ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『良い知らせと悪い知らせがある』 ヨブ記38:4〜18、使徒言行録14:8〜20

礼拝メッセージ 2018年10月28日

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【良い知らせと悪い知らせ】

 「良い知らせと悪い知らせがある」……ハードボイルドな小説か映画のワンシーンに出てきそうな言葉が、今日のメッセージのタイトルでした。一週間、教会の前に貼り出されていた礼拝案内を見て、道行く人はどう思ったでしょうか? 皆さんは何を感じたでしょうか?

 

 教会とは、悪い知らせではなく、良い知らせを聞くところ。そのように思っている人が多いでしょう。事実、私たちが礼拝で聞くイエス様の教え、神様の救いを表す「福音」という言葉は、「良い知らせ」を意味する言葉です。しかし、実際に教会へ来てみると、語られるのは、良い知らせばかりではありません。聖書を開けば、私たちにとって厳しいことや、悪い知らせに聞こえるものがいくらでも出てきます。

 

 その中でも、特に理不尽に感じられる出来事が、最初に読んだヨブ記という書物に記されています。ヨブと言えば、正しく生きてきたにもかかわらず、どんな状況でも神様にきちんと従うかどうか試されて、財産も子どもも失くし、全身に重い皮膚病を負わされ、徹底的に不幸へと落とされてしまった人物です。

 

 善人は栄え、悪人は滅ぼされる。神様に従う者は祝福され、背く者は呪われる。そのような考えが一般的であったイスラエル人にとって、この出来事は衝撃的な話でした。善人でも、あらゆるものを失い、苦しみを受けることがある。神様に従っていても、呪いに等しい不幸を負わされることがある。これを悪い知らせと言わずして、何と言うでしょう?

 

 現代に生きる私たちも、かつてのイスラエル人と似たような感覚を持っています。良いことは良い人に起き、悪いことは悪い人に起きる。頑張った人は報われ、頑張らなかった人は痛い目に遭う。世界にはそうした秩序があるという考えを、「公正世界仮説」と呼び、多くの人は無意識にそれを信じているそうです*1

 

 そのため、理不尽な事故や事件を目の当たりにすると、私たちは、世界は公正なのだと信じようとするあまり、被害者を不当に非難してしまうことがあります。たとえば、「ある女性が道を歩いていたら、いきなり暴漢に襲われた」というニュース……これを聞いて、思わずその女性に対し、「危険な場所を歩いていたのでは?」「犯人を刺激する格好をしていたのでは?」と考えてしまうのは、珍しいことではありません。

 

 被害者に落ち度や罪があったと考えれば、それは自業自得であり、自分にも理不尽な出来事が起こるかもしれない、という不安を感じなくて済むからです。正しく生きてきたはずなのに、突然災いに襲われたヨブに対して、彼の友人たちも同じような反応を返します。「あなたがこれだけの不幸に遭ったのは、あなた自身に落ち度があり、あなたの罪が原因ではなかったか」と。

 

【ヨブに起きた出来事】

 毎週、聖書研究祈祷会に出られていた方は、以前にもこの話を聞いたことがあると思います*2。ヨブ記において、私たちの耳に入ってくるのは、「正しい人を試す神」「理不尽な出来事を許す神」という、あまり受け入れたくない話です。良い知らせは、いったいいつになったら出てくるのだろうと、だんだん不安になってきます。

 

 しかし、この悪い知らせにしか聞こえない話が、ある人々にとっては、自分を抑圧するものから解放する言葉になりました。皮肉にも、それはヨブと同じように理不尽な目に遭い、周りから自分の落ち度、自分の罪を詮索されてきた被害者たちです。「あなたに起きた不幸は、あなた自身の罪や落ち度のせいではない。あなたが悪い人だから、罰を受けてそうなったのではない。」

 

 そのように弁護してくれる物語が、このヨブ記でもあったからです。ただし、友人たちから、自分の罪や落ち度を散々言われてきたヨブに対し、38章でようやく現れた神様は「なぜ正しく生きてきた私がこのような目に遭わなければならないのですか?」という叫びに、直接答えてはくれません。4節から神様が答えているのは、人間には把握することのできない、創造の業についてです。

 

 いやいや神様、もっと正面からヨブの問いに答えてくださいよ。この世の中で理不尽な不幸や災い、意味の分からない事故や病気に苦しんでいる人々へ、なぜそのような目に遭わなければならないのか、教えてくださいよ……思わずそう訴えたくなりますが、神様は自分がヨブを試したことも、もともと彼の正しさ、信仰を認めていたことも語りません。ただ、「天地を創造した私の業に目を向けよ」とだけ語ります。

 

 これもまた、悪い知らせに聞こえます。神様は私たちの問いに、直接答えてくださらない。まるで、はぐらかすような言い方で、聞いてもいないことを答えてくる……けれども、よく注意してみると、神様が答えた言葉は、ヨブに対してだけでなく、ヨブの罪や落ち度を詮索してきた、友人たちにも語られている言葉です。

 

 世界は公正だと信じたいあまり、理不尽な目に遭った人を、責めてしまうことがある私たち、そんな人間みんなに語っている言葉……それが、「あなたの信じている世界は正しい姿なのか?」「あなたは正しく世界を捉えているのか?」という問いかけです。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。」

 

 もちろん、神様が乾いた地を造られたとき、その場にいた人間はいませんでした。まだ自分が存在してもいないときのことを、知っているなんて言えるはずがありません。「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか。」当然、人間に太陽を昇らせることなんてできません。その命令ができるのは神様だけです。私たちは世界がどのように造られたのかも、この世界の仕組みも全貌も知りません。

 

 「世の中はこんなふうにできている」「世界はこういうものだ」と、さも知っているかのように口にすることがあっても、私たちは神様の造られたこの世界を、決して理解できているわけではないのです。「神様、この世界は、良い人に良いことが、悪い人に悪いことが起きる公正な世界ですよね? それなのにどうして良い人に悪いことが起きるのですか?」そう訴える私たちに、神様は言うのです。

 

 あなたは世界を知ったつもりでいるのか? あなたがこの世界を造ったのか? 曖昧な前提に縛られないで、あらゆるものを創造した私の業に目を留めなさい。私は大地をひっくり返し、粘土のように形を変えることができる。あなたの不幸を覆し、あなたを祝福することができる者なのだと。

 

【リストラで起きた出来事】

 ヨブ記の他に、今日はもう一箇所、聖書の言葉が読まれました。使徒言行録14章8節から20節までの話です。冒頭に出てきた「リストラ」という地名を聞いて、思わずドキッとした会社員の方もいるかもしれません。たまたま出てきた地名ですが、これまた、「良い知らせ」よりも「悪い知らせ」を予感させます。

 

 事実、ここでは良いことが起きたかと思えば、その次にすぐ悪いことが起きるという話が繰り返されています。最初に、パウロによって足の不自由な男が癒されたという良い知らせが語られます。ところが次の瞬間には、それを見た群衆たちが、パウロとバルナバを「神々が人間の姿をとったのだ」と勘違いしてしまった悪い知らせが語られます。

 

 目に見えない神様のことを伝えるため、はるばる外国までやってきたパウロとバルナバにとって、たいへん不名誉な出来事です。彼らはギリシャ神の名前である「ゼウス」や「ヘルメス」という名前で自分たちが呼ばれていることを知り、「やめてくれ」と服を破きながら叫びます。

 

 「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。」そう言って、パウロは人や偶像を神として拝むのではなく、生ける神を礼拝するように、天と地と海を創造された、全てのものの創り主である神様を信じるように訴えます。

 

 必死に説得した甲斐あって、パウロとバルナバは、群衆が自分たちに生贄をささげようとするのを、何とかやめさせることができました。再び良い知らせです。自分たちが神なのではなく、自分たちを遣わした目に見えない神様を信じさせることができたと、一瞬思わされます。

 

 ところが、そのすぐ後に、またも悪い知らせがやってきます。彼らのところへキリスト教を異端視するユダヤ人たちがやってきて、群衆を抱き込み、パウロに向かって石を投げつけさせたのです。さっきまで人間の姿をとった神だと思っていた相手、目に見えない神様を信じるよう教えてくれた相手に対し、群衆はあっさり手のひらを返し、死んでもおかしくないほど石を投げつけてしまったのです。

 

 必死に説得したにもかかわらず、偶像礼拝をやめさせたにもかかわらず、簡単に敵へ寝返ってしまった……そんな伝道の難しさが語られます。ここにある出来事は、奇跡を通して伝道が成功した話ではありません。足の不自由な男が癒されたにもかかわらず、神様のことが正しく伝わらなかった失敗と挫折の話です。

 

 パウロは自分が伝道した群衆たちから大量の石を投げつけられ、傷つき、打たれ、動けなくなったのでしょう。ついには死んでしまったものと思われ、町の外へ引きずり出されてしまいます。神様を信じ、危険を犯して福音を伝えようとした者が、この有様です。正しく生きた、神様に従った人物が、守られることなく倒れてしまいます。良い知らせなんて、これっぽっちもありません。

 

【良い知らせが訪れる】

 ところが、話はこれで終わりません。なんと、死んだように見えたパウロの周りに弟子たちが集まると、彼は再び起き上がったのです。九死に一生を得たパウロは歩き出します。物語は何とかバッドエンドにならずに済みました。このまま町を出て、もっと話を聞いてくれそうな人たちのもとへ行くのでしょう。

 

 けれども、彼は何を思ったのか、もう一度、同じ町の中へ入っていきます。自分を殺そうとした群衆たちのいるところへ、自分の話を聞いても信じなかった、手のひらを返した人たちのいるところへ、再び入っていったのです。愚かにも程があります。この町に戻っても成果は見込めません。もう彼らに救いを語る必要も、信仰に導く必要もないはずです。悪い人には悪いことが、良い人になれない者には、良いものが与えられなくて当然です。

 

 パウロのやり方は公正には思えません。けれども、私たちは彼がそのように行動した理由を知っています。彼が誰にならったかを知っています。それは、自分を見捨てて逃げてしまった弟子たちのもとへ、復活して再び会いにきたイエス様です。良い人になれなかった者たち、正しく歩めなかった者たちに、どこまでも付き合い続けたイエス様です。

 

 パウロ自身、もともとはイエス様を神の子だと信じることができず、キリスト者を殺すため、捕まえて回るような人間でした。ステファノがユダヤ人に石で打ち殺されたときも、その処刑に賛成していました。

 

 キリスト者は間違っていて、自分こそが神様に従っている、正しく生きていると思っていた人物でした。けれども、幻のイエス様と出会い、自分が間違っていたと気付かされたとき、自分が正しい者を殺していたと気づいたとき、本来なら、彼は公正に罰を受けて滅びるはずでした。しかし、イエス様はパウロを滅ぼすのではなく、弟子として新しく遣わしました。

 

 大地をひっくり返すかのごとく、世の中の常識を覆すかのように、呪いを祝福へと転じ、良い知らせをもたらしたのです。私たちには日々、「良い知らせ」と「悪い知らせ」が与えられます。感覚的には、悪い知らせの方が多いかもしれません。世の中は不信で満ちています。不正と虚偽、差別や抑圧がはびこり、良い人ばかりが苦しめられているように感じます。

 

 しかし、この世界を造られた神様は、私たちが囚われている常識や不安から解放し、悲しみを喜びに、絶望を希望に変えられます。私たちが理解することも把握することもできないところで、あらゆるものをひっくり返す創造の業を行われます。あなたの前にも、良い知らせがもたらされます。今日もそのことを覚えて、共に賛美と祈りを合わせましょう。

*1:「公正世界仮説」については以下を参照した。

psychmuseum.jp

*2:

bokushiblog.hatenablog.com