ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『苦しまないといけませんか?』 マルコによる福音書14:26〜31、コロサイの信徒への手紙1:24〜29

礼拝メッセージ 2018年9月23日

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【苦しみは必然?】

 不謹慎なのを承知の上で、わたしはパウロについて思うことがあるんです。実は、彼は相当なマゾヒストなんじゃないだろうか? 皆さんもそう感じません? 24節で言っていました。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとしている」……普通、苦しみって避けたいことですよね。味わいたくないものです。けれど、パウロは自分から言っています。苦しみを受けるのは使徒の務めだ。わたしは身をもってこれを満たしていると。

 

 クリスチャンについて、友人からこんなふうに言われたことがあります。「お前らってみんなドMだよな。毎週、自分たちは罪人だって責められるのに、朝になると教会行くんだろ? 自虐的なこと続けていて、本当は責められるのが好きなんじゃないかって思えてくるよ」……「いやいや、俺は別にドMじゃない」と反論しようと思いました。皆さんもそうでしょう? 責められるのが好きなわけでも、自虐が好きなわけでもないでしょう?

 

 でも、外から見たら確かに変です。私たちは苦しむことを喜びとする、ちょっと異様な集団です。「先生、正直なところ、私は自分の罪を自覚させられるのも、キリスト者だからって迫害を受けるのも嫌なんです。」そうやって申し訳なさそうにする必要はありません。実のところ、私だって同じです。

 

 「罪」「罪」って言いたくないですし、パウロみたいに「さあ、皆さん一緒に喜んで苦しみましょう」なんてメッセージしたくありません。そんなの怪しい宗教団体じゃありませんか? いや、宗教団体であることは間違いないんですけれども。私たちはそこまで突き抜けてはいません。

 

 しかし……聖書にはけっこう、「苦しみを喜んで受けるように」という言葉が出てきます。イエス様もマタイによる福音書でこう言っています。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

 そんなこと言わないでくださいよ、イエス様! 預言者ってえげつない迫害を受けた人たちでしょう? 国を追い出されたり、仲間を殺されたり、自分も殺されそうになった人たちでしょう? 冗談じゃありません。そんなのどうやって喜べって言うんですか! これが、自然な反応ですよね。真っ当な人間はみんなこう言うでしょう。私も声を大にして言いたい。「そんなに苦しまなきゃいけませんか?」って。

 

【何の苦しみ?】

 ところで、イエス様が言っていた「わたしのために苦しむ」ってどういうことでしょう? 具体的に言えば、イエス様の生涯を、イエス様の語った神様を、宣べ伝えるために苦しむということです。キリスト教の専門用語で言えば、福音のために、伝道のために苦しむという話になります。「福音伝道」……神様を信じると告白した者に告げられる新しい使命。その道には様々な苦難があると言われています。

 

 21世紀の現代、かつてのように、私たちはキリスト者だからという理由で、石を投げられたり、処刑されたりすることはありません。少なくともここ、日本では。ただし、だからと言って、伝道するのが容易というわけではありません。何の苦しみもなく、イエス様のことを伝えられるわけでもありません。だって、苦しまなくて済むなら、とっくに皆さん、自分の家族や親しい友人、会社の同僚をここに連れて来ていますよね? 

 

 私だって、教会の外へ出て行って、駅前や公園の前でメッセージを語っていてもいいはずです。しかし、そんなことできません。私たちの話を聞いた人が、「イエス様ってすばらしい。神様を信じよう!」とならないことは分かっています。だって、この私が語っても「胡散臭い」「説得力がない」って思われるだろうから。

 

 神様のことを伝えるとき、イエス様のことを話すとき、何が一番苦しいって、自分の欠けとか足りないところが、明るみに出てくることですよ。神様の正義を語っても、「お前は清く正しくないじゃんか」って言われる。神様の愛と憐れみを伝えても、「いやいや、あんた恨み言ばかりでしょ」って突っ込まれる。伝えたいことと、自分自身との間にどれほどギャップが存在しているか、やればやるほど突きつけられていく。

 

 この前、私お話しましたよね。「死ぬまで仲直りできなかった人がいる」って。「その人の記念会に行ってくる」って。行ってきました。先週の日曜日、付知教会で礼拝を終えた後、その人のことが大好きな人たちの集まる中、最後まで仲直りできなかった私も、記念会に参加してきました。

 

 「ごめんなさい」を言えたか? モヤモヤは心から消え去ったか? ひと言でいえば、そうはなりませんでした。今、その人と直接出会ったら、心から仲直りできるという確信を得られないまま、記念会から帰ってきました。そう、イエス様の促す和解と回復は、こっちの思い通りの形で進むわけではないんです。

 

 だって、復活したイエス様に再会し、「あなたがたに平和があるように」と言ってもらった弟子たちでさえ、その後も、家から出られなかったんですから。またイエス様がやってくるかもしれないのに、ユダヤ人を恐れて鍵をかけ、自分たち以外を締め出すように閉じ籠っていました。私も、記念会まで引っ張り出してもらったのに、心の扉を閉ざしたまま出ていけないんです。

 

 弟子たちの受けた苦しみは、むしろ復活したイエス様と出会ってから、ようやく始まったと言っても過言ではありません。何しろ再会したのに、和解したのに、自分たちは思うように変われなかったんですから。劇的な変化は訪れず、恐れや不安からもまだ解放されない。周りに見られたら、どう言い訳すればいいでしょう? 

 

 「イエス様が復活した? それなら何でお前たちは家の中で人目を避けて縮こまっているんだ。もう怖いものなんてないはずだろう?」……そう、怖いものなんてないはずなんです。でも、ぶるぶる震えて隠れているんです。

 

【使徒の苦しみ】

 彼らは経験して知っていました。自分たちには大きなギャップがあると。イエス様が敵に捕まえられる直前、弟子たちはこう言われました。「あなたがたは皆、わたしにつまずく。」すると、弟子たちの中でもリーダー的存在であったペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と宣言しました。嘘偽りない言葉だったと思います。本気でそのつもりだったと思います。しかし、イエス様はこう言われました。

 

 「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」……出端を挫かれたペトロは、いっそう力を込めて言い張ります。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」彼だけでなく、他の弟子たちもみんな同じように言いました。「私もです。あなたと一緒に苦しみを受ける覚悟です」と。

 

 イエス様のためなら死をも辞さないという態度、これってまさに、「模範的信仰」として語られてきたことですよね。しかし、聖書はこの模範的信仰が、けっこう呆気なく壊れるところを記しています。イエス様と話しながら進んでいる弟子たちの前に、祭司長や律法学者、長老たちの遣わした群衆がやって来ます。皆、剣や棒を持ってイエス様を捕えようとします。弟子たちはどうしたか? 彼らの行動はたった一行しか書かれません。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」

 

 自分だけはつまずかない、そう豪語していたペトロはどうだったのでしょう? 彼は、一人だけ遠く離れて、捕まったイエス様についていきました。助けるチャンスを伺っていたのかもしれません。ペトロこそ、弟子たちの中で唯一イエス様に従った者として、讃えられるべきかもしれません。しかし、彼は中庭にいたとき、「あなたもイエスの仲間か」と言われ、必死に打ち消してしまいます。いざ、本当に捕まりそうになると、イエス様を呪ってまで否定しました。

 

 後に彼は、復活したイエス様と再会し、全世界へ、このことを宣べ伝えるよう命じられます。イエス様を見捨ててしまったにもかかわらず、もう一度弟子として重要な使命へ遣わされたのです。しかし、彼の苦しみはここから始まりました。ペトロが一番苦しんだこと、それは敵からの攻撃ではありません。投獄や裁判にかかったことではありません。

 

 彼が一番苦しんだのは、自分が大切な人を見捨てて逃げてしまったという事実です。一緒に苦しみを受ける覚悟だったのに、苦しみから逃げてしまった。自分から仲間ではないと言ってしまった。呪いの言葉さえ口にして……その事実と向き合うこと、自分の弱さ、足りなさを突きつけられること、これが何よりの苦しみだったに違いありません。

 

 しかも、この苦しみは、イエス様が復活して「よし、スッキリした」とはなりません。考えてもみてください。ペトロがこれからイエス様のことを伝えるとき、彼の失敗を語らなくていいはずがありません。こんな自分にもう一度出会ってくださった、弟子として遣わしてくださった、そのイエス様を語るために、彼は何度も何度も、黒歴史を告白しなければならなかったでしょう。

 

 パウロもそうでした。彼もペトロに負けず劣らず、他人に知られたくない黒歴史の持ち主です。特に、イエス様を信じてほしい相手には、自分の過去を知って欲しくない。なんたって、自分こそイエス様を迫害していた悪者だったんですから。「皆さん、こう見えて私は、昔キリスト者を探して捕えて殺す人間だったんです。そんな私がここまで変えられてしまったんです」なんて、笑って言えるはずがないんです。堂々と言えることじゃないんです。周りに自分が迫害してきた他の弟子たちもいるんですから。

 

 自分が捕まえた人、いじめた人、殺した人の家族や友人、仲間たちが、この話を聞いているかもしれないんですから。伝道なんて、自分が最も矢面に立たされる行為でした。「お前が言える話じゃないだろ」「この不信仰者め」そうやって罵られる。あるいはまだ、罰を受けて牢に入っている方がマシだったかもしれません。しかし、パウロは外に出て行きます。自分が幻のイエス様と出会ったことを語ります。

 

 自らの罪に気づかされ、目を見えなくされ、飲むことも食べることもできなかった3日間、誰かに手を引かれなければ何にもできなかった自分の姿を告白します。今も決して、自分の力で何かができるわけではないことを、イエス様に手を引かれなければ、進むこともできない存在であることを告げるのです。

 

【苦しみから出会う】

 私たちに同じことをやれと言われたら尻込みします。だって、先にイエス様の弟子になった者として、カッコいいところを見せたいじゃないですか? 真面目で忍耐強く、思いやりに満ちた姿を見せて、あんなふうになりたいと思ってほしいじゃないですか? でも、私たちが伝えるのはそういうことじゃないんです。自分がイエス様に出会って、いかにカッコよく変わったかじゃないんです。

 

 むしろ、いつまで経っても変われない、情けないままでいるこの私に、イエス様が諦めず、付き合い続けていることを証しするんです。私は知っています。「結局お前はダメなんだ」と言われるような弟子たちが、「また挫折して」と呆れられるような信徒たちが、それでも変わっていったことを。自分の欠けや足りないところを突き付けられる苦しみの中、イエス様に出会っていったことを。神様にできないことはありません。

 

 今、イエス様は、私と一緒に苦しんでいます。和解できない痛み、回復できない痛みを知っています。この痛みを喜びへと変えられます。この痛みを、和解と回復の過程そのものへと用いられます。亡くなった人と仲直りができない私を、仲直りする者へと変えられる。たとえ今、それが期待できないほど、自分に自信を失っていようと。

 

 皆さんは苦しみを受けるでしょう。イエス様を知ってしまった、イエス様と出会ってしまったあなた、どうぞ覚えていてください。これから、あなたが出会ったイエス様を、誰かに伝えるという使命が待っています。あなた自身の生き方で、イエス様に出会ったことを証しする日々が始まります。そこには苦しみが伴います。イエス様に出会ってなお、まだ欠けている、足りない自分を突きつけられます。

 

 しかし、そこには必ず変化が起きるのです。足りないあなたを満たす方が、あなたと共に苦しみながら、完全な者となるように導きます。教会は「苦難の共同体」です。皆が苦しみを負っています。その苦しみの一つ一つに、イエス様との出会いがあります。だからどうぞ、見てください。私の苦しみにもイエス様との出会いがあります。あなたの苦しみは、イエス様と再会するところになります。あなたの内に、キリストが現されますように。