ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『この愛は本物じゃないかもしれません』(vol.1) マルコによる福音書12:28〜34、コリントの信徒への手紙一13:1〜13

礼拝メッセージ 2018年8月26日(於:華陽教会)

f:id:bokushiblog:20180826184144j:plain

【愛がなければ価値はない?】

 「善人と偽善者との違いは何か?」と聞かれたら、「そこに愛があるか否かだろう」と返されることが、最も多いと思います。愛がなければ、どんな善行も自分勝手な行いにしかならない、本当の意味で相手のためにならない……よく耳にする言葉です。同時に、私たちはこんなことを恐れます。「あなたの行動は愛がない」「あなたは偽善者だ」と言われることを。

 

 宣教者パウロがコリント教会へ宛てた手紙には、この問題が非常に鋭く尖った言葉で語られています。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」……異言というのは、熱心な祈りから出てきた意味不明な言葉を天からの言葉と解したもので、預言や知識、信仰と並んで、神様から与えられる霊的な賜物とされていました。

 

 パウロは、これらの賜物は、愛があれば意味を持つが、愛がなければ一切空しく、何の価値もなくなると主張します。裏を返せば、霊的な賜物を持つカリスマ性のある人々が、そうでない人々を弱い者と見下し、ぞんざいに扱っている現実が、教会の中にあったわけです。旧約聖書においても、神様から「霊」を与えてもらったにもかかわらず、イスラエルの王が、しばしば高慢になって、人々を虐げたことが思い出されます。

 

 「私はこんな特別な奉仕ができるけれど、あなたは特に役に立ってない」「私はこんなにもささげられるけど、あなたはちょっとしかささげられない」……そんなふうに、教会の中でも、信仰生活においても、一部の人を「生産性がない」と蔑んでしまう人がいたわけです。そんな彼らに対し、パウロは3節でこう言います。

 

 「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」……貧しい人々のために、自分の財産を使い尽くすという生活は、初代教会において、最も理想的で優れた善行とされていました。現在でも、そう簡単にできることではありません。

 

 しかも、わが身を死に引き渡すという選択に関しては、イエス様もヨハネによる福音書15章13節でこう言っていました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と。ところが、パウロは言うのです。自分の財産や命を投げ打つ行為が、必ずしも愛を伴っているとは言えないと。むしろ、愛なしにそれらの大胆な行動をしても、神様の前では無益なのだと。

 

 聖書の中には、自己犠牲的態度や殉教を肯定的に捉え、人々に勧める箇所が数多く出てきます。しかし、パウロはこの時、国や宗教のために自分を犠牲にし、命を賭ける行為を手放しで賞賛することはありませんでした。それらが「愛」よりも「誇り」を優先し、熱狂的に実践される場合があるのを、彼はよく知っていたのです。パウロは繰り返し「愛」が最も重要であることを説いて、神様が求める最高の道とは何か、私たちに教えます。

 

【最も重要な掟は愛】

 福音書の中でも「愛」の重要性は度々語られていました。その中でも、最初に読んだ「第一の掟」に関する律法学者とイエス様の問答はよく知られています。律法学者と言えば、イエス様の激しい論争相手であり、イエス様の殺害を企む代表的なグループでした。彼らがイエス様に質問するときは、たいてい陥れ、罠に嵌めようとするときでした。

 

 ところが、マルコによる福音書12章後半に出てくる律法学者は、何やら違った様子です。彼は、イエス様が、敵対するファリサイ派やサドカイ派の人々に対し、適確で立派な答えを返したと認めます。そして、イエス様を試すためでなく、純粋に、自分たちの問いを解決するために尋ねます。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と。

 

 旧約聖書に記された掟は、数え上げると全部で613個にもなると言われています。その中で、より重要な掟、一番に守るべき教えは何か? という問題は、律法学者の中でも議論が尽きませんでした。イエス様は、この人の質問に対し、2つの掟を答えます。

 

 「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

 

 神への愛と人への愛、これが最も重要な掟であると、イエス様は答えます。ただ実はこれ、そんなに珍しい教えではありませんでした。イエス様が一つ目に挙げた掟は、申命記6章5節の戒めで、敬虔なユダヤ人なら日毎に暗唱し、誰もが知っているものでした。二つ目の掟も、レビ記19章18節の戒めで、こちらも昔から大事にされてきたものです。

 

 ユニークなのは、イエス様が2つの掟を同じ重さがあるものとして、一緒に並べたことです。つまり、神への愛は隣人への愛を実践することにおいてのみ、具体的となり、隣人への愛は神への愛に基づいてのみ、可能になるという認識です。ようするに、神を愛することなく人を愛することも、人を愛することなく神を愛することも、本来できないのだという話です。

 

 サラッと言いましたが、とても厳しい話です。私たちには、神様を愛せないとき、隣人を愛せないときが出てきます。神様につまずき、疑っているときには、本当の意味で人を愛せていない……隣人に腹が立ち、怒りを鎮められないときも、本当の意味で神様を愛せていない……それなら私は、いつ、神様を、隣人を愛せていると言えるのだろうか? この厳しい問いを突きつけてくるのが、イエス様の答えです。

 

 それに対し、なんと律法学者は全面的に賛同します。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」

 

 律法学者がイエス様の言葉に同意を表す話は、四福音書でここにしか見られません。さらに衝撃を受けるのが、イエス様も律法学者の答えを適切だと認め、「あなたは、神の国から遠くない」と語ったことです。両者、敵対する立場であったのに、互いを認め、互いを受け入れ合います。

 

 愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない……手紙の中に出てきた「愛」の姿が一つ、ここに現されていました。「愛」とはイエス様の姿であり、イエス様と出会った人に訪れる、新しい変化なのです。

 

【愛のハードルが高すぎる】

 さて、コリントの信徒への手紙に戻りましょう。今日読んだ13章全体は『愛の賛歌』と呼ばれる有名なところで、教会関係者の間ではよく知られています。ただ、正直言うと「愛とはこんなに素晴らしいものなんだ」と称える賛歌というより、「愛ってこんなにハードル高いの?」という厳しい教えに聞こえてくる、というのが本音ではないでしょうか?

 

 先ほどもチラッと出てきた、手紙で語られる愛の定義がその理由です。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

 

 これらを全てクリアすることはたいへん困難です。愛する人の言動に腹が立ち、我慢できなくなってしまう。情け深く接するより、厳しく接してしまう。どうしても妬みや嫉妬を覚えてしまう。相手を見下し、ぞんざいに扱ってしまう……全く心当たりのない人は少ないでしょう。「あなたの愛は本物じゃない!」そう言われているような気分に陥ります。

 

 律法学者たちもそうでした。彼らは愛することより、自分を良く見せようとして、人を裁いてしまうことが多かったと、何度も聖書に出てきます。「彼らは長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」……イエス様自身もそう非難していました。

 

 「第一の掟」について尋ねた人も、全く心当たりがなかったわけではないでしょう。初めから、イエス様と話す前から、実は答えを知っていたなんて、私はあまり思えません。彼はおそらく、私たちと変わらない問題を持つ人間でした。旧約聖書にどれだけ精通していても、何を一番大事にすべきか答えが出せない……「愛」という最も証明困難な、実践困難な掟を第一とすることが、自分一人ではできない……そんな弱い人間でした。

 

 しかし、彼は敵対する人々と誠実に議論するイエス様の姿を見て、質問する勇気を与えられます。一人では「第一の掟」と言えなかった教えを、最も重要な掟と告白する力を与えられます。彼はこの後、同じ律法学者の仲間から、「お前もイエスの仲間か?」と問い詰められることになるでしょう。イエス様を陥れるどころか、認めてしまった者として、糾弾されることになるでしょう。質問すればそうなることは、分かりきっていたはずです。

 

 けれども、彼はその全てを耐え忍ぶ力を与えられました。イエス様と出会って、不義を喜ばず、真実を喜ぶ者として、問いかける力を受けました。さらに、イエス様は彼にこう言いました。「あなたは、神の国から遠くない」……「遠くない」という表現は、まだ神の国へ入っていない人に、さあ入りなさいという決断を促す「招き」の意味を含んでいます。

 

 実践困難な掟、神への愛と人への愛に生きる道、最高の道へと、他ならぬイエス様が推し進めてくださいます。忍耐強く、情け深く、いらだたず、恨みを抱かない……そんなイエス様が、私たちの内に入られます。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを耐えるイエス様が、私たちを愛し合う者へと変化させます。

 

 今も、あなたの中で、私の中で、イエス様は愛の変化をもたらそうとしています。イエス様は、私たちが望めないことさえ望み、期待できないことさえ期待し、根気よくその変化をもたらします。パウロは単に、愛のハードルを高くしたのではありません。神様の愛がもたらす信じられない変化を、私たちに力強く語ったのです。既にその愛が、聖霊なる神様が、私たちの内に送られている……びっくりするような秘密を明かしたのです。

 

【愛の最強説】

 そんなこと言われても、ここに書いてあるような愛はとても実践できない。このような愛に至ることはないだろう……そう感じる人もいるでしょう。しかし、あなたの中には、紛れもなく本物の愛、イエス様がおられるのです。その愛は決して滅びません。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れようと、愛は絶対になくならないとパウロは明言しています。

 

 絶対になくならない愛が、あなたを守り続け、導き続け、変え続けるのです。今は未熟でも、終末が来るその日まで、神様に顔と顔を合わせて会うその日まで、あなたから、愛が消え去る日はありません。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」……あなたの中に「愛がない」と言える人は一人もいないのです。完全でないあなたを、完全な者とする力が、常に働き続けているのです。

 

 どんなに無理解で、イエス様についていけない弟子たちでも、イエス様の方から離れ去ることはありませんでした。敵対する律法学者、ファリサイ派、サドカイ派の人たちでさえ、イエス様は避けずに教えを語りました。どれだけ愛から遠ざかった人であっても、イエス様は、その人の内に入るのを止めません。イエス様の愛は、負けることも、諦めることも、滅びることもありません。

 

 来週、この教会では聖餐式が行われます。聖餐式は、信仰を告白した者が、キリスト者であり続けるために、イエス様の死と復活を記念する儀式です。この中で、次のような言葉が読まれます。「ふさわしくないままで主のパンを食べ、その杯を飲むことのないよう、自分をよく確かめて、聖餐にあずかりましょう……」

 

 自分をよく確かめたとき、私たちの中で「よし、私はふさわしい!」と言える人は、一人もいないでしょう。613個あるうちの、たった2つの掟でさえ、完全には守れていない自分の姿を見るでしょう。メソジスト教会のルーツであるジョン・ウェスレーも、ある時「あなたはふさわしくない」と聖餐を受けることを拒否されてしまった経験がありました。彼自身も、自分がキリスト者としてふさわしいとは言えない現実を突き付けられました。

 

 しかし、ウェスレーは後に人々へ勧めます。できる限り、機会の持てる限り、聖餐式を受けるようにと。「求めなさい、そうすれば与えられる。キリストが罪深い、助けようのない信仰者のために亡くなられたことを知っているなら、パンを食し、杯から飲みなさい」と……私たちの内にいるキリストが、ふさわしくない私たちを、ふさわしい者とし、完全な者へと至らせてくださる。その信頼が、この教会の信仰的なルーツです。

 

 この愛は本物じゃないかもしれない……自分の愛に自信が持てなくなるとき、その気づきをもたらしたのが、本物のイエス様の愛であること、あなたの愛が本物に至ろうとしていることを思い出しましょう。あなたは、神の国から遠くないのです。

 

*同日、田瀬教会の交換講壇*1で行った礼拝メッセージは、聖書箇所、タイトルは同じですが内容が少し違います。気になる方はこちらをご覧ください。

bokushiblog.hatenablog.com

*1:他の教会の牧師に来てもらって、礼拝のメッセージをしてもらうこと