礼拝メッセージ 2018年9月30日
【死刑宣告】
「その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません」……まるで死刑宣告のように聞こえてくる言葉です。堕落したら終わり、もう悔い改めさせることはできない。後はただ滅ぶに任せるだけ、そんなニュアンスを感じます。気になるのは、「その後」というのが「何の後か」ということです。
教会に長年通っている人ならピンと来るでしょう。これはたぶん、信仰を告白して洗礼を受けた後のことだろうと……「イエス様を信じて、神の子として受け入れる者は、罪を赦され救われる」これがキリスト教の真理でした。それを目に見える形で表すのが、「洗礼」というキリスト教の入信式です。
しかし、洗礼を受ける前に犯した罪は赦されても、その後に犯した罪は赦されるのか? これについて、新約聖書全体で統一された見解はありません。人は神様を信じることで新しい命を与えられ、それまでとは違う生き方をしていくわけですから、本来的には受洗後に罪を犯すことはないはずです。しかし実際には、洗礼を受けたキリスト者も、ここにいる私たちも罪を犯してしまいます。
あるいは、洗礼を受けた後、信仰から離れてしまう……こちらの方がヘブライ人への手紙では問題になっていました。教会から遠のいてしまう自分自身、自分の家族、親しい友人、愛する者……皆、誰かしらの姿を一瞬思い浮かべたのではないかと思います。私も思い浮かべました。そして悲しい気持ちになりました。
様々な事情があって、教会から離れていった者、神様を信じられなくなった者、その人に、もうチャンスはやって来ない。立ち帰らせることはできない。やがて呪われ、ついには滅ぼされてしまう。そう言われたのも同然に聞こえるからです。
ヘブライ人への手紙が書かれた頃、世間では、キリスト教徒に対する迫害が厳しくなり、多くの仲間が教会から離れていきました。教会の指導者たちは、「一度棄教した者は破滅に至る道を避けられない」と警告し、皆で必死に信仰を守ろうとしてきました。しかし、一人、また一人と、信仰を捨てる者が後を絶ちませんでした。かえって、棄教した者を受け入れない態度は、戻ってくる人たちの居場所を、失わせたのではないかと感じます。
【ドナティスト論争】
4世紀初頭、北アフリカでも似たような問題が起きました。その頃、迫害の中、棄教した聖職者が、後から帰ってくるということがありました。当然、その人から叙階を受ける者、洗礼や聖餐を受ける者たちがいました。しかし、ドナトゥス派と呼ばれる人々は、一度棄教した聖職者による洗礼や聖餐は無効であると主張しました。
聖なる人々の集まりである教会は、常に聖なる所でなければならない……彼らはそのように考え、教会・信徒は二度と罪を犯してはならないと訴えました。何だか今日の手紙みたいです。「その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません」……文字通りに捉えたらそうなのでしょう。
事実、多くの注解者は、手紙の著者が極めて厳格な立場に立って、棄教した者の悔い改めは不可能だと言っていると考えています。ただし、それだとあまりにも厳しすぎるため、かつては、幾つかの妥協案が提示されていました。
たとえば、ここで不可能と言われているのは、悔い改めというよりは洗礼を2度受けることだという解釈。実際には、色々な例外があるけれども一般的な原則を語っているのだという解釈。神には可能だが、人間には不可能なことを述べているといった解釈などです。
先ほどのドナトゥス派の主張に対しても、有名なアウグスティヌスが力強く反論しました。洗礼や聖餐の有効性は、執行する人の価値にではなく、その儀式自体の価値に依存しているのだと。罪のない人間など存在せず、たとえ一度棄教した者であっても、悔い改めれば受け入れられるのだと。
しかしここで、面倒臭い私はこんなことを考えてしまいます。でも実は、悔い改めていなかったら……? 本心から、神様に立ち返ることはできていなくて、まだグラグラと心が揺れていて、再び信仰から離れてしまうようなことが出てきたら? そんな状態がずっと続いていたとしても、私は受けいれてもらえるのか? 堕落して終わりとはならないのか?
皆さんはどうでしょう? たとえばこれから堕落する、信仰から離れるということが、あり得るでしょうか? 確かに考えてみれば怖いけれど、実際には、この手紙が書かれた頃のような迫害は、自分たちには起きないだろう。ちょっとつまずくようなことはあっても、完全に信仰を捨てたりとか、キリスト教から離れたりすることはないだろう。
せいぜい、しばらく教会に来なくなるくらい……完全に、二度とどこにも礼拝に出なくなるほどのことは起こらないだろう。そんな思いを何となく持っているかもしれません。
【最近のキリスト教迫害】
迫害なんて、今の時代に経験することはない……そう考えている方が大半でしょう。そのとおり、私たちの周りで、キリスト者への迫害なんて聞くでしょうか? 去年、隣の中国では、一部の都市で日曜学校が禁止になりました。子どもたちのサマーキャンプへの参加も、5ヶ所の都市で次々と禁止されました。数年前から、7000以上の教会で十字架が撤去され、聖書と一緒に燃やされてきました。今年の2月からは家庭集会の取り締まりも強化され、300人以上の牧師がキリスト教への弾圧に抗議しています。
ロシアでは2016年に、教会の建物や敷地以外での、あらゆる種類の伝道を禁じる法案が、正式に成立しました。事実上、教会の礼拝に新しく人を連れて来ることができなくなりました。テロや過激派組織の規制を目的とする法案で、信仰の自由がどんどん制限されています。日本や他の国々でも、テロ対策という名目で、一部の宗教活動を制限したり、テロ等準備罪という名前で、共謀罪などが可決されたりしました。
大丈夫、私たちはこの先も、しばらく迫害なんてされません。たぶん、まだ、きっと……ちょっと自信がなくなってきました。もしも今、キリスト教への弾圧が私たち自身に降りかかってきたら、国家の圧力なんてものじゃなくても、親や兄弟、友人たちから「キリスト教なんてやめておきなよ」「信じるのは自由だけど教会には行かないでくれ」なんて言われ始めたら……。
ヘブライ人への手紙がこれだけ厳しく書かれたのには理由があります。簡単な理由です。私たちは、困難を前にしたとき、抑圧する者がやってきたとき、共同体から離れていれば、あっけなくその圧力に屈してしまい、信仰を手放してしまうから……共に信じて励まし合い、慰め合う仲間を捨てていったら、一人で乗り切ることなど、とても不可能だから……。
【共同体の堕落】
もう一つ、個人の堕落とは別に、共同体の堕落というものも考えられました。4世紀のドナトゥス派の人たちには悪いですが、実際には彼らが主張したように、「教会が聖なる所であり続ける」ということは、歴史上あり得ませんでした。今日、キリスト教会がいくつもの戦争に加担し、正当化してきた歴史を知らない者は、あまりいません。
16世紀、教会の世俗化や聖職者の堕落、聖書に反する教えが語られていたことに対抗して、宗教改革が行われたことも有名です。つまり、神様を信じる共同体は、何度も堕落と過失を経験してきたのです。「堕落したら終わり」という論理から言えば、教会こそ、既に救いようがない、悔い改めさせることができない人たちの集まりになってしまいます。
何なら、旧約の時代から、「神の民」とされた共同体は、非常に堕落した道を歩んできました。最初に読まれた出エジプト記32章には、神様とイスラエルが契約を交わすため、民の指導者モーセがシナイ山に登っている間、人々が勝手に金の子牛を作り、それを神として崇めてしまったことが書かれていました。
モーセがいつまでも山から降りてこないので、人々は不安になってしまい、分かりやすい安心を得ようとしたのです。しかし、モーセが山に登っていったとき、彼らはその目で、山全体が激しく震え、煙に包まれたのを見ていました。さらに、神の声が雷鳴のように鳴り響くのも聞いていました。
それでもなお、自分たちで像を作って他の神を拝もうとする……たぶんこれを「堕落なんかじゃない!」と言える人はいないと思います。しかもこのとき、モーセと一緒に、いつも神様の声を聞いていた大祭司の祖先、アロンも民と共にいたのです。聖職者と信徒が揃った状態で、皆一緒に神様から離れていく……何とも皮肉な様子を見せてくれます。
堕落した彼らはどうなったか? 神様から徹底的な罰を受けて、皆滅んでしまったのか? 一瞬、神様の言葉を聞いた私たちは震え上がってしまいます。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする」そうモーセに漏らすのです。
なるほど、「堕落したら終わり」というヘブライ人への手紙は、あながち間違っていたとは言えません。彼らはこのまま滅ぼされるのでしょう。モーセだけが生き残って、かつて洪水の中生き残ったノアたちのように、もう一度新しく子孫を増やしていくのでしょう。ところが、この話には続きがありました。民は滅ぼされません。「引き止めるな」と言われたモーセが、その言葉に反して、必死に神様を引き止めるからです。
「どうか燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください」……不思議なことに、モーセが引き止めたことを神様は怒る様子もなく、あっさり彼の言うことを聞いて、災いを下すのを思い直します。本当に引き止めてほしくなかったのか、民を滅ぼし尽くそうと思っていたのか、逆に怪しく感じるくらいです。
【堕落した者への執り成し】
実は、今日の聖書日課には「執り成し」というテーマが与えられています。モーセは、堕落した民が滅ぼされないよう、必死に神様へ執り成しを行いました。彼自身も、かつて神様の言うことを受け入れられなかったり、信頼しなかったりして、その後に一度殺されかける経験をしていました。しかし、妻ツィポラの執り成しによってギリギリのところで助かっていました。
神様は、何度も人間を滅ぼそうとする様子を見せながら、人間同士の執り成しを非常に大事に扱ってきました。なんなら、人々が互いに堕落した相手のために執り成すことを求めているかのように、「もう赦さない。彼らを滅ぼす」と言っては、それを撤回してきました。神様から離れる、信仰を捨てる……そんな取り返しのつかない過ちを犯した人々に、いつも執り成す者を立てられてきたのです。
ある時はモーセのために彼の妻が、ある時はイスラエルのためにモーセ自身が、ある時は棄教した聖職者のためにアウグスティヌスが、そして今、私たちが思い浮かべる誰かのために、私たち自身が執り成す者として立てられています。
かつて、イエス様に向かって「あなたはメシア(救い主)です」と告白した弟子たちも、そう信じて告白した後で、イエス様を見捨ててしまいました。実は今日、聖書日課で当たっている福音書の箇所は、まさに、敵に捕まったイエス様を、弟子たちが見捨てて逃げてしまうところです。
その弟子たちに対し、イエス様は「もう知らない」という態度を見せたでしょうか? 彼らが滅びるに任せようとしたでしょうか? いいえ、彼らのためにもイエス様は執り成し、十字架にかかってくださいました。復活して会いに来てくださいました。そして、彼らに福音を、神様の救いを宣べ伝えるよう命じます。まだ神様を知らない者のために、神様から離れている者のために、あなたが執り成す者となりなさい! そう命じるのです。
私たちも今、ここから出て行くとき、イエス様から執り成しを受けていることを思い出しましょう。私たち自身も、誰かを執り成す者として立てられていることを思い出しましょう。神様を知らないあの人、教会から離れているあの人、傷ついて戻ってくる力を失っているあの人……あなたの執り成すべき相手が、既に示されているはずです。平和のうちに、出て行きましょう。