ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『呪われたくありません』 マルコによる福音書12:41〜44、ガラテヤの信徒への手紙1:6〜10

礼拝メッセージ 2018年9月2日

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【どうして呪ったの?】

 「呪われるがよい」という言葉、非常にショックを与える言葉、それをガラテヤの信徒への手紙に書きなぐったのは、キリスト者を迫害する者でも攻撃する者でもなく、愛と平和を宣べ伝えているはずの宣教者パウロでした。およそ、信仰深い人から出てくるとは思いたくない言葉です。キリスト者がそんなこと言うなんて幻滅だ、と思われるかもしれません。

 

 考えてみれば、誰かを呪う行為は、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」というイエス様の教えからも、かけ離れた態度です。パウロはなぜ、こんなにも取り乱すほど怒っていたのでしょうか? いったい誰に対し、「呪われるがよい」と言ったのでしょうか? どうやら8節、9節を見てみると、パウロの告げ知らせた福音、神様の救いの教えに代わって、別の教えを告げ知らせる、偽教師たちがいたようです。

 

 パウロの言っていることは本当の福音じゃない、彼は『律法なんか守らなくても良い』と言って、異邦人や弱い人々に取り入ろうとしている……そうやって攻撃する人々がいました。彼らはこう主張します。「神様を信じるなら割礼を受けなければならない。いついつに何々をするという暦の定めを守らなければならない。そうやって律法を遵守しなければ、神の民になることはできない」と。

 

 ある意味、「信じれば救われる」というフワッとした教えよりも、納得しやすいかもしれません。ユダヤ人が先祖代々受け継いできたルールも守らないで、神の子として受け入れられるわけがない。もし、信じるだけで受け入れられると言うなら、なぜ守るべき掟が与えられているのか? 掟があるのに、いい加減にする方が間違っている!

 

 言われてみればそんな気もします。パウロは「律法やユダヤ人の慣習に従わなくても、イエス様を信じる信仰によって救われる」と語りましたが、律法も神の言葉として記された旧約聖書の一部です。何をどこまでやるべきか、どこまでやってはいけないか、はっきり書いてあることを守る方が、神様の子どもにふさわしい気がしてきます。パウロは掟を守りたくない人たちの心を掴むため、耳触りの良い言葉を勝手に語ったのでしょうか?

 

 混乱している信徒たちに、パウロが手紙の冒頭で書いたのは、明らかに耳触りの良くない言葉でした。「わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」……もうこれを読んだ瞬間、誰かに取り入ろうとしている態度ではないことが分かります。むしろ、ギョッとさせ、怖がらせ、敬遠させてしまうような、非常にショッキングな言葉です。

 

 ある意味この言葉が、人に取り入ろうとしていないことを表す究極的な証明でした。「私は人に取り入ろうとしているのでも、気に入ってもらおうとしているのでもない。間違ったことは言っていない。もし、私が教えたのと違う福音を語っている者がいれば、呪われるがよい」……すなわち、パウロの教えに反する偽教師たちの言葉を信じる者も、呪われてしまえと言っているわけです。正直なところ、脅されている気分になってきます。

 

【呪われたくないから】

 私たちは呪われたくありません。今日の説教タイトルにも挙げましたが、「私は呪われてもいい」と思っている人は、ほとんどいないと思います。それはパウロに反対した偽教師たちもそうでした。おそらく、彼らがパウロに反対したのは、律法を守らなければ、かえって神様に呪われてしまうんじゃないかと、怖かったからだと思うんです。

 

 申命記28章には、こんな言葉が出てきます。「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう……しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう」と。

 

 そして、町にいようが野にいようが、どこにいようと神様の呪いからは逃れられないこと……生まれる子にも、所有する土地や財産にも、徹底的に災難が降りかかると語られます。そんな恐ろしい目に遭いたくはありません。ところが厄介なことに、呪いというのは目に見えません。身に降りかかった不幸が呪いなのかそうでないのか、理由は何なのか、人間には直接知ることができません。

 

 だからこそ、私たちは目に見える基準、自分たちの納得できる線引きで、呪われるか呪われないかを判断したくなるのです。こうすれば呪われない、ここまでしなければ呪いには降りかからない……そんな都合の良いライン。私たちは、無意識に自分の中で引いたラインを優先し、神様が私にどうして欲しいと思ったのか、なぜその律法を与えたのか、考えなくなります。とにかく従えばいい、言われているとおりにすればいいと。

 

 単に、ここで言われていることを守れば、自分は安全圏だ……そう捉えたくなるのです。実は、「律法を守って救われよう」というパウロに反する考えは、旧約の預言者たちが批判した偶像礼拝や異教の習慣に、とてもよく似ていました。口寄せや占い、呪術によって命じられる行為は、愛の実践に比べれば、何をどこまでやればいいのか、ずっと分かりやすいことだったからです。

 

 「先祖にこれを供えて供養するように」「住んでいる所を別の方角に移すように」「今持っているこれとこれを捨てるように」……「あるいは、これを身につけるように」「家の玄関に置くように」……それを実行さえすれば、自分の生き方をわざわざ問わずとも、不安が拭われ、呪いから解放されたという安心感が得られるのです。

 

【呪いに囚われている】

 当時、パウロの教えを邪魔した偽教師たちも、神様の怒りを恐れ、呪いから解放されたいがために、律法の遵守を勧めました。この戒めを守れば、神様の怒りは下されない。この掟どおりにすれば、神様から呪われない、神の民となれる……そうやって分かりやすいラインを提供し、人々に取り入ろうとしていました。

 

 しかしそれは反対に、既に与えられた呪いからの解放を、受け入れない行為でした。神様は、本来なら呪われるべき存在、繰り返し良心に背いてしまう人間が、誰一人滅びることのないように、独り子であるイエス様を送りました。イエス様は、全ての人が受けるべき罪の罰を代わりに引き受け、十字架にかかってくださいました。私たちが受けるはずの呪いを、全て背負ってくださったのです。

 

 ヨハネによる福音書にもこう書いてあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」にもかかわらず、律法を守らなければ神の民にはなれないと教えることは、神様の愛、イエス様の愛を受け入れない行為でした。

 

 イエス様が、全ての人を呪いから解放してくださったのに、それが信じられない……自分たちはまだ、神様から呪われる存在だと思っている……実は、パウロに反する偽教師たちこそ、呪いから解放されていませんでした。自分の中で引いたライン、「ここまでやらなければいけない」「これをやってしまえばアウト」という規範、それに捕われていました。

 

 言わば、自分が神様に何を求められているのか、考えることを放棄した状態、そこに陥っていた人々へ、パウロは二度もこう言います。「呪われるがよい」……これは直訳すると「アナテマがあるように」という不思議な言葉になります。アナテマというのは、もともと「神様への供え物」「献げ物」を指す言葉でした。

 

 それが、「神々の手に委ねられたもの」「神々の復讐に任せられたもの」という意味へ変化し、最終的に「呪い」や「呪われたもの」を意味するようになったのです。パウロは、この言葉を用いるとき、旧約聖書に出てくる「滅ぼし尽くして献げるべきもの」を意識していました。言わば、神様に背き、神様の意志によって滅ぼされるべき人間のことです。ある意味、「呪われるがよい」という言葉は、「神様に献げられてしまえ!」というようにも聞こえてきます。

 

 パウロはおそらく、自分が一生懸命教えたことを台無しにした人々へ、怒りに任せてこう言ったのでしょう。お前たちなんか滅びてしまえ、くらいの勢いだったと思います。ただ、私はこの言葉を、単なる呪いの言葉で終わらせたくないのです。パウロの感情とは別のところで、滅ぶべき者が人生を神様に献げる者へと変えられる……そのことが表された言葉でもあった、そんなふうに感じるのです。

 

【献金を見ているイエス様】

 最初に読んだマルコによる福音書には、貧しいやもめが神殿で献金を献げる話が書かれていました。教会関係者ならよく知っている、有名な話です。ただ私は、初めてこの話を聞いたとき、イエス様って嫌らしいな……と感じてしまいました。41節にこうあります。「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。」

 

 皆さん、考えてみてください。私たちが礼拝で献金を献げるとき、向かいに座って、こちらがいくら入れているのかじっと見ている人がいたら、ちょっと嫌でしょう? この人はケチなのか、そうでないのかと値踏みされているようで、何だか気持ちよくありません。そこへ一人の貧しいやもめがやってきます。

 

 夫を亡くした未亡人です。日本のような生活保護もない時代、彼女が生きていくのは非常に困難です。女性が財産を相続することは普通考えられず、夫を亡くせば、息子の世話になるしか方法はありませんでした。しかし、息子もいなければ、もうどん詰まりです。たとえ、夫が財産を残していても、権力者が遺産を横領し、女性を庇護するという名目で、好き勝手使ってしまうこともありました。

 

 この話の直前でも、やもめの家を食い物にする律法学者のことが非難されています。彼女もどうやら、まともな生活費を持っているわけではなかったようです。レプトン銅貨2枚……それが、やもめの全財産でした。どれくらいの価値かと言えば、一日の収入の64分の1、今だと150円くらいでしょうか? 当時2羽の雀を買うのにさえ、あと4倍必要です。大勢の金持ちがたくさん献金する中、彼女はそのお金をチャリンと入れます。

 

 すると、イエス様は弟子たちを呼び寄せてこう言います。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 

 取るに足らないちっぽけなものでも、一生懸命神様に献げたものは、最大限に認められる……そんなメッセージとして捉えられている話ですが、皆さんはどうでしょう? 自分の全財産が150円だったら、お弁当さえ満足に買えないような小銭しかなかったら、ヤケクソになって、全部献金箱に入れてもおかしくない……そう考えてしまう私は、けっこう不信仰かもしれません。

 

 金持ちが有り余る中から献金する一方で、貧しい者が認められるためには、全財産を献げるくらいの勢いが必要なんだ……一歩間違えれば、そう捉えられかねない話。困窮しているものが、さらに圧迫されかねない話……イエス様は非常に挑戦的です。パウロが偽教師たちに攻撃される話をしたように、誤解と偏見に晒される危険を犯して、私たちに何かを伝えようとしています。

 

【基準に反する献げ物】

 献げ物……それは「どれくらいがちょうどいいのか?」という基準を、最も知りたくなる事柄の一つです。どれくらい頑張るべきなのか、どこまで少なくても許されるのか、正直、皆さん気になりますよね? 私だって気になります。今、自分が献げている献金は、神様の心に適っているのだろうか? 少ないとか不信仰とか思われていないだろうか? どうしても、「これだけすれば大丈夫だよ」という線引きが欲しくなってしまいます。

 

 実際、律法には基準がありました。レビ記には、山羊や羊が献げられない者は、山鳩か家鳩を。貧しくて、鳩にも手が届かない者は、小麦粉2.3リットルを献げなさい……という規定が出てきます。贖罪の献げ物、満願の献げ物、和解の献げ物、賠償の献げ物……それぞれ細かく決められていますが、はっきりしていることが一つあります。

 

 それは、どの規定で考えても、やもめの献げたレブトン銅貨2枚の献金は、基準を満たしていないという事実です。鳩どころか、雀を買うのにさえ全然届かない金額……律法に照らして考えれば、彼女がなけなしのお金を献げる意味はありません。献げても、献げなくても、神様の掟を守れなかった、律法に忠実でなかった者として、呪いを受けるべき存在に見られてしまいます。

 

 いえ、むしろもう既に呪いを受けているのかもしれません。彼女は夫を失い、世話してくれる息子もいないようですから……当時の考えでは、祝福を受けられなかった者、神様から「呪われた者」の範疇でした。今更、基準に満たない献げ物をしても手遅れです。にもかかわらず、やもめは献金を献げます。

 

 神様が「こうしなさい」と言った通りにできないのを分かって、パン切れ一つを買うのも惜しんで、2枚あった銅貨を両方とも献げるのです。心のままに、神様に献げ物をする。律法を文字通りに守ろうとしてではなく、神様に頼り切る気持ちから行動する……彼女はその自由を掴みました。

 

 「呪われたもの」「滅ぼし尽くして献げるべきもの」は、今、神様に信頼し、自分の人生を献げる者となりました。全ての人が、このように変えられる力を与えられています。パウロに「呪われるがよい」と言われた者でさえ……私たちはこの後、キリスト者であり続けるための式、聖餐式に与りますが、そこでは次のように祈ります。「今、聖霊の助けにより、感謝をもって、この体を生きた聖なる供え物として御前に献げます」と。

 

 私たちはもう、呪われること、神様からの罰を恐れて、献げ物をする必要はありません。神様は私たちに、生きることを求められました。あなたを「駄目だ」と言ってくるもの、あなたに「足りない」と言ってくるものから、解き放とうとされています。その力に身を委ね、聖霊に身を委ねて、愛と平和の道へと出て行きましょう。