒット曲の多くは、愛にまつわる詩が歌われています。映画や小説には、ラブロマンスや家族への愛が出てきます。愛のこもった贈り物、愛の感じられる行動を、私たちは喜びます。多くの人を受け入れる愛に、美しさを感じます。

 

 その証拠に、「愛」が理由であれば、ほとんどのことが許されます。嘘や秘密、理不尽に思える扱いも、「そこに愛があったのだ」と言われれば、何となく責めてはいけないように感じます。「愛」が理由であれば、DVやパワハラ、殺人さえ許容されます。許容されてきた過去があります。愛は非常に便利です。何かを支配するとき、とんでもない力を発揮します。

 

 けれども、多くの教会に手紙を書き送ったパウロは、そんな都合の良い「愛」を語りません。彼は、愛についてこう記していました。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

 

 さあ、これが本物の愛だとしたら、皆さんは自信を持って、誰かを愛していると言えるでしょうか? パートナーに、忍耐を持って接することができない。情け深く接するよりも、厳しく接してしまう。尊敬する人、愛してやまない相手にも、どこか妬みも感じてしまう。恋人には自分の自慢ばかりして、尊大な態度を取ってしまう。

 

 可愛がっている後輩や部下に、ぞんざいな扱いをしてしまう。子どもにいらだちを覚えない日はなく、面倒ごとを押し付ける家族に恨みを抱いてしまう。上司や先輩が理不尽な目に遭うと、憐れみよりもスカッとした気持ちが芽生えてしまう。愛する人を心から信じ、心から期待し、辛いことに耐え、我慢しているというよりも、どこか諦めてしまっている自分がいる。

 

 これらの一つも、自分には心当たりがないという人は、数える方が難しいでしょう。パウロの語る愛は、ハードルが高すぎて、「あなたの愛は本物じゃない」と言われているような気分になります。また、この先どれだけ努力しても、どれだけ心の清い人になろうとしても、本物の愛に至ることなんてとてもできない……そう思えてしまいます。

 

【愛と真逆な律法学者】

 パウロが記した本物の「愛」から遠のいている人間の姿……自分のことを善良で愛のある人間だと思いつつも、実はそうとは言えない姿……聖書の中には、そんな私たちを映し出す鏡のように、ある人々のことが描かれています。そう、教会にしばらく通っている人なら、すぐにピンとくる人々、律法学者の姿です。

 

 律法学者と言えば、イエス様の激しい論争相手であり、イエス様の殺害を企む代表的なグループでした。言わば、聖書に出てくる悪役の一画です。彼らは、旧約聖書に記された613個もの掟を熟知した、律法の専門家でした。決して、裕福な人たちではありませんでしたが、神様の教えを一言一句正確に守るため、聖書をよく読み、研究し、人々の生活を指導するエリートでした。

 

 言い換えれば、とても真面目で、堅実に人生を歩んできた人たちでした。しかし、彼らはパウロが定義した「愛」とは、真逆の姿で描き出されます。愛は忍耐強く、情け深く、ねたまない……それに対し、律法学者は、掟を守れない人たちを「罪人」と定め、「汚れている」と排斥し、病人に近づくことも嫌がりました。自分たちより人気の出てきたイエス様に対し、激しく妬む気持ちも持っていました。

 

 愛は自慢せず、高ぶらず、礼を失さない……一方で、律法学者のこんな姿が、イエス様の口から暴露されています。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。」

 

 さらに、彼らがうやうやしくイエス様に質問するときは、たいてい相手を陥れ、罠に嵌めようとするときでした。言わば、相手を試そうとする質問でした。また、イエス様が、当時嫌われていた徴税人たちと食事を共にしていると、「あの人は罪人と食事をしている」と言い、重箱の隅をつつくかのように上から物事を言いました。自分に対する礼儀は強く求めながらも、人に対する礼儀を失っていることに、気づかないこともありました。

 

 愛は自分の利益を求めず、いらだたず、うらみを抱かない……これとは反対に、彼らは夫を失った女性から財産を取り上げ、自分たちが管理してしまうこともありました。イエス様を罠に嵌めようとして失敗し、かえって民衆の人気が集まると、その度に、律法学者は憤り、苛立って、恨みを募らせていきました。

 

 愛は不義を喜ばず、真実を喜ぶ……パウロはそう書いていますが、律法学者は違う反応を示しました。病人がイエス様に癒されても喜ばず、イエス様を殺すためなら、普段敵対しているサドカイ派や祭司長たちとも手を組みました。彼らが喜んだのは全ての人が愛と正義に生きることではなく、自分たちが正義と見られることでした。

 

 愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える……律法学者はどうだったのでしょう? 彼らはむしろ、自分たちが批判されるのを我慢できませんでした。群集たちから怒りが向けられるのを恐れ、長いことイエス様を捕えることができませんでした。イエス様が行った数々の奇跡を見、革新的な教えを聞いても、救い主だと信じることができませんでした。これが、愛の定義とは真逆の道を行く、律法学者の姿でした。

 

【イエス様に近づく律法学者】

 さて、こんなにも「愛」から離れた律法学者が、パウロの語る「愛」に近づく日は来るのでしょうか? これは、私たち自身の切実な問いでもあります。今、愛の定義を見て、自信を失っている私たち、「あなたの愛は本物じゃない」と言われている気分になっている私たち、そんな私たちでも、この愛に至ることはできるのだろうか? それとも、もはや望みようがないことなのか?

 

 いいえ、違います。愛からかけ離れた者、愛とは真逆の道を行く者が、この道に再び近づけられる出来事がありました。それが、最初に読んだ『最も重要な掟』について議論する、イエス様と律法学者の話です。このマルコによる福音書12章後半に出てくる律法学者は、他の律法学者とはえらく違います。

 

 彼は、自分以外の律法学者や祭司長、ファリサイ派やヘロデ派、サドカイ派といった人たちが、イエス様に質問し、返された答えが、非常に立派なものであると認めます。他の場面なら、イエス様をやり込められなかったこと、罠に嵌められなかったことを悔しんで、恨みと嫉妬にかられるところですが、ここでは違います。彼は進み出て、イエス様に尋ねます。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」と。

 

 この質問は、イエス様を試そうとして投げかけたものではありませんでした。イエス様の揚げ足を取るため、失敗するところを見せるため、問いかけたものではありませんでした。律法学者は上から目線でなく、先生に対する生徒のように、自らを低くして質問します。そう……高ぶらず、礼を失さない態度で、問答を始めたのです。

 

 先ほども少し述べたように、旧約聖書に記された掟は、数え上げると全部で613個にもなると言われています。その中で、より重要な掟、一番に守るべき教えは何か? という問題は、律法学者の中でも議論が尽きませんでした。彼は、イエス様を貶めて、自分の評価を上げるため、自分の利益を得るためでなく、純粋に、人々が抱える疑問を解決するために質問します。

 

【愛に近づく律法学者】

 イエス様は、この人の質問に対し、2つの掟を答えました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

 

 神への愛と人への愛、これが最も重要な掟であると、イエス様は答えます。ただ実はこれ、そんなに珍しい教えではありませんでした。イエス様が一つ目に挙げた掟は、申命記6章5節の戒めで、敬虔なユダヤ人なら日毎に暗唱し、誰もが知っているものでした。二つ目の掟も、レビ記19章18節の戒めで、こちらも昔から大事にされてきたものです。

 

 ユニークなのは、イエス様が2つの掟を同じ重さがあるものとして、一緒に並べたことです。つまり、神への愛は、隣人への愛を実践することにおいてのみ具体的となり、隣人への愛は、神への愛に基づいてのみ可能になるという認識です。ようするに、神様を愛することなく人を愛することも、人を愛することなく神様を愛することも、本来できないのだという話です。

 

 サラッと言いましたが、とても厳しい話です。私たちには、神様を愛せないとき、隣人を愛せないときが出てきます。神様につまずき、疑っているときには、本当の意味で人を愛せていない……隣人に腹が立ち、怒りを鎮められないときも、本当の意味で神様を愛せていない……それなら私は、いつ、神様を、隣人を愛せていると言えるのだろうか?

 

 この厳しい問いを突きつけてくるのが、イエス様の答えです。ところが、それに対し律法学者は、なんと全面的に賛同します。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」

 

 律法学者がイエス様の言葉に同意を表す話は、4つの福音書でここにしか見られません。彼は、厳しい問いを突きつけて来るイエス様の答えを「本当だ」と認め、喜んで受け入れたのです。不義を喜ばず、真実を喜びました。さらに衝撃を受けるのが、イエス様も律法学者の返事を適切だと認め、「あなたは、神の国から遠くない」と語ったことです。両者、敵対する立場であったのに、互いを認め、互いを受け入れ合います。

 

 もちろん、イエス様を認めた律法学者は、この後仲間たちから責められることになるでしょう。イエス様を陥れるどころか、肯定してしまった者として、非難されることになるでしょう。質問し、こう返事をすれば、そうなることは分かりきっていたはずです。けれども、彼はその全てを耐え忍ぶ選択をします。愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える……手紙の中に出てきた「愛」の姿が、ここに現されていました。

 

【愛の変化をもたらしたもの】

 この律法学者は、最初から他の律法学者とは違って、愛に満たされた人物だったのでしょうか? 私は違うと思います。彼はおそらく、他の律法学者と変わらない、私たちと変わらない問題を持つ人間でした。旧約聖書にどれだけ精通していても、何を一番大事にすべきか答えが出せない……「愛」という最も証明困難な、実践困難な掟を第一とすることが、自分一人ではできない……そんな弱い人間でした。

 

 しかし、彼は敵対する人々と誠実に議論するイエス様の姿を見て、質問する勇気を与えられます。律法学者に訪れた変化は、イエス様と出会って始まりました。忍耐強く、情け深く、人と接するイエス様の姿……無理解な弟子たちに辛抱強く教え、貧しい者や弱い者の目線に立ち、馬ではなくロバに乗って迎えられ、「善い」のは神お一人だと告白する……その姿を目の当たりにしたとき、彼の中に、本物の「愛」が芽生えました。

 

 「愛」とはイエス様の姿であり、イエス様と出会った人に訪れる新しい変化なのです。彼は、イエス様と出会って、不義を喜ばず、真実を喜ぶ者として、問いかける力を受けました。一人では「第一の掟」と言えなかった教えを、最も重要な掟とする勇気を与えられました。さらに、イエス様は彼にこう言いました。「あなたは、神の国から遠くない」……「遠くない」という表現は、さあ入りなさいという決断を促した招きでもあります。

 

 実践困難な掟、神への愛と人への愛に生きる道、最高の道へと、他ならぬイエス様が推し進めてくださいます。忍耐強く、情け深く、いらだたず、恨みを抱かない……そんなイエス様が、私たちの内に入られます。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを耐えるイエス様が、私たちを愛し合う者へと変化させます。

 

 今も、あなたの中で、私の中で、イエス様は愛の変化をもたらそうとしています。イエス様は、私たちが望めないことさえ望み、期待できないことさえ期待し、根気よくその変化をもたらします。パウロは単に、愛のハードルを高くしたのではありません。神様の愛がもたらす信じられない変化を、私たちに力強く語ったのです。既にその愛が、聖霊なる神様が、あなたの内に送られています。共にその力を信じて、歩みだしていきましょう。

 

*同日の華陽教会の礼拝メッセージは、聖書箇所、タイトルは一緒ですが、少し内容が違います。気になる方はこちらをご覧ください。

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