ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『できれば来て欲しくない時間』 コヘレトの言葉3:1〜15

聖書研究祈祷会 2018年10月3日 

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【行儀のよくない言葉】

 なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい……衝撃的な書き出しで始まるコヘレトの言葉は、意外と最近の若者の間で人気が出ている書物です。渋谷にいた頃、「聖書の中でどの書物が好きですか?」と同世代の青年たちに聞いてみたところ、「コヘレトが好き」と答えた人が、割と多くてびっくりした記憶があります。

 

 それだけ「世の中は空しい」という言葉に共感する現実が、私たちの間に広がっているということでしょうか……たぶん皆さんも、改めて読み直してみれば、けっこう味わいある文章だと感じるのではないでしょうか? 実際、3章に出てきた、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」という言葉はよく知られた聖句で、好きな人も多いのではないかと思います。

 

 私もコヘレトの言葉には気に入っている聖句が多く、神学生の頃、チャペルで大胆なメッセージをしたこともあります。12章12節、「それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる」……神学部の先生たちは、ここを読み上げる私をどんな目で見ていたのでしょうか? 今思えば、たいへん寛容な学部だったなと思います。

 

 そう、コヘレトの言葉は、知恵文学という類型に属する書物ですが、決して大人が子どもに読み聞かせるような、お行儀のいい話ではありません。むしろ、ちょっと都合の悪い、けれども現実も言い当てている、そんな核心をついた知恵の集合体です。直前の書物である箴言には、「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」と、知恵の重要性を教える言葉が語られています。

 

 ところが、コヘレトの言葉1章18節では、「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」と、先生が勉強を教える生徒を相手に、決して聞かせたくない言葉が語られるのです。それどころか、17節では「結局、知恵も知識も狂気であり、愚かであるにすぎない」とまで言われます。ねっ、お行儀よくないでしょう? 

 

 いったい全体、こんな言葉を教える人物は何者だろうかと気になってきます。1章1節では「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」と記されており、どうやら、かつての王様が語った言葉のようです。

 

【コヘレトって何?】

 「コヘレト」というのは「召集する者」という意味のヘブライ語で、実際のところ、王の名を借りた別の人物だろうと考えられています。古代では、ソロモンのような有名な王の権威を借りて文書を書くことは珍しくなく、随所にも、著者が王というよりは臣下の立場であることが滲み出ているからです。

 

 また、文中にペルシア語が含まれていることから、おそらくソロモンよりもずっと後の時代、捕囚以降に記された書物と言えるでしょう。つまり、「正しい者は栄え、悪人は滅ぼされる」という応報思想が通用しなくなった時代……神様に従う人も強制的に外国へ連れて行かれ、神様を忘れた自分勝手な人たちが栄えている……そんな現実が目の前にある中、記された言葉ということです。

 

 なるほど……だからでしょうか。「王の後を継いだ人が、既になされた事を繰り返すのみなら何になろうか」といった言葉が出てくるのは、捕囚の前後で、搾取や不正を繰り返す、為政者たちの変わらない態度を嘆いているのかもしれません。一方で、これらの経験を経たことで、「善と悪」「祝福と呪い」という二元論を超える思想が、新たに練られていきました。

 

 私がこの書物を好きなのは、ヨブ記とはまた違った形で、応報思想を超える思想が展開されていくからです。今日読んだ箇所の直前、2章26節にはこうあります。「神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとし、それを善人と認めた人に与えられる。これまた空しく、風を追うようなことだ。」

 

 普通、善人の正しさが報いられ、悪人が罰を受けるのは、当然であってほしいと思われます。ところが、この著者は「それもまた空しい」と言ってくるのです。「風を追うようなこと」すなわち、人間が掴むことのできないもの、自分で手にすることのできないものが、勧善懲悪という結末……人間の努力で不幸を避けることは、必ずしもできないと言っているわけです。

 

 また、2章15節では、正しい人が報われるという単純な理解を打ち砕き、繁栄や不幸の結果が、その人の人格や行いを根拠づけるものではないと言ってきます。「わたしはこうつぶやいた。『愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ。』これもまた空しい……」

 

 私たちにふりかかる不幸や失敗は、人の愚かさとは無関係にやってくる。人より優位に立とうとしても、いつ、その立場がひっくり返るか分からない。神様が人の行いを裁くのだから、人は神様を敬い従うべきであるが、正しかろうが罪を犯そうが、同じことがすべての人に起こる……そのように告白するのです。

 

【人間の限界】

 なんて正直だろうかと思います。コヘレトは、自分の未来を決定づけることに対し、人間が無力であることを徹底的に語ります。3章に出てくるリズミカルな詩には、「時」という言葉が28回も繰り返されていますが、生涯を通じて訪れる様々な「時」は、決してこちらの意志で、避けたり近づけたりすることができません。

 

 「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」……これは、運命の話をしているというよりも、人間には自ら操作することのできない「時」があり、そのもとで、限界づけられた存在であることを示しています。もちろん、その中には、できれば来て欲しくない時間、私たちが避けたいと思う、遠のけたい時間も含まれています。

 

 生まれる時、死ぬ時、殺す時、癒す時……最初に問題となるのは、誕生と死の時間です。いかにも、人間の始まりと終わりは、自分で決定することのできない、動かせない時間です。4節では、葬儀と結婚を思わせる「時」が対照的に出てきます。泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時……これも、人生の始まりや終わりとして語られる象徴的な時間です。

 

 5節の「石を放つ時」「石を集める時」というのは、何のことかいまだによく分かっていません。パレスチナは石の国ですから、建築や畑仕事など、生活のあらゆる場面で石が登場します。そういった日常シーンを表す「時」なのかもしれませんし、あるいは、戦争と平和を意味する「時」なのかもしれません。

 

 羊飼いは常に、狼などの獣を追い払う投石用の石を持っていました。戦争の際には大きな石が投げられたため、戦いが終わって平和が戻ると、各地に投げ捨てられた石が集められたました。「抱擁の時」「抱擁を遠ざける時」というのも、和解と対立を意味する時間なのかもしれません。戦争も平和も、いつ訪れるのかは、人々にとって大きな関心事です。しかし、その時を正確に予測することはたいていできません。

 

 求める時、失う時、保つ時、放つ時……こちらは、家事や育児のシーンを思い出させる表現です。「求める」とあるのは、むしろ「探す」という意味の言葉で、ルカによる福音書15章8節の「無くした銀貨を探す」女性の話が思い出されます。「放つ」は、不要になった物を「投げ捨てる」ことで、掃除や片付けをしている場面が頭に思い浮かびます。

 

 大切なものを失くしたり、見つけたりする場面では、誰もが心をドキドキさせます。しかし、だいたい思ってもみない時に失くし、見つかるものです。7節の「裂く時、縫う時、黙する時、語る時」というのも、日常生活のワンシーンです。ボタンが取れるとき、直す時間ができたとき、機嫌が悪くなったとき、機嫌が良くなったとき……自分のことでさえ、それがいつかは予測することはできません。もちろん、制御することだって不可能です。

 

 個人の生と死から始まって、仲間と仕事をする場面や、家庭での生活がイメージされ、最後に「戦争と平和」がもう一度語られます。個人に訪れる時間も、共同体に訪れる時間も、私たちの力で予測できること、変えられることはほとんどないと、この短い詩の中で表されているのです。

 

【限界を超える神】

 そして、9節からは、ここまでの結論が述べられます。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」……11節の冒頭を、口語訳では次のように訳しています。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」この表現の背後には、創世記に記された、天地創造の物語があります。

 

 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」……神様が世界を創造した六日目に言われている言葉です。ここまで、コヘレトでは必ずしも、「良い時」ばかりが言及されてきたわけではありませんでした。死、破壊、悲しみ、嘆き、喧嘩、対立、喪失、戦争……それらの時も受け入れることは、私たちにはなかなかできません。むしろ、何としてでも避けようとする気持ちが出てきます。

 

 しかし、この書物全体で「空しい」「空しい」と繰り返す著者は、なぜか、すべてはその時にふさわしく造られていると語り、神様に大きな信頼を寄せています。私たちも、自分にふりかかった困難や苦しみの時を思い返して、同じことが言えるでしょうか?……言えないこともない出来事に、ちょっと心当たりのある人がいるかもしれません。

 

 あの時の事故、あの時の怪我、あの時の病気、あの時の苦しみ……それらが思ってもみない形で用いられ、今の自分につながっている。新しい出会いや、かけがえのない経験につながっている。そんな体験を話せる人が、この中にもいると思います。私たちには、神様のなさろうとしていることを、初めから終わりまで見極めることはできません。

 

 自分が生まれる前から、今に至るまでの歴史を知ることができても、神様がこの先何を計画しているのか、知ることは許されていないのです。しかし、できれば来て欲しくないと思っていた時間でさえ、神様は美しい業に用いられます。悲しみの時は喜びの時に、終わりの時は始まりの時に、ありえない変化がもたらされます。その究極的な出来事を、私たちは新約聖書を通して知らされました。

 

【十字架の時、復活の時】

 死ぬ時、泣く時、嘆く時、失う時、裂く時、黙する時、憎む時、戦いの時……これらの言葉を聞いて、思い出す出来事がないでしょうか? そう、神の子であるイエス様に訪れた「十字架の時」です。自分が迎える死を知って、泣きながら悶え悲しみ、「できることなら、この時を退けてください」と神様に願ったイエス様。

 

 しかし、それでも「御心のとおりになりますように」と祈り、裁判で不利な証言をされても黙ったまま、ゴルゴタの丘へと連れて行かれました。人々に憎まれ、蔑まれ、唾を吐きかけられる中、釘打たれ、槍で刺され、肉を裂かれたイエス様。人間の罪と最後の最後まで戦ってくれたイエス様。その方が、十字架につけられて死んだ後、やがて復活することを予測できた者は、誰一人いませんでした。

 

 墓を見張りに来た兵士たちも、イエス様の死体を奪われないよう画策した祭司長たちも、誰一人、墓が空っぽになることを阻止できませんでした。弟子たちが鍵をかけていた家の戸も、復活したイエス様との出会いを妨げることはありませんでした。天の下の出来事には、すべて定められた時がありました。その時は訪れます。私たちが思ってもみないときに。

 

 「すべては空しい」で始まるコヘレトの言葉は、あらゆる力を前に、どうすることもできない私たちを曝け出しつつ、そこに働く神様の信じられない出来事を予告します。「今あることは既にあったこと、これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる!」

 

 注解者からも、意味不明な言葉として捉えられる15節。ここには、既に起きたイエス様の復活が、これからも「私たちの出来事」となり続ける、絶望し、追いやられた者に、復活の主は出会い続けてくださると、力強く語られている……そのように思うのです。共に、すべての「時」を味わいながら、今日もこのことを思い返していきましょう。