ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『こんな奉仕できません!』 マルコによる福音書14:3〜9、コリントの信徒への手紙二9:6〜15

礼拝メッセージ 2018年9月9日

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【喜んで与えられない】

 不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりに、喜んで与える人になりなさい……パウロが書いた手紙は、私たちにこう勧めてきます。これはもともと、コリント教会の人々へ、困窮するエルサレム教会のために、募金の再開を促す目的で語られました。現在では、私たちが行う献げ物、奉仕全般における勧めの言葉として受けとめられます。

 

 先週まで、私たちは西日本豪雨災害支援のため、受付で募金を集めていました。おかげさまで無事、月曜日にまとまったお金を窓口に渡すことができました。この募金も、かつてのエルサレム教会のように、困窮する人たち、またその支援をする教会の援助を目的としていました。私たちと教団・教派は違いますが、今もなおボランティアを続けておられる教会のもとへ送られます。

 

 ただし、私がこの募金を呼びかけたのは、必ずしも自分から、喜んで、進んで始めたことではありませんでした。私たちの教会は、それほど財政豊かなわけではありません。財政調整基金はゼロに等しく、今年度はなるべく自分たちのためにお金を集めたいのが本音です。できることなら、被害に遭った人たちのために募金を集めたい。でも、東日本大震災の募金に加えて、西日本豪雨の募金まで集め始めたら、礼拝献金が減るんじゃないか? 

 

 そんな不安がちょっとだけありました。「惜しみながら」考える私の横で、ある信徒の方がポツリと言いました。「教会でも、あの豪雨で被害のあったところに募金ができたらいいですね」すると、もう一人の方が言いました。「みんなに呼びかけてみましょうよ、誰かが呼びかけなきゃ始まらないですよ」と。その言葉で、私は思い出しました。教会とは、本来惜しまずに、こうやって分け与えるところだったと。

 

 不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めた奉仕をするのは、なんと難しいことでしょう。2人の声がなければ、私の中に出てきた募金を集める願いは中断されたままでした。実は、コリント教会でも、以前、エルサレム教会への募金活動が、一度中止させられていました。自分たちの集めた献金で、他人の教会が安息を得ることに疑問を持つ人たちがいたからです。

 

 皆、他の教会が助けられることより、自分の教会の安息と成長を望んでいました。「うちで手一杯」という感覚は、いつの時代も、どこの教会にもあったのです。「喜んで与える人を神は愛してくださる」……パウロはそう言って、惜しみながら、渋りながら、行動する私たちの態度を、打ち破ろうとしています。しかし現実は、喜んで与えられないことの方が、私たちには多いです。そして、私たちが献げ物を惜しむ気持ち、渋る気持ちの大半は、ある意味、真っ当な理解や常識から来ています。

 

 経済的な状況、必要とされる労力、失敗を恐れる気持ち……喜んで与えることを阻むものはいくらでもあります。それらのしがらみを破って献げ物をし、奉仕しようとすれば「とんでもない」「何を考えているのか?」と咎められるかもしれません。心に決めたとおりの奉仕が、周りに理解を得られるとは限らないのです。

 

【とんでもない奉仕】

 最初に読んだマルコによる福音書では、ある女性が、非常に高価な香油をイエス様の頭に注ぎかけたという話が出てきました。イエス様は彼女のことを「できるかぎりのことをしてくれた」「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と語り、その奉仕を感謝して受けとめます。

 

 しかし、彼女の行為は一見ギョッとするもので、とても真似できるものではありません。理解しがたい行為です。まず、家の者でも給仕でもない女性が、男たちの集まる食事の席に許可なく入ってくることは、普通ありえませんでした。また、「食事の前」ではなく、「食事の最中」に油を注いだというのも、極めて異常なことでした。

 

 なぜ彼女は、食べ終わるのを待てなかったのでしょう? 人がものを食べている最中に、強烈な香りの油を頭から注ぐというクレイジーな行動に出たのでしょう? また、イエス様がおっしゃったとおり、彼女が埋葬の準備をするつもりで油を塗ったとしたなら、それこそ非常に失礼ではないでしょうか? まだ生きている相手に対し、縁起でもありません。

 

 さらに、彼女が一瞬で使い切った油は、純粋で非常に高価なナルドの香油でした。インドの植物から採れる香料で、裕福な家でしか使えない油です。そこにいた人の何人かが憤慨して怒ります。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」

 

 一見しただけで、300デナリオン以上になると分かるほどの油……つまり、一年分の収入に相当するものを、一部ではなく全部使ってしまったのです。おそらく、彼女が少しずつ積み立ててきた自分の貯蓄だったのでしょう。それを全て献げてしまう、しかも理解不能なやり方で……こんな奉仕、求められてもできません。むしろ、周りの人々が憤慨したように、厳しく咎める方が普通です。「こんなの奉仕じゃない!」「ありえない!」と。

 

 ところが、イエス様は言われます。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」……するままに、心に決めたとおりにさせなさい、というイエス様の言葉、ちょっとすぐには納得できません。いったい彼女はどういうつもりで、イエス様に油を注いだというのでしょうか?

 

【女性の素性】

 当時の慣習を、男たちの常識を打ち破って、ズカズカと彼らの間に入り込み、イエス様に埋葬の準備をした女性……彼女の名前は記されません。気になるのは、この人の正体です。何度も話しているように、かつてのイスラエルは男性中心的な社会で、女性は財産を相続することも、仕事に就くこともできませんでした。女性が自分で生きていく、ましてや貯蓄をするなんて、夢のまた夢の話です。

 

 それなのに、いったいどうやって彼女は、300デナリオンもの貯蓄をすることができたのでしょう? いえ、当時も一つだけ、女性が稼ぎを得られる仕事がありました。そう、売春です。収入の多い女性として考えられるのは、これか占い師ぐらいしかありません。

 

 同じ話が記された、ルカによる福音書の並行箇所では、彼女が「罪深い女」として登場し、イエス様の足を涙で濡らし、自分の髪の毛で拭って接吻した後、香油を塗ったことが語られます。たいへん艶かしい描写は、「罪深い」彼女の素性について考えさせます。もし、本当に売春婦だったとしたら……奉仕するためにイエス様に近づくことさえ、攻撃の対象となったでしょう。「お前が触れていい方じゃない」「身の程をわきまえろ」と。

 

 にもかかわらず、彼女はこの時こそ、イエス様に近づく必要がありました。エルサレムに入ってからというもの、イエス様の周りには、常に敵対する律法学者やファリサイ派、サドカイ派といった人々がいました。彼らはいつもイエス様を罠に嵌めようと、あの手この手で議論を仕掛けていました。今日の話の直前では、ついに祭司長たちとも手を組んで、イエス様を殺す計略を練り始めます。

 

 売春婦にとっても、彼らは自分を石で打ち殺そうとする危険な人々です。イエス様に近づきたくても、自分が彼らに捕まれば、律法に従って殺されてしまいます。事実、ヨハネによる福音書では、姦通の現場で捕えられた女性が、彼らに石で打ち殺されそうになっていました。

 

 イエス様が助けなければ、その人も死んでいたでしょう。実は、イエス様が捕えられ、十字架にかけられる日が迫りつつあったとき、その死の近さを、誰よりも身近に感じていたのは、同じ敵から常に狙われている彼女たちでした。

 

 三度、イエス様が予告された自分自身の死は、他の人が理解しない中、彼女にとっては非常にリアルな響きを持っていました。もういつ彼らに捕まって殺されてもおかしくない、この方は罪を犯していないにもかかわらず、本当に自分と同じようなところへ、いや、自分以上に苦しく危険なところへ降りてきている。いずれこの方は捕まって、神を冒涜したとして、私以上に侮辱を受け、私以上に罪深い者として殺される。この方にふさわしい埋葬は行われない……なら私が……!

 

 そう思っていた矢先、ついにイエス様に近づくチャンスが訪れました。イエス様が重い皮膚病の人の家に入り、食事を始めたのです。汚れた人の家に入れない律法学者や祭司長たちが、イエス様から離れるわずかな時間、彼女はこの家へ突入しました。「自分がイエス様にできることは、今この時しかない!」とばかりに。

 

【油を塗る意味】

 人の体に油を注ぐ、または塗る……それは死者を埋葬する丁寧な準備であると共に、王を任職する清めの儀式でもありました。新しいイスラエルの王として、全ての人の救い主としてやってきたイエス様に油注がれた場所、それは美しい王宮でも、神殿でもなく、重い皮膚病の人の家でした。汚れた人の家で、清めの儀式が行われたのです。

 

 かつて、ユダヤ人の王としてお生まれになったイエス様が、王宮や神殿の中ではなく、家畜小屋の中で誕生したことが思い出されます。貧しい羊飼いたちが拝みに来たクリスマス、その日にも、律法を守れない、汚れた者と呼ばれる人たちが、最初にイエス様の誕生を告げ知らされました。

 

 同時に、マタイによる福音書では、異邦人である外国の博士たちが訪れて、イエス様に黄金、没薬、乳香を献げたことが記されています。この時に献げられた没薬と乳香も、時として、埋葬の準備に用いられました。女性が行った葬りの儀式は、イエス様が誕生した時の喜びを想起させます。

 

 その喜びは、これからイエス様が単に死へと向かうのではなく、復活という新しい命に与ること、新しく誕生することを暗示します。イエス様は、全ての人の痛みと苦しみを負い、全ての人の罪を赦し、全ての人に新しい命を与えるため、十字架と復活の道を歩んでいくのです。

 

 彼女がどこまで、それを意識していたかは分かりません。単に、自分がイエス様と会えるうちに、できる限りの奉仕をして、お別れしたかっただけかもしれません。実際、そうなのでしょう。しかし、その思いは、必死な行動は、当時誰もが理解できなかったにもかかわらず、今に至るまで、記念として語り伝えられるようになりました。彼女が蒔いた種は、彼女の思いを超えて実を結びました。

 

 パウロが手紙で書いたように、神様は一人一人の献げ物を、全ての点で、全てのものに十分となるよう、あらゆる善い業、あらゆる恵みに満ち溢れさせることが、おできになるのです。

 

【私のできる限りって?】

 「この人はできるかぎりのことをした」イエス様はそう語りました。私たちも、この女性のようにできる限りのことを、心に決めたとおりに行うよう求められています。彼女は汚れた家に入り、男たちの中に入り、あらゆる慣習を破っていきました。常識を破り、しがらみを破って、自分を押さえつけるものから自由になりました。「なぜ、こんな無駄遣いを」「もっと良い方法があったのに」厳しく咎められても、なお心のままに行いました。

 

 私たちにとって、「できるかぎりのこと」とは何でしょう? 惜しんでわずかしか蒔いていない種とは何でしょう? ある方は、こう思ったかもしれません。「私が募金の提案をしても、何を言い出すんだと言われるかもしれない」……しかしその小さな声は、一歩踏み出せなかった牧師を動かし、岐阜地区の教会を動かしました。

 

 ある方はこう思っているかもしれません。私が大きな声で賛美しても、みんなを歌いにくくさせているかもしれない……しかし、その勇気を出した歌声は、会衆全体の賛美を豊かにします。ある方は、自分が礼拝に来ても、多くの人の手を煩わせ、気を遣わせてしまうと思っているかもしれません。

 

 しかし、あなた自身が礼拝に来られたとき、それは素晴らしい奉仕になるのです。あなたが手を引かれ、運ばれてやって来るとき、その背後にいるイエス様と出会う人がいるのです。自信のない奏楽、拙い祈り、精一杯だけど多くはない献金……それらを厳しく咎める人もいたかもしれません。

 

 しかし、イエス様は言われます。「するままにさせておきなさい……わたしに良いことをしてくれたのだ」パウロは語ります。「こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」……あなたのできる限りの奉仕を、イエス様は喜んで受けとめます。あなたの奉仕は、イエス様の十字架と復活の道を示す、尊い働きになるのです。

 

 「この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足を補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです」……パウロが残した言葉は真実です。どうぞ皆さん、あなた自身を献げて、できる限りのことを行いましょう。あなたの不足を補い、豊かに用いる神様に、心のままに献げましょう。そしてどうか、私にも求めてください。互いに仕え合うように、自分自身を献げて奉仕する、この群れに連なり続けることを。