ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『裏切り者のあなたへ』 マルコによる福音書14:10〜25

礼拝メッセージ 2018年9月14日(於:付知教会)

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【呪われた裏切り者】

 「だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」……この言葉が、自分に向けられているなんて、絶対に思いたくないですよね? だからこそ、敢えて今日は『裏切り者のあなたへ』というタイトルをつけさせていただきました。他の教会からやって来て、いきなりこんなタイトルで話し出す牧師なんて、まさに皆さん、期待を裏切られた思いかもしれません。

 

 でも皆さん、聖書を読んでいて最も気になった箇所の一つが、ここじゃなかったでしょうか? イエス様を裏切ったユダに対する断罪の言葉、裁きの告知、あるいは、「呪い」と取れるかもしれません。悔い改める最後のチャンスを与えたのではないか、とも言われるシーンですが、いずれにせよ、厳しい言い回しであることは間違いなかったでしょう。

 

 裏切り者が呪われるのは当然だ、救われるわけがない。彼はこの後、見捨てられ、裁かれ、永遠の命も与えられない。ふさわしくなかったのだ……そう割り切って考えるのが、自然なのかもしれません。正当的かもしれません。だからユダみたいにならないよう、イエス様に従って歩んでいこう。そうすれば「生まれなかった方がよかった」なんて言われないし、永遠の命も受けられる……けれども、ふさわしい者なんていたのでしょうか?

 

 この最後の晩餐の後、イエス様は弟子たちを連れてオリーブ山へ出かけます。途中で弟子たちにこう言われました。「あなたがたは皆わたしにつまずく」……弟子たちの中でも一目置かれていたペトロは率先して答えます。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません!」けれども、イエス様は首を横に振ります。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 

 そんなバカな、ありえない! ペトロは言い張ります。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」他の弟子たちも口々に同じことを言いました。「私もです、あなたを知らないなんて言いません。一緒に死ぬ覚悟です!」

 

 直前の食事で、自分たちの中の誰かが裏切ると言われたときも、同じ気持ちでした。まさかわたしのことでは! 違うでしょう、イエス様? 本気でそんなことおっしゃっていませんよね? 私だけは違うはずです。私だけは、あなたに最後までついていくと、分かっていらっしゃるはずです……けれども、彼らは分かっていませんでした。自分たちの言葉が、嘘になることを。

 

 イエス様が捕まったとき、訴えられたとき、十字架にかけられたとき……側に居る弟子は一人もいませんでした。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」……はっきり言ったペトロでさえも、敵の屋敷の中庭で「お前もイエスの仲間か」と問い詰められたとき、「そんな人は知らない」と言ってしまいました。

 

 一緒にいることもできなかった、仲間と告白することもできなかった……彼らは皆、自分からイエス様に約束したことを破ってしまったのです。イエス様を見捨てて、逃げて、知らないと嘘をついてしまったのです。こういうのを、普通私たちは「裏切り者」と言うのではないでしょうか?

 

【曖昧な裏切り】

 いや、彼らはイエス様を見捨てただけだ。ユダほど深刻な裏切り方をしたわけじゃない……なるほど、確かにそうかもしれません。10節にこう書いてあります。「ユダはイエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った」……「引き渡す」という言葉は、まさに「裏切り」という意味を持つ言葉でもあります。けれども、彼はどうやってイエス様を引き渡し、裏切ったのでしょうか?

 

 ヨハネによる福音書では、イエス様が度々集まっていた場所を、ユダが密告したと書かれています。しかし、イエス様が毎晩、同じ場所に来ていたとすれば、ユダを待つまでもなく、祭司長たちは捕まえることができたでしょう。あるいは他の福音書のように、その場所に来たのが一度限りだとすれば、ユダも事前に、そこへ行くと知ることはできません。

 

 それとも、ユダはイエス様が自分を救い主、神の子と考えていたことを密告したのでしょうか? いわゆる思想犯、政治犯として……しかし、肝心のイエス様が訴えられている法廷で、ユダが証言することはありません。

 

 まるで、彼の持つ証拠など関係ないかのように、イエス様を処刑するための準備は進んでいきます。イエス様が十字架にかけられたのは、果たしてユダのせいなのでしょうか? 彼が何をしようと、遅かれ早かれ捕まって、処刑されていたのではないでしょうか?また、ユダがイエス様を裏切った動機については、昔から色々推測されてきましたが、どれも確かな根拠があるわけではありません。

 

 11節では、ユダの密告を聞いて喜んだ祭司長たちが、自ら彼に報酬を約束します。つまり、ユダの方から、報酬を条件に密告したわけではなかったのです。裏切りの動機が金銭への誘惑だったと書かれるようになるのは、マタイによる福音書以降で、それも銀貨30枚、当時の奴隷一人の値段で手を打つという微妙な金額でした。

 

 一番適当と考えられる動機は、政治的な期待が裏切られたという失望かもしれません。ユダをはじめ、弟子たちがイエス様に期待していたのは、ユダヤ人を支配するローマ帝国を打ち倒し、新しい王となって独立国家を作ることでした。実際、「その時には、あなたに次ぐ地位を与えてください」と、ヤコブとヨハネもお願いしています。

 

 また、他の弟子たちも絶えず、誰が一番偉いかを言い争っていたことが思い出されます。イエス様に向かって、「全てを捨ててついてきた見返りに、何がもらえますか?」というあからさまな質問まで飛び出ます。案外、富や名声に対する誘惑には、ユダだけでなく、誰もが弱かったのかもしれません。こうやって読んでいると気づきます。ユダがそれほど、他の弟子たちと大きく違ってはいないことに。

 

 実際、イエス様は裏切り者について言うとき、こう言われました。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」……もしこの時、イエス様と同じ器を使っている者が、たった一人しかいなければ、大騒ぎになっていたでしょう。「お前が裏切り者なのか!」と……けれども、そうはなりません。

 

 同じ鉢を用いて食事をしていたのは、そこにいた全員です。そこにいる誰もが、同じ器から取って食べる、親しい仲間うちでした。こんな言い方では、誰が裏切り者なのか分かりません。ヨハネによる福音書では、もっと具体的な言い方になっています。「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」……そう言ってイエス様がパン切れを渡したのが、イスカリオテのユダでした。

 

 けれども、ここまでされて、彼が裏切ろうとしていることを悟った者は一人もいません。そのまま出て行ったユダを見て、「彼は祭りに必要な物を買いに行ったか、貧しい人に施す物を買いに行ったのだ」と考え出す始末です。逆に言えば、それだけ信頼されていた、真面目に思われていた人物でした。

 

 ルカによる福音書とヨハネによる福音書では「その時、サタンが彼の中に入った」と書かれており、ユダでなくても、そこにいる誰もが、サタンに入られたら裏切ったのかもしれない……と思わせられます。「あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」「まさかわたしのことでは」……その「まさか」は、あなたにだってあり得るのです。裏切り者は、あなただったかもしれないのです。

 

【生まれた日を呪う】

 ますます、この言葉を読むのが辛くなってきました。「生まれなかった方が、その者のためによかった」……非常に厳しい言葉です。言い換えれば、「死んでいた方がよかった」と言えるかもしれません。自分の価値を貶める生き方、自分を殺すような生き方をしている。自ら魂を死なせている、そんな者の一人として、ユダは数え上げられたのでしょうか。

 

 ただ、ふと思い出されるのです。「生まれなかった方がよかった」という言葉、実は何度も聖書の中に出てきました。それも、有名な預言者や、「無垢な正しい人」と呼ばれる者の口からです。

 

 「呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない。呪われよ、父に良い知らせをもたらし、あなたに男の子が生まれたと言って、大いに喜ばせた人は」……これは、預言者の中でも特に人気なエレミヤの口から出てきた言葉です。

 

 また、ヨブ記の3章にはこんな話が出てきます。「やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った『わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。その日は闇となれ。神が上から顧みることなく、光もこれを輝かすな。」

 

 実際に、神様に向かって「生まれなかった方が、わたしのためによかった」と言っている人たちの声……神様に対する非難の声、嘆きの声……その言葉が虚しく響き渡るだけだったのか、私たちは思い出さなければなりません。神様が、自らの生まれた日を呪った声に、どう答えられたかを……ほっておかれは、されませんでしたよね?

 

 エレミヤに対しては、晩年に「新しい契約」が与えられ、神様の新たな救いの道が示されます。「彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知る……わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」……そう言って、罪からの解放を確信させます。この契約は、多くの人のために流された、イエス様の血によって果たされました。

 

 最後の晩餐で、イエス様は弟子たちに杯を分け与え、こう言われます。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と。人間が自ら償うことのできない数々の罪、それらを全てイエス様は代わりに背負い、十字架にかかってくださいました。私たちの代わりに罰を受け、罪の赦しを与えてくださいました。

 

 また、ヨブの叫びに対しては、彼が不幸を受ける以前にも増して、神様は祝福を与えられます。しかも、それだけではありませんでした。ヨブは、理不尽な災いに次々と襲われたとき、こう嘆いていました。「神とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいてくれたら……」それは、自分の生まれた日を呪う、全ての人の願いでした。私と神様の間に立って、私を守り、弁護してくれる方がほしい。

 

 その願いは、神の子であり、人の子であるイエス様によって果たされます。圧倒的な正しさ、圧倒的な裁きを前に、自分を守り、弁護してくださる存在……それがイエス様でした。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」……十字架にかけられ、亡くなる寸前まで、イエス様は神様と人間の間に立って、弁護してくださいました。ヨブの祈りに込められた人々の願いは聞かれたのです。

 

【聖餐に招かれる】

 生まれなかった方が自分はよかった……そう思ってきた人たちに、神様は答え、救いの道を与えてきました。では、イエス様から直接、「生まれなかった方が、その者のためによかった」と言われた裏切り者、イスカリオテのユダはどうだったのでしょうか? 彼にも、イエス様は契約の血、多くの人のために流される、ご自分の血を分け与えます。

 

 「取りなさい。これはわたしの体である」そう言って、弟子たちにパンを分け与えたとき、ぶどう酒の杯を渡したとき、十二人の一人であるユダもそこにいました。マルコ、マタイ、ルカによる福音書では、ユダがいつ、仲間のもとから抜け出したのか、はっきりとは記されてありません。しかし、文脈から考えて、食事のときはそこにいたと考えるのが自然です。

 

 また、ヨハネによる福音書では、イエス様がパン切れを与えてから、ユダが出て行ったことが記されます。彼は、裏切ることを知られた上で、宣言された上で、イエス様の体と血、パンとぶどう酒に与っていたのです。彼もまた、イエス様の十字架と復活を記念するように、罪の赦しと永遠の命を受け入れるように、促されていたのです。

 

 「取りなさい。これはわたしの体である」「多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」……裏切り者のあなたへ、自分の生まれた日、生きている日々を呪うあなたへ、イエス様は言われます。「あなたのためにも、わたしは血を流した」「あなたのためにも、わたしは復活し、出会いに来た」……そのことを繰り返し思い起こすのが、私たちの大事にしている聖餐式なのです。

 

 どうか今、告白させてください。私も、イエス様に従って歩むことのできなかった裏切り者です。イエス様を見捨てて逃げてしまった嘘つきです。互いに愛し合いなさいという教えを忘れ、お世話になった人と一方的に関係を切り、そのまま最後まで、仲直りできずに死に別れてしまった愚か者です。

 

 今日この後、午後2時から、その人の記念会が行われます。ずっと避け続けてきた思い出と、名古屋で再会してきます。イエス様はこんな私にも、パンとぶどう酒を分け与えてくれました。「取りなさい」「飲みなさい」「わたしのもたらす和解と回復を信じなさい」……だから、出かけてきます。ありえない和解、死によって隔てられた者との関係が、回復される奇跡を信じて、今日、その人のもとに行ってきます。

 

 皆さんの前に、一人一人の前に、イエス様はパンとぶどう酒を携えてやってきます。「さあ、あなたも取りなさい。あなたも飲みなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。もう一度……!」パンとぶどう酒は配られました。この後、賛美の歌をうたってから、私たちも出ていきます。それぞれ遣わされた場所へ、変化がもたらされるべき場所へ。だから今、祈りましょう。共に賛美と感謝をささげましょう。