ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『身もふたもない』 コヘレトの言葉9:1〜16

聖書研究祈祷会 2018年10月10日

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【身もふたもない】

 仮にも宗教の聖典である書物が、こんなことを語っていていいのか? 信仰を守ろうとする集団にとって都合の悪い言葉じゃないか? そんな内容がコヘレトの言葉には溢れています。特に9章は、私のようなキリスト教徒から見れば、あまり外部の人に知ってほしくない内容です。いえ、むしろ信者の皆さんにも知って欲しくありません。

 

 なにせ、私たちが神様を信じる意味がどこにあるのか、分からなくしてしまう内容だからです。冒頭に出てくる「善人、賢人、そして彼らの働きは、神の手の中にある」という言葉、普通これは、神様への絶対的な信頼を表す言葉です。けれどもここでは、ただただ人間の無力さを表す言葉として語られます。

 

 愛も憎しみも人間の前にあるのに、人間には制御することができない。知恵をつけても富を蓄えても、どうにもできない。そんな悲観的なことが呟かれます。「人間の前にあるすべてのことは、何事も同じで、同じひとつのことが善人にも悪人にも良い人にも、清い人にも不浄な人にも、いけにえをささげる人にもささげない人にも臨む」……おっと、イスラエルの民にとって必要不可欠であったはずの、祭儀の意義さえ否定されてしまいました。

 

 かつて、神様にいけにえをささげる行為であったイスラエルの祭儀は、今のキリスト教会で言えば、礼拝をささげる行為です。つまり、礼拝に出ていようが出ていまいが、皆等しく同じことが起こる、と言われているわけです。牧師の口からこんなことを言わせるなんて、神様はなかなか意地悪です。

 

 「それなら先生、別にわざわざ1時間も2時間もかけて、礼拝にやってくる意味ないですよね?」……そう言われて、来週から誰も教会に来なくなったらどうしてくれるのでしょう? たいていの人は、救いを求めて、希望を求めて礼拝へとやって来ます。ここに来れば、何か良いことが起きるかもしれない。悪いことを避けられるかもしれない。けれども、コヘレトはそんな思いをバッサリと切り捨てます。

 

 「良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり、誓いを立てる人に起こることが、誓いを恐れる人にも起こる」さらにそこまで言ってしまいます。誓いを立てる人というのが、約束を守ろうとする人であるなら、誓いを恐れる人というのは、約束を破った人でしょう。

 

 正直者でも嘘つきでも、その身にふりかかる出来事は変わらない。良いことをすれば良いことが起きるのでも、悪いことをすれば悪いことが起きるのでもない。むしろ、良いことをしても悪いことは起きるし、悪いことをしても良いことは起きる。まさに身もふたもありません。宗教ってもっと、良い生き方を、良い人格を目指させようとする、ポジティブなものだった気がします。何だか釈然としないですよね。

 

【死んだら終わり】

 しかも3節以降は、とにかく「死んだら終わり」という言い方が続きます。「命あるもののうちに数えられてさえいれば、まだ安心だ。犬でも生きていれば、死んだ獅子よりましだ」……なんて言っていますが、少し前まで、コヘレトは生きていることより、死ぬこと、生まれなかったことの方が幸いだと言っていました。

 

 4章2節では「既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ」と述べ、7章1節、2節では「名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる。弔いの家に行くのは、酒宴の家に行くのにまさる」とまで言っています。しかしここでは手のひらを返すように、「死んだ獅子より生きている犬の方がましだ」と言ってくるのです。

 

 旧約において、犬は最も卑しい動物、獅子は最も誇り高い動物だと捉えられました。確かに、どんなに大きい犬でもライオンに叶うはずがありません。けれども、ライオンだって死んでしまったら、生きている犬に対してどうすることもできないのです。たとえ、自分の屍肉が漁られようと……ものすごく皮肉な言い方ですよね。

 

 コヘレトは、死んだ後の名声を求めるのではなく、生きている間になるべく楽しめと言うようになります。「生きているものは、少なくとも知っている。自分はやがて死ぬ、ということを。しかし、死者はもう何ひとつ知らない。彼らはもう報いを受けることもなく、彼らの名は忘れられる。」

 

 ここには、死んだ後天国へ行くとか地獄へ行くとか、そういった発想はありません。死んで忘れられたら、もう何も残らないというのが、もともとイスラエルにあった死生観でした。だからこそ、死んだ後、「先祖の墓に葬られる」ということが重要視されたわけです。少なくとも、墓に来た人には覚えてもらえるから。

 

 ところが、コヘレトは徹底的に人間の無力を語ります。富や名誉を求めて努力しても、それらは死ねば消えるのだ。生きている人とかかわりを持つことはできなくなるのだ。結局死んだら終わり、全ては失われる……そんな救いのないことを語るのです。彼がここまで悲観的に語るのは、ある事柄への感情が非常に強かったからでしょう。

 

 それは「忘れられること、覚えてもらえないこと」への絶望です。どれだけ偉業を成し遂げても、どれだけ節制を貫いても、自分はいつか忘れられる。誰にも思い出されないまま、人々の記憶から消えていく……言いようのない寂しさがあったのでしょう。

 

 知恵を求めて、彼が見てきたこと、聞いてきたことの中には、既に忘れ去られた人々の言葉や行いが幾つもありました。あんなにがんばってきた人も、あれだけの苦しみに耐えた人も、その努力を思い出されることなく死んでいく。あるいは、生きている間も死んでからも、一切気づいてもらえないまま埋もれていく。それこそが、コヘレトにとって「報われない」象徴だったと思うのです。

 

 彼は言います。「誰だっていつかは忘れ去られる、それなら、今の人生を楽しみなさい」と。「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れてくださる」……パンと酒は、特別贅沢なものではありません。真水を手に入れることの難しかったパレスチナでは、ぶどう酒も飲用水のような役割を果たしていました。ようするに、生活必需品の代表例です。

 

 それでも、食事は人々に素朴な喜びをもたらします。彼が勧めるのは、極端な禁欲主義でも快楽主義でもありません。既に2章で、目一杯快楽と愉悦に浸ってみたコヘレトは、それらもまた空しいという結論を出していました。どんな宝や財産を手に入れても、それらはやがて消えてしまう。死んだら自分の手を離れ、残したい相手の手に渡るかも分からない。今ある幸せを精一杯受けとめるのが、結局一番なのだと。

 

 続けて、8節からはこう語ります。「どのようなときも純白の衣を着て、頭には香油を絶やすな。太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。」……「純白の衣」や「頭にかける香油」は歓喜のしるしであり、特に祝祭に用いられました。それこそ、結婚の場面が思い出されます。

 

 実は、コヘレトはもともとたいへんな女性不信を抱えていました。ちょっと前の7章26節から28節を見ると、こんなことが言われています。「わたしの見いだしたところでは、死よりも、罠よりも、苦い女がある。その心は網、その手は枷。神に善人と認められた人は彼女を免れるが、一歩誤れば、そのとりことなる……千人に一人という男はいたが、千人に一人として、良い女は見いださなかった。」

 

 なんて典型的な女性蔑視! という箇所ですが、そんな偏見を抱えていた彼が、いきなり「愛する妻と楽しく生きろ」なんて言ってくるのは、どうにも不思議な話です。どうしてそうなった? と言いたくなりますよね。むしろ7章から続いているなら、「愛する女性も疑ってかかれ」と言いそうなものです。

 

 皮肉なことに、彼は女性とのかかわりについて、絶望的な考え方しか持っていなかったのに、いつの間にか、自分の固定観念を超える生き方に導かれます。女性を疑い続ける生き方から、女性と共に楽しく生きる生き方へ。考えてみれば、生き続けるより死ぬことの方が幸いだと言っていた彼が、人生を楽しもうとし、女性を疑い続けていた彼が、愛する妻と共に生きようとする……

 

 彼自身、全く気づいていませんが、ありえない変化が既にその身に起きていました。すべては空しく、いつかは失われ、自分も忘れられる……そんな絶望を感じる中で、実は、知恵を求め続けた彼に、神を恐れて礼拝するコヘレトに、報いは与えられていたのです。さらに、知恵に対する悲観的な彼の言葉も、私たちが気づくことのない、神様の恵みと報いを露わにします。

 

【報われない賢人】

 「わたしはまた太陽の下に、知恵について次のような実例を見て、強い印象を受けた。ある小さな町に僅かの住民がいた。そこへ強大な王が攻めて来て包囲し、大きな攻城堡塁を築いた。その町に一人の貧しい賢人がいて、知恵によって町を救った。しかし、貧しいこの人のことは、だれの口にものぼらなかった。」

 

 正しい人、努力した人が報われない印象的な話です。私たちが気になるのは、この賢人とは誰のことだろう? ということです。聖書学者の間では、14節以下の出来事は、何か具体的な歴史的事実を言及しているわけではないだろうと言われています。町の包囲攻撃は、古代オリエント世界ではよくあることだったからです。

 

 まあ、「だれの口にものぼらなかった」とコヘレト本人が言っているくらいですから、きっとどこにも記されていないのでしょう……ところが、実は残っているのです。知恵ある者が包囲された小さな町を救った話、そっくりそのまま、聖書の中に出てきます。皆さんは思い浮かぶでしょうか?

 

 いや、そんな男いただろうか? 聞いたことがない……そう思われるかもしれなません。当然です。なぜなら「知恵ある者」は、男じゃないからです。攻城堡塁が築かれた小さな町を救ったのは、名前も明かされない「知恵ある女」の一人だったからです。サムエル記下20章14節から22節に、この話が出てきます。

 

 ここでは、ダビデ王に反逆したシェバという人物が、アベルという町に立て籠もり、追いかけてきた家臣たちが町を包囲し、城壁を崩すための砦を築きます。このままでは、反逆者を倒すため、町ごと滅ぼされてしまう! 住民が不安になる中、「知恵ある女」が町から呼ばわり、王の家臣に向かって交渉するのです。

 

 「町に立て篭もったシェバの首を城壁から投げ落とすので、この町から軍を引き上げてくれ」と。やがて、その言葉どおり、彼女は知恵を用いてすべての民のもとへ行き、シェバの首を切り落とすことに成功します。彼女によってアベルの町は救われ、王の軍隊は引き返していきました。

 

 しかし、王の反逆者を倒し、町を救った彼女の功績は讃えられることなく、何の報いも与えられないまま、この出来事は幕を閉じます。彼女の名前は誰の口にものぼることなく、あっさり忘れられてしまったのです。「知恵は力にまさるというが、この貧しい人の知恵は侮られ、その言葉は聞かれない」……なるほど、コヘレトの言葉は、確かにその印象を強くします。

 

 けれども、旧約聖書を手にする私たちは気づいてしまいます。「その言葉は聞かれない」と言いつつ、この忘れ去られた知恵ある女の行動は、今も読まれ続けていることを。コヘレト自身が、忘れられていた賢人の言葉を、私たちに思い出させてしまったことを。

 

 死んだら終わり、誰にも覚えてもらない……そのはずだった女性の姿は、2000年以上語られ続け、自分たちの活躍を隠され、奪われ、忘れられていく女性たちに、なお励ましと力を与えているのです。死後も、生きている者たちにかかわり続け、気づきと希望を与えている。神様は、言葉を聞かれないまま、ほっておくことはなさらないのです。

 

【報いと恵み】

 そう、報いに気づいていないのは、私たちなのかもしれません。確かに、私たちの望む人、求めている人からの評価や報酬は、生きている間、得られないことがあります。しかし、神様は全てを見られ、聞かれています。誰にも見られなかった私の行動、誰にも気づかれなかったあなたの行為を、全てを知っておられます。

 

 コヘレトは、最後にこんな言葉を残しています。「神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて、裁きの座に引き出されるであろう」……結局、私たちが一番に求めている報いとは、このように、自分のやってきたことを誰かに見てもらうこと、承認してもらうことなのかもしれません。しかし、一時は報われても、すぐに忘れ去られます。やがては消えてなくなります。けれども、唯一、永遠にそれを果たされる方がいます。

 

 誰もあなたを見ないとき、あなたを評価しないとき、慰め励ましてくれないとき、神様はずっとあなたを見つめています。隠れたことを引き出され、あなたの歴史を語ります。他の誰かに、生きているものにつながって、あなたの人生を用います。あなたの思想や価値観を超える生き方まで与えてきます。だから、今を生きなさい。