ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『わたしを食べろ(`・ω・´)』 ヨハネによる福音書6:30〜40

聖書研究祈祷会 2018年11月14日

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【それってアンパンマン?】

 今日の聖書研究祈祷会には、『わたしを食べろ(`・ω・´)』というタイトルをつけさせてもらいました。どうしてこのタイトルをつけたかと言えば、イエス様がこんなことをおっしゃっているからです。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

 

 この言葉を聞いて、真っ先に思い浮かぶキャラクターがいないでしょうか? 文字通り体がパンでできている、飢えている人が彼のもとに集まってくる、そんなキャラクター……そう、テレビや絵本でお馴染みのアンパンマンです。

 

 ご存知のとおり、アンパンマンは子ども向けアニメ番組のヒーローで、アンパンでできた顔を持つ主人公です。「お腹が減った」「何か食べたい」と困っている人がいれば、「僕の顔をお食べ」と言って、自分の顔をちぎっては差し出し、飢えを満たしてあげる異色のヒーロー……。

 

 当初は、グロテスクで気味が悪いと編集部や批評家から散々悪評を受けたそうですが、徐々に子どもたちの人気を集めるようになり、今ではポケモンやキティーちゃんに並ぶほどの人気ものになりました。もはや、日本にいる子どもたちが、生まれてから最初に憧れるヒーローと言っても、過言ではありません。

 

 そんなアンパンマンが誕生した背景には、作者のやなせたかしさんが経験した戦時中の出来事があります。彼は深刻な食料不足の中で、「人生で一番辛いのは食べられないこと」という考えを持つようになりました。戦争をしていたとき、ヒーローとして見られるのは、敵を倒し、相手の乗り物や建物を破壊する勇士でしたが、彼らは飢えや空腹に苦しむ者を救ってはくれませんでした。

 

 これまでのヒーローも、派手な力で悪者を徹底的にやっつけることはあっても、戦いによって殺された者や怪我を負わされた者、破壊された自然や建物に対する後始末や謝罪は見られませんでした。そんな中、やなせさんは「困っている人に食べ物を届ける、立場や国が変わっても決して逆転しない正義のヒーロー」こそが、本当のヒーローだと考えるようになり、アンパンマンのイメージが生まれました。

 

 彼は、第1作『あんぱんまん』のあとがきで、「ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです」と記しており、絵本に出てくるアンパンマンにも、派手な必殺技や武器を持たせていません。普段の活動も悪者退治ではなく、お腹の空いた人に食べ物を与えたり、壊れた建物を直したりという地味な活動です。

 

 時には、お話の中で、悪者を徹底的にやっつけるスーパーヒーローと勘違いされ、弟子にしてほしいと頼まれるも、地味な人助けを優先するアンパンマンの姿に、幻滅する者も出てきます。「正義のヒーローなら、もっと派手に活躍してほしい」「スカッとするような戦いを見せてほしい」そんな期待を裏切るからです。

 

 アンパンマンは、一般的に期待されるヒーローとは、ちょっと異なる存在として始まりました。それでも、彼の愛と勇気を理解した者たちは、みんなアンパンマンを好きになっていきます。本当の正義とは何か、救いとは何かを知っていきます。同じく、「わたしが命のパンである」と語ったイエス様も、群衆たちに期待されるヒーローとは、ちょっと異なる存在でした。

 

【群衆の期待したヒーロー】

 イエス様と群衆たちとのやりとりは、先ほど読んだところよりも少し前、22節から始まっています。イエス様は6章で、お腹を空かせた5000人以上もの群衆のため、パン5つと魚2匹しかなかった食事を増やし、人々を満腹にする奇跡を行っていました。その後、イエス様は山に退き、湖の向こう岸へ行ってしまいますが、群衆たちは再びイエス様を捜して集まってきます。

 

 イエス様は、自分を捜し求めてやってきた人たちにこう言います。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」すると、彼らはこう聞き返します。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか?」

 

 イエス様は「神がお遣わしになった者を信じること。それが神の業である」と言って、自分を信じるように勧めました。けれども、彼らは言います。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。」

 

 群衆たちがこう言うのはちょっと不思議な話です。と言うのも、彼らはイエス様の行ったしるしである奇跡を、もうその身で体験していたはずだからです。5つのパンと2匹の魚で、満たされるはずのない5000人以上の空腹が満たされる……そんな経験をしていてなお、「神があなたを遣わしたというしるしを見せてください」と言うのです。

 

 いったい彼らは、他にどんなしるしを求めていたのでしょう? おかしな言葉はまだ続きます。「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」……有名な出エジプト記に出てくる奇跡を言っているのでしょう。

 

 かつて、エジプトで奴隷となっていたイスラエル人は、モーセに率いられて脱出し、荒れ野を40年間さまよっていました。その間、食べ物がなくなってしまったとき、神様は天からマナという食べ物を降らせて、パンの代わりに人々へ与えてくれました。「あなたが神の子だと信じられるように、私たちにもその跡を見せてください」……そう言っているのだとしたら、とんだ皮肉です。

 

 口説いようですが、彼らは既に、足りないはずのないパンでお腹を満たされ、荒れ野におけるマナに代わる奇跡を、体験させられていたからです。パンを食べて満腹したのに、それをしるしとして、神様の業として、まだ受け取っていない……そんな愚かな姿が見えてきます。あるいは、自分たちにパンを与えてくれたイエス様に、もっとすごい奇跡を期待したのかもしれません。

 

 彼らが言及する出エジプトの出来事は、圧倒的な戦力を持つエジプトの軍勢が海の中に投げ込まれ、イスラエル人がその支配から解放されるという話でした。さらに、旅の途中で襲ってきた敵の勢力、約束の地に住み着いていた先住民に対する勝利も、神様にもたらされた奇跡として語り継がれていました。

 

 それならば、イエス様もパンを増やすどころか、現在自分たちを支配するローマ帝国を打ち滅ぼし、イスラエルを解放する奇跡を行なってくださるかもしれない! そんな期待を、この言葉に込めていたのかもしれません。事実、群衆たちだけでなく、イエス様に従っていた弟子たちも、敵を滅ぼす軍事的な王を期待していたようです。

 

 けれども、イエス様は彼らにこう言います。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」……悪者を倒し、敵に死と滅びを与える正義ではなく、飢えている者にパンと命を与える正義……それが自分なのだと語るのです。

 

【命のパン】

 すると、どこかで見たやりとりが続きます。「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言う群衆たち、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがない」と答えるイエス様。そう、先週の水曜日に読んだ、サマリアの女性とイエス様とのやりとりにそっくりです。

 

 ヨハネによる福音書4章には、水を汲みに来たサマリアの女性が、イエス様から「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と聞いて、「その水をください」と願う場面が出てきます。

 

 おそらく、彼女が最初に期待していたのは、文字通り、一度飲んだら渇くことのない不思議な水だったのでしょう。本来なら、涼しい朝の時間帯に水を汲みに来るところ、蒸し暑い正午に、人目を避けて来なければならない事情があった彼女にとって、井戸に来なくて済むようになる水は、喉から手が出るほど欲しいものでした。

 

 しかし彼女は、イエス様から救い主メシアだと明かされると、予想もしていなかった行動に出ます。なんと、水を得るため井戸までやって来たのに、水がめを置いたまま走り去り、人目を避けていたのに町に行って、人々にこのことを知らせて回ったのです。彼女がイエス様に水を求めたのは、「また、ここにくみに来なくてもいいように!」人目を避けて生きていく手段を得るためでした。

 

 しかし気がつくと、彼女は人目を避ける者ではなく、自分と救い主との出会いを人々に語る者へと変わっていました。神様に受け入れられない、救われるはずがないと思っていたのに、救い主は自分のところへ来てくださった! 自分も永遠の命を得られると言ってくださった! その喜びに満たされていたのです。

 

 イエス様はこの時、何か派手な奇跡を見せたわけではありません。かっこいいことをしたわけでもありません。それでも確かに、孤独に苦しむ人へ新しい命を与えたのです。同じように、群衆たちに向かってイエス様は言われます。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」……あなたたちに必要なのは、派手な奇跡や勝利ではなく、神様に受け入れられたという恵みなのだと。

 

【イエス様に与えられた人】

 一方で、「わたしのもとに来る者は」「わたしを信じる者は」というような言葉を聞くと、言外に、イエス様のもとに来ない者、信じない者は皆、命のパンも、命の水ももらえない……そう言われているように感じます。事実、イエス様は36節で「あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と非難するような言い方をしています。

 

 しかし、よくよく考えてみれば、イエス様を見ているのに信じなかったのは、いつもそばにいた弟子たちだって同じでした。イエス様を神の子と告白し、イスラエルの王だと言っていたにもかかわらず、彼らはイエス様が十字架にかけられたとき、もう駄目だと諦め、絶望してします。

 

 死んでから3日目に復活するというイエス様の言葉を聞いていたのに、それを理解することも信じることもできなかったのです。それどころか、「復活したイエス様を見た」と証言する者が現れても、まだ信じることができませんでした。

 

 イエス様を直接見てきたのに、イエス様から直に約束されたのに、イエス様の復活を身近に聞いたのに、それを信じることができなかった者たち……彼らはイエス様が非難した群衆たちと、そんなに変わらない人間でした。命のパン、命の水を受けるに値しなかった人間でした。ところが、そんな彼らの前に、イエス様は復活した姿を現し、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語り、パンと魚を分け与えます。

 

 神様がイエス様に「与えた人たち」は、決して素直に、イエス様を信じている人たちではありませんでした。イエス様は、信じない者を信じる者に、招かれていない者を招かれる者に、与えられていない者を与えられた者にしたのです。そういう方を、神様は私たちのもとへ遣わしてくださったのです。

 

 「わたしを食べろ」……非常に戸惑いをもたらす言葉ですが、イエス様は繰り返し、自分が命のパンであり、このパンを食べる者は永遠の命に至ると語りました。

 

 当初、多くの人に戸惑いをもたらしたアンパンマンが、飢えている人に自分を食べさせ、満たされた笑顔を作っていったように、イエス様も、裸で十字架につけられるというヒーローらしくない戸惑わせる姿を見せながら、自分という命を私たちに与え、永遠の命にあずからせるのです。

 

 そのことを思い出しながら、日々の食事を味わいつつ、再来週に迎える収穫記念日まで、神様の恵みに感謝していきたいと思います。