ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『ジャイアン的神様?』 ヨブ記19:6〜27

聖書研究祈祷会 2018年9月19日

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【世の中は公正だから?】

 心理学ミュージアムというホームページに、こんな話が書いてありました。良いことは良い人に起き、悪いことは悪い人に起きる。頑張った人は報われ、頑張らなかった人は痛い目に遭う。悪いことをしたら必ず罰せられる……世界にはそうした秩序があるという考えを「公正世界仮説」と呼び、多くの人は無意識にそれを信じていると……どこかで聞いた話です。

 

 そう、聖書における神様の「祝福と呪い」の捉え方、「善人は栄え、悪人は滅ぼされる」という応報思想にそっくりです。私たちも基本的にこの考え方を支持します。嘘をつけばしっぺ返しがやってくる、正しく歩めば生活も人間関係も豊かになると……なぜなら、私たちは何よりも安定や秩序を求めており、理由もなく傷つけられたり、持ち物が奪われたりするような世界であってほしくないと思っているからです。

 

 しかし、そのような世界を信じているとき、突然、理不尽な事故や事件を目の当たりにします。「ある女性が道を歩いていたら、いきなり暴漢に襲われた」というニュース……私たちは、世界は公正なのだと信じようとするあまり、被害者を不当に非難します。「危険な場所を歩いていたのでは?」「夜遅くに出歩いたのでは?」「犯人を刺激する格好をしていたのでは?」……これを被害者非難と言うのだそうです。

 

 善良な人でも理不尽な事故や事件に遭うと認めてしまえば、世の中が公正とは思えなくなる。それでは自分たちが安心できない。けれども、被害者に落ち度や罪があったと考えれば、それは自業自得であり、世界は公正だという仮説を維持することができる……確かに、公正な世界を信じることは心に安定をもたらします。少し先の目標でも希望を持って立てられるようになります。

 

 しかし、その世界を信じたいがゆえに、私たちは不運な目に遭った人々を「自己責任」と責めてしまうことがあります。財産を失い、子どもを亡くし、自らも重い皮膚病にかかってしまったヨブも、3人の友人に次々と責め立てられました。あなたがこれだけの不幸に遭ったのは、あなた自身に落ち度があり、あなたの犯した罪が原因ではなかったかと。

 

 特に、シュア人ビルダドは、ヨブの心を理解しようとせず、ただ相手を悪人と決めつけて、まるで脅すかのごとく恐ろしい行く末を語ってきます。「ああ、これが不正を行った者の住まい、これが神を知らぬ者のいた所か」と。

 

【自分を敵視する神様】

 19章は、そんな友人たちの非難に対するヨブの叫びです。「違うんだ、私は罪なんて犯していないんだ」「神様の方が、私に非道な振る舞いをされたんだ!」「私の周囲に砦を巡らしておられるんだ」……6節の「砦」という言葉は、本来、狩人や漁師が用いる「網」と訳すのが一般的で、神様が悪人を狩るためにしかけてくる網が、自分にかけてられてしまったという叫びです。

 

 ここで語られるヨブの嘆きは、預言者エレミヤの嘆きと非常によく似ています。「不法だ」「暴力だ」と叫んでも、正義は歪められたまま裁いてもらえない。神様が道を塞ぎ、暗闇に追いやってしまっている……神様はどうして、皆が自分を苦しめる状況をお許しになっているのか? 実は神ご自身が、私を敵視しているのではないか? 私を苦しめる人々はすべて神様の軍勢で、自分を弄んでいるのではないか?

 

 家族や友人から見捨てられ、非難を受けた苦しみは、相当心にこたえたのでしょう。「神は兄弟をわたしから遠ざけ、知人を引き離した。親族もわたしを見捨て、友だちもわたしを忘れた」……それに加えて、自分の家に身を寄せている男や女までもが、自分を「よそ者」にみなしていると語ります。

 

 身を寄せている男とは、ヨブによって保護された外国の民、寄留者のことです。彼は、このような「よそ者」を受け入れた自分が、逆に「よそ者」にされていると言って、ここに正義はあるのかと訴えます。また、「女すら」という言葉は、直訳すると「女の使用人でさえ」という意味です。自分に仕える使用人ですら、呼びかけても答えてくれない。憐れみを乞わなければならない……四方を敵に囲まれた孤独な状況が浮き彫りになります。

 

 「息は妻に嫌われ、子どもにも憎まれる」……聞いている者にとっても精神的に「くる」状況が、さらに彼を追い詰めます。ここでも、「嫌われる」という言葉に使われている単語は、通常「よそ者とされる」という意味で、ヨブの身の置き所はどこにもありません。実際、ヨブの妻は冒頭の2章で「神を呪って死ぬ方がましでしょう」とヨブに漏らし、2人の間に、溝のできていた様子が描かれていました。

 

 また、子どもたちは既に全滅しています。災害によって建物の下敷きになり、全員死んだはずでした。その子どもたちから「憎まれる」という表現は、何とも恐ろしい響きです。死んだ子どもたちに責められている。その責任を問われている。「神がわたしに非道なふるまいをしたんだ」と訴えつつ、どこかで「私のせいだ」「自分のせいだ」と責めずにはいられない……そんな被害者の苦しみを感じさせます。

 

 「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ」……ヨブの悲痛な叫びがこだまします。神様が私を打たれたのだ、あなたたちまで追い詰めないでくれ。肉体的な痛みだけでなく、精神的な痛みまで、もたらさないでくれ! ここまで読む限り、ヨブの中ではもう完全に、神様は自分の味方ではありません。多くの手下を引き連れた敵の親玉です。いじめっ子です。理由なく持ち物を奪い、傷つけてくる理不尽な存在です。

 

【ジャイアン的神様】

 ところが……23節からガラッと様子が変わります。「みんなが私を責め立てる」「攻撃してくる」と言っていた彼は、急に、自分の中にある一つの望みを語り出します。それは25節にはっきりと告白されています。「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」

 

 「贖う方」というのは、ゴーエールという言葉で、一般的には、家族の一員の権利と、その存続を守るために、法的な介入ができる近親者のことを言います。その近親者は、殺された親族の報いを受けさせ、他人の奴隷となった親族を買い戻し、家族の所有地を確保する権利と義務を持っていました。以前、ルツ記を読んだところで出てきたので、覚えている人もいるかもしれません。

 

 旧約聖書で「贖う方」と言ったとき、それはエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を贖い、新しい土地へと導き出した神様のことだとも言われます。「わたしを贖う方は生きておられ」という言葉も、神様に誓約を立てるときの「主は生きておられる」という言葉に近いものを感じます。

 

 けれども、「神様は私を敵視している」「自分を不当に扱っている」と訴えてきたヨブが、どうして同じ神様に「贖い主」としての希望を持つことができるのでしょう? これまで理由なく持ち物を奪い、周りから孤立させ、傷つけてきたにもかかわらず、同じ方が、どん底に陥った自分に手を差し出し、こちらの味方をしてくれるはずだという……

 

 まるで、普段はのび太くんをいじめているくせに、本当の危機に陥ったときには、彼を助けてくれる者へと変貌する映画のジャイアンみたいです。私には不思議でたまりません。あれだけ自分に敵対していると言っていた神様を、どうしてまた、自分のことを救ってくれると言うことができるのか……明らかに矛盾しています。こんなこと言えるはずがないのです。この状況で、ヨブが「贖う方」と呼べる神様に、出会えるはずがないのです。

 

 しかし、出会ってしまいました……ヨブは最も苦しみの深いところで、出会うはずのない方と出会いました。彼の頭では、追い込まれた状況では、余裕を失った心では、本来知ることのできない神様を「見て」しまいました。なぜかは分かりません。理由は全く示されません。ヨブは神様に怒っているとき、嘆いているとき、非難しているとき、その感情では、まず口にできないことを言いました。

 

 「わたしを贖う方は生きておられる」……自分の無罪を明らかにしてくれる弁護人、原告と被告を調停してくれる仲裁者、悪から守り擁護してくれる私の証人……神様、あなたはそういう方でしたよね? あなたはまだ生きていますよね? 「事故に遭ったのは、災害に遭ったのは、悪いことをした被害者のせい!」そんなふうに言う周りの者から、私を守ってくれる方でしたよね? 

 

 まさに奇跡です。ヨブはこの方と出会いました。贖い主なる神様に祈り、絶望に耐えることができました。3人の友人から責め立てられても、身の潔白を主張し続けることができました。彼はまだ知りません。既に奇跡が起こっていることを、自分がありえない希望を持たされていることを、苦しみのどん底で、なお神様の守りと出会いがあることを……しかし、間もなくそれは、神様の語りかけによって明らかにされるのです。

 

【贖い主イエス様】

 ヨブが出会った贖い主は、2000年前、この世にいる私たちのもとへ訪れました。神と人との間をとりもつ仲裁者、私たちを守り擁護してくださる弁護人……それが、救い主イエス・キリストです。イエス様は、神の子でありながら人の子として、私たちと同じところへ、降りてきてくださいました。

 

 やがては死んで、塵に帰ってしまう私たちのために、死の棘を滅ぼし、墓に勝利され、塵の上に立たれました。私たちのために十字架にかかり、すべての罪を贖って、一人一人を何の罪もない者として、神の国に招いてくださいました。この方も、出会うはずのないときに、出会うはずのない場所で私たちと出会います。

 

 墓の前で、嘆き悲しむ女性のもとへ、死んだはずのイエス様は現れます。鍵をかけた家の中へ、自分を見捨てた弟子たちのもとへ、裏切られたイエス様は会いに来ます。「私は決して信じない」自分を認めないトマスのところへも、イエス様はやって来ます……嘆きと悲しみ、絶望と不信、こんなとき、こんな場所で、出会えるはずがないのに出会ってしまう。そんなお方がイエス様なのです。

 

 神様に怒り、嘆き、「どうしてこんなことをされるんですか!」「もう神なんているわけがない」と泣き叫ぶ中、この方はあなたの名前を呼んできます。神様を恨み、憎み、訴えているあなたに、周りの者がオロオロしている中、この方は近くにやって来ます。目を逸らし、拒絶し、「神様は私を呪われた」と叫ぶあなたの心に、トントンっとノックをしてくるのです。

 

 恐ろしい災害で、理不尽な事件で、周りからも自分自身も「私のせいなのか?」「私の責任なのか」と責め立てられている人たちへ、贖い主は来られます。あなたの無実、あなたの潔白を証明し、あなたを弁護するために、この方は思ってもみないとき、理解できないやり方で現れます。理由なき苦難から、私たちを引き上げるのです。

 

 「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」……どうぞ、不安に思っている方は思い出してください。神様は、不幸のどん底にいる人、希望を見失った人、すべてが敵にしか見えない人のところで、まさにその場所で、復活し、生き返り、息を吹き込まれる方だということを。常に出会ってくださる方だということを。

 

 だから、私たちは祈りましょう。この方の執り成しと回復が、苦難の中にいるすべての人に届くよう、自らも用いてもらえるように、願っていきましょう。

 

【補足】

*上記の「公正世界仮説」についてはこちらのホームページを参考にしました。

 説明が分かりやすく、たいへん親切です。

psychmuseum.jp