礼拝メッセージ 2018年12月2日
【アドヴェントに何を待つ?】
今日から私たちは、アドヴェントの時期に入りました。アドヴェントというのは「到来」という意味のラテン語から来た言葉で、救い主イエス・キリストの到来したクリスマスを楽しみに待つ4週間です。教会ではクリスマスツリーやリースが飾られ、家によってはアドヴェントカレンダーが壁にかけられます。町中でも、クリスマスに向けて綺麗なイルミネーションを見ることができます。
一見、誰もがこの時期、クリスマスを楽しみに待っているように感じます。しかし、私たちは何を楽しみに待っているのでしょう? クリスマスに何を期待しているのでしょう? 子どもならサンタさんかもしれません。送られて来るプレゼントかもしれません。しかし、今ここ来ている私たちは、何を待ち望んでいるのでしょう?
私自身は、クリスマスをワクワクした気持ちで待つというよりも、クリスマスをあくせくした気持ちで乗り切ろうとしている感じがします。なぜなら、教会の牧師をしている私にとって、この時期は一年で最も忙しい時期であり、「あれをしなきゃ」「これをしなきゃ」と、慌ただしい毎日になるからです。
受験生にとっては追い込みの時期、親にとっては学校や幼稚園の行事が重なる時期、仕事をしている人にとっては、年末に向けて様々な調整をしなければならない期間です。みんな、忙しい時期を耐え忍び、早く色々な行事が終わってくれるのを待っている……「はよ通り過ぎて」と考えている……そんなふうに感じるのは、私だけでしょうか?
本来、クリスマスは救い主であるイエス様が、私たちの元へ来て下さったことを記念する日です。同時に、アドヴェントは、この世の終わりに、イエス様が再び私たちの元へ来られること、この世に救いが訪れることを思い起こし、キリストの来臨を待ち望む時期でもあります。
しかし、私はこの時期、自分が本当に「救い」を待ち望んでいるのか、キリストの来臨を期待しているのか、ときどき分からなくなります。神様を信じている人も、教会と関わりの少ない人も、クリスマスに特別な「救い」の出来事を期待しているというよりは、この日だけは、仕事も解決困難な問題も忘れて、にぎやかな雰囲気を楽しもうとしているように感じるのです。
むしろ、今の私たちは、様々な苦しみからの「救い」、深刻な悩みからの「解放」を期待することが、困難になっているのかもしれません。実際、私たちの間では、病気やいじめ、貧困といった複雑な問題がたくさんあります。それらの解決はどれも困難で、不可能のようにさえ思えます。
自分の将来に対して、大きな期待や希望を持てなくなっている若者もいます。子どもたちでさえ、誰もが自由に持てるはずの「夢」を、成長していくにつれ、口に出せなくなっています。そんな時代に生きている私たちは、目の前にある大きな問題からの解放や解決を望み、お互いに励まし合うことよりも、「解決困難だから仕方ない」「変な期待は持たない方が良い」と諦めることを選ぶ方が多くなっていないでしょうか?
【救いを期待してますか?】
学生の頃、私はあるボランティアで、3.11の被害を受けた東北から、関西へ保養キャンプに来た子どもたちと出会いました。被爆による健康被害を少しでも防ぐため、普段は外で遊べない子どもたちです。そのキャンプが終わるとき、ボランティアのスタッフが「放射能の危険をみんなでなくしていこうね」と言ったのに対し、子どもたちがすかさず「無理だよ」と言ったことが、今も記憶に焼き付いています。
誰よりも、危険がなくなってほしいはずの子どもたち、外で遊びたいはずの子どもたちが、救いを期待できなかったのです。考えてみれば、大きな夢を持つこと、深刻な課題に向き合うこと、それらを避けて、「無難」と言われる道を選ぶよう、子どもたちへ促してきたのは、他ならぬ私たち大人でした。
現状が変化することよりも、現状になるべく満足することで、心の「救い」を得ようとしてきたのは、私たちでした。今日のメッセージにつけたタイトル、『はよ救って……』という言葉を聞いて、ちょっと愚かな台詞に聞こえた人もいるでしょう。「神様助けて」「早く何とかして」「この状況から私を救って」「お願い、早く……!」
そんなこと言っていないで、この世に変な期待なんかしないで、心が乱されないように今は救いを諦めよう……神様を困らせるお祈りなんてしないで、大人しくしていよう……しかし、それは本当に、私たちを支える希望なのでしょうか? どちらかというと、具体的な希望を持つことを諦めた、中身のない希望のようにも思えるのです。
教会もまた、もしかすると、この世において「諦める」ことを促してきたのかもしれません。クリスチャンにとって「救い」というのは、この世の様々な権力や、理不尽な支配から解放され、神様の支配が完成すること、神の国が訪れることです。先ほど読んだルカによる福音書でも「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」という言葉に象徴されて、イエス様がこの世に再び訪れ、神の国が実現する日のことが預言されています。
しかし、ほとんどの人は「神の国」、すなわち天国は、自分が死んでから訪れる場所と思っています。教会に通っている人であっても、自分がイエス様と出会うのは死後の世界、天国で起きることだと考え、今生きているこの世界と、関係ない場所で起きると思っていないでしょうか?
今まで、私たちが教会で聞いてきたメッセージ、語ってきたメッセージは、この世ではなく、天国で救われることを暗に強調していたのかもしれません。神様を信じていれば、生きている間は報われなくても、死んでから報われる……そんな安易な結論ばかり、言い聞かせてきたのかもしれません。
【待てないはずの救い】
しかし、本来聖書は、「救い」を現実から遠のいた未来や、死後の出来事としてではなく、神様が歴史の中に、決定的に介入する日として語っています。「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公正と正義をもってこの国を治める」……エレミヤ書に記された言葉は、どこか遠い異世界の話ではなく、この世に起こる具体的な出来事として語られました。
この言葉は、南ユダ王国最後の王ゼデキヤの時代に語られたもので、真っ当な政治が行われず、人々が混乱と苦難を味わっていたときでした。もはや、国の指導者に期待はできず、正義と公正なんて望めない時代でした。文字通り、「はよ救って!」という状況です。そんな中、神様は「正義の若枝」、新しい王を与えると、人々に約束します。
けれども、この約束はなかなか実現しません。バビロニアの傀儡政権であったゼデキヤ王が反旗を翻し、エルサレムは攻め込まれ、国が滅亡するからです。「新しい王が与えられる」という約束は、成就しないままエレミヤ書は終わります。約束の実現は描かれません。もういっそ、「はよ救って!」と期待する方が馬鹿らしくなってきます。
エレミヤ自身も、イスラエルが滅ぼされ、捕囚の民となってしまうことを知っていました。新しい王を与えるという約束の後で、そのことを預言しているからです。約束が果たされるには、困難な状況が訪れると分かって、この言葉を語ったのです。それも、一度ならず二度までも、彼は「正義の王がやって来る」と語ります。国が滅亡するのを知っているにもかかわらず……
不思議な話です。彼は、不吉なことばかり言う者といて捕えられ、牢につながれてしまいます。誰よりも、救いを期待できない状況で、問題の解決が困難だと分かっている状況で、具体的な救いを持ち続けたのです。「その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう」……
本来なら、救いなんて待てないはずでした。エレミヤが死んだ後、普通なら、彼の言葉は嘘だった、愚かな幻に過ぎなかったと言われ、忘れ去られるはずでした。「はよ救って」と叫んでいた人たちも、「馬鹿らしい」「もう諦めよう」と考えるはずでした。実際、そう思って、期待するのを止めた人もいたでしょう。苦しいけれど、現状に満足しようと考えた人もいたでしょう。
けれども、待てないはずの救いを待つことが、何世紀にもわたって続けられてきたのです。それは、預言者の言葉が思い出されるとき、繰り返し、自分たちを励ます神様との出会いがあったからです。やがて、神の子であるキリストが、人間として、赤ん坊の姿で現れるという具体的な出来事が起きました。成長し、成人したイエス様と出会った人も、具体的な経験をしてきました。
貧しい人や嫌われた人が、イエス様と一緒に食事をする。誰にも触れてもらえないような病人が、イエス様に触れられて癒される。罪人と言われる人々が、イエス様の弟子に迎え入れられる……それらは今、その場で苦しみに捕われている人々を解放する、具体的な業でした。それは、今現在、私たちの間でも起きているのです。
【私が出会った救い】
学生の頃、私は神学部の授業の一環で、アドヴェントのメッセージを作るため、色んな人に「イエス様の救いって何だと思う?」と聞いてみました。すると、みんな最初は困った顔をして答えられないものの、だいたいの人が「自分にとっては、これが救いだった」という出来事を話し始めます。
Aさんは、家族や仕事を失い、悪いこと続きだった中、何もできない自分の姿を突きつけられました。もうあかん、もうどうにでもなれ……そう思っていたとき、「お前、牧師になったら」というひと言で、彼は生きる目的と希望を与えられます。突然襲ってきた不幸の中で、彼はそれが「救い」だったと語ります。
Bさんは、自分の本当の気持ちを誰にも話せず、常にみんなをだましていると感じていました。大切な人たちに、ずっと言えなかった秘密を話そうとしても、なかなか行動に踏み出せない自分を何度も見つめさせられました。そんな時、「お前はここに居ていい存在なんだ」と言ってくれる存在に出会います。彼は、それが「救い」だったと語ります。
Cさんは、間違いだらけで、怒られてばかりで、落ち込むとなかなか立ち上がれない自分を指摘され、さらに落ち込んでしまいます。身体も心も決して強くなく、常に疲れている自分の弱さを見つめさせられます。そんな時、「お前が弱くても疲れていても、一緒に居て楽しいんだ」と言ってくれる存在に出会います。彼はそれが「救い」だったと語ります。
これらの学生たちが語ってくれた「救い」は、誰しもに共通する救いではありません。しかし、どれも具体的な苦しみからの解放であり、神様に介入されたことを感じている出来事です。救いは、私たちの死後に訪れるものではなく、この世界で私たちが生きているときから、約束され、与えられ、訪れるものなのです。
今、私たちの間で起きている様々な問題は大変複雑で、「これらの問題はいつ解決するのか?」という問いに対して答えるものはありません。むしろ、「いつまでも現状は変わらず解決しないのではないか」という不安が確信となり、将来への期待や夢を持つこと、「はよ救って」と願うことさえ困難な状況です。
しかし聖書は、そんな私たちに、イエス・キリストが救いとして現れた現実を、思い出させてくれます。暗闇の中にいるはずの自分が、光に照らされてきた出来事を、思い出させてくれるのです。そして、イエス様が再びこの世にやってこられる日、待てないはずの救いを待つ力が、与えられているのです。共に、神の国と、イエス様の到来を求めて、祈りを合わせましょう。