聖書研究祈祷会 2018年12月5日
【怒涛の非難】
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」「ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ」……マタイによる福音書23章で繰り返される、律法学者とファリサイ派に対するイエス様の激しい批判は、あまりにもきつい言葉の連続で、私たちを戸惑わせます。この章だけで「不幸だ」という言葉が7回も繰り返され、「彼らを見習えばあなたも不幸になる」というような、不幸の手紙ばりに恐ろしい言葉が続くからです。
「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せる」「人々の前で天の国を閉ざす……自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」「改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまう」……もはや批判というよりも罵倒と言える響きです。普段優しいイメージのイエス様に、いったい何が起こったのでしょうか?
彼らを「偽善者」と決めつけ、「ものの見えない案内人」と罵る姿は、仲間や兄弟に「ばか」と言うことさえたしなめ、「敵を愛しなさい」と語った、イエス様自身の教えとも、一致していないように感じます。
また、イエス様は3節で、律法学者やファリサイ派の問題はその教えではなく、「言うだけで実行しない」ことだから、「彼らが言うことはすべて行い、また守りなさい」と語っていますが、イエス様自身はこの言葉を実行していません。イエス様は様々な場面で、彼らが守るよう求めた安息日の規定を破り、清めの規定も無視していたからです。
どうも、23章は全体として、イエス様の口から本当に出たものか疑わしく感じられます。事実、聖書学者の中には、ここをイエス様の発言に由来するものではなく、マタイによる福音書の著者が、自分の教会で対立関係にあったユダヤ教徒を意識して、まとめたものだと考える人もいます。
今となっては、結局どうなのか知ることはできませんが、確かに、ここは私たちをギョッとさせ、戸惑わせ、つまずかせる響きがあります。下手すれば、イエス様が悪者に見える、失礼で厄介な人に見えるところです。けれども、この激しい口調で語られた、律法学者とファリサイ派の人々への批判は、「イエス様らしくない」の一言で終わらせていいものでもありません。
むしろ、ここで批判されている彼らの姿は、私たちが見習いやすく、陥りやすい姿であることを、非常に容赦ない言い方で警告していると言うこともできます。特に、真面目で、敬虔で、人々へ熱心に教えようとする人こそ、その傾向に気をつけなければなりません。掟を忠実に守っているという模範を示したいがために、掟を拡大解釈し、細かな規定を勝手に設け、かえって本当に守るべき、掟の中心を忘れてしまうことがあるからです。
【躓きの中にあるもの】
以前、私があるキリスト教関係者の研修に参加していたとき、若手教職者の服装について話題になったことがありました。その中で、女性の伝道師、牧師が講壇に立つときは、同じスーツでもズボンのタイプだと「フォーマルに見えない」と年配の方々をつまずかせることがあるため、スカートのタイプを着用するよう勧められたシーンがありました。
確かに、教職者は礼拝に出席する人たちをつまずかせないよう配慮する誠実さが必要です。けれども本来は、女性がパンツスーツを履いたら「フォーマルじゃない」と感じてしまうつまずきこそ問題ではないかと思います。その人がズボンで講壇に立ったところで、何一つ身なりが乱れているわけではないのです。むしろ私は、みんなで女性の教職者にスカートを履かせようとする姿勢こそ、教会が世俗化している姿ではないかと思ったのです。
しかし、その場では教会員をなるべくつまずかせない、「フォーマル」と認めてもらえる服装こそ、教職者にふさわしい服装だと勧められ、他の参加者もみんな「そうですね」と同意していました。私は間違いなく反論するべきだったなと思いますが、他の参加者が頷いている中、異論を唱えることが怖くてできませんでした。
「女性の教職にスカートを履かせようとすることは間違ってないですか?」なんて言えば、一緒に研修へ参加している人たちを、ギョッとさせてしまうかもしれない。始めにそう言い出した人を攻撃することになるかもしれない。かえって自分の方が、教職者としてふさわしくない厄介な人物だと思われるかもしれない……そんな不安が一気におしよせ、私はこのことについて、最後まで黙ったまま研修を後にしました。
そんな過去を思い出しつつ、イエス様が、律法学者とファリサイ派の人々を容赦なく、激しく批判された出来事を読むと、やはり反省させられます。イエス様は、相手を攻撃したと思われないよう、「失礼だ」「厄介だ」と後ろ指を指されないよう、当たり障りなく語ることはなさいませんでした。
イエス様が人々を戸惑わせ、つまずかせる言葉の数々は、私たちの中にある問題を浮かび上がらせ、本当に守るべきこと、神様が求めていることは何かを考えさせてきます。特に、律法学者やファリサイ派のように、人々へ「教える」という立場にある人は、このことが見えなくなってしまいがちなのです。
【掟の拡大と無視】
最近でも、もともとは存在しなかったマナーを、新たに作り出してしまうマナー講師たちが話題になりました。「就活ではノックを3回するのが正しい」「上司の押し印が左にあるときは、自分の印鑑を斜めに押す必要がある」「とっくりは注ぎ口と反対側から注がなければ失礼に当たる」……
本来は、相手を気遣うための配慮が、あまりにも細かく拡大されてきました。そのせいで、かえってマナーを知らない人、マナーを守れない人を見つけ出し、批判する道具へと変貌しているときさえあります。律法学者とファリサイ派の人々に顕著だったのは、現代で言えばそのような問題でした。
イエス様は23節でこう言われます。「あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ」……おそらく、薄荷はミントのことだと分かると思いますが、「いのんど」というのは、香料や調味料に用いられる植物のことです。茴香も同じく植物の香料で、胃薬などに用いられます。
皆さんも、日常生活で使うミントやスパイス、胃薬の量は、基本的にちょっとだと思います。毎年、何キロも使っているよ! という人はそういないでしょう。ここから十分の一を献げる……つまり数グラム、ひとつまみ、ふたつまみの話です。どれだけ微妙で細かなことか、すぐ分かるでしょう。
本来、収入の十分の一を献げるよう人々に求められたのは、申命記14章22節〜23節やレビ記27章30節〜32節に記されている規定です。ここでは、主な収穫物である農作物や家畜の中から、神様に十分の一を献げるよう命じられています。しかし、律法学者やファリサイ派の人々は、掟の適用範囲を拡大し、ごく僅かしかない香料や薬草の中からも、十分の一を献げていました。
我々は、これだけ一生懸命掟を守っている。あなたはどうか? あなたたちは我々ほどきちんと掟を守れているか?……そのように迫ってしまう彼らの姿が見えてきます。一方で、これだけ細かく掟を守ろうとしていながら、律法の中心であり、人間関係の基本ともいうべき「正義、慈悲、誠実」に関しては、ないがしろにしていると言われます。
事実、彼らはイエス様に向かって、「安息日に仕事をしてはならないとあるのに、あなたは病人を癒して掟を破った」と非難し、苦しんでいる人の痛みには目を向けません。イエス様は、そんな彼らを「ものの見えない案内人」と呼び、「あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる」と皮肉を語ります。
ぶよは、レビ記11章20節で汚れた動物とされていたため、ぶどう酒を作る際は混入しないよう、注意深く漉されていました。その一方で、同じく汚れた動物とされていた大きな動物、らくだを飲み込んでいることに気づいていない、というとんでもない話です。
これは、マタイによる福音書7章で「人を裁くな」とイエス様が教えるときに話されたたとえ話と同じ内容です。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け……」
【排除から回復へ】
このように、掟を細かく拡大し、一生懸命守っているように見せながら、本当に必要な誠実さや愛を見失ってしまうことが、人間には多々あります。イエス様はそのような姿に気づくよう警告しつつ、さらに皮肉を重ねて、25節で彼らのことをこう言っています。
「杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちている」……当時、ファリサイ派の人々は、神様に仕える者は清らかであるべきだと考え、外からくる汚れに細心の注意を払っていました。つまり、彼らが用いる器や杯も、手に触れる外側だけ、見た目だけがきれいにされ、食べ物や飲み物を入れる内側の方は汚れていたという皮肉です。
実際、律法学者やファリサイ派が家の外へ出かけるときは、病人や死体に触れて、自分に汚れが移ることのないよう、それらをなるべく避けて通っていました。一旦、人から汚れを受けてしまうと、清めの期間が終わるまで、礼拝や祭儀に参加することが許されず、非常に肩身が狭かったからです。
確かに、汚れや清めの規定が記されたレビ記や申命記には、どのような状態が汚れているか、どのような状態を避けなければならないかが、非常に細かく定められています。しかし、そこで本当に重視されているのは、汚れた者を排除することよりも、むしろ、汚れた者が、礼拝共同体に回復されるための手順と確認の方法でした。
ところが、律法学者やファリサイ派は、仲間が共同体に回復されることよりも、自分が共同体から排除されないことを優先し、困っている人、苦しんでいる人に手を差し伸べないことが多くなっていました。イエス様は、そのような姿を「内側は偽善と不法で満ちている」と語ります。
ここで同じく、律法学者の一人から受けた質問に答えるイエス様のたとえ話、『善いサマリア人』の話が思い出されます。これは、ルカによる福音書10章25節〜37節に書かれており、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えるイエス様に対し、「わたしの隣人とはだれですか?」と尋ねた律法学者に、イエス様が答えたものです。
イエス様は、こんなたとえを話されます。ある人が追いはぎに襲われ、半殺しにされて道端に倒れていました。すると最初に、祭司が通りかかります。怪我人は血を流し、生きているのか死んでいるか分かりません。もし、死んでいるのに触れてしまったら、祭司は汚れたことになり、しばらく神殿で仕事ができなくなります。それでは困るためか、祭司はその人を見ると、駆け寄りもせず、道の向こう側を通って行きました。
すると次に、レビ人が通りかかります。レビ人も、祭司と同じく礼拝や祭儀に関わる仕事を行う人間です。彼も、倒れた人を見ると、汚れが移ることを心配したのか、道の向こう側を通って行ってしまいます。最後に、怪我人のもとへサマリア人が通りかかりました。サマリアは、外国人との混血が進んだ地域で、ユダヤ人にとっては汚れている人たちです。けれども、その人だけは倒れた人を助け起こし、宿屋に連れて行って介抱します。
「あなたはこの3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか?」イエス様から尋ね返され、律法学者はこう答えるしかありませんでした。「その人を助けた人です」……すると、イエス様も答え返します。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
【新しい生き方】
マタイによる福音書23章を読むとき、忘れてはならないのは、イエス様が彼ら律法学者やファリサイ派の人たちにも、変化を期待し、新しい生き方を求めたことです。イエス様は、貧しい者も病人も、罪人も娼婦も徴税人も、そのままの姿で愛されました。そのままの姿で愛されると同時に、愛する者が、新しい生き方になることを期待し、その変化を信じて導いてくれました。
あれだけ敵対した律法学者の中でさえ、イエス様から促され、新しい生き方の一歩を踏み出した、今までできなかった答えをした者がいるのです。私たちは何度も、律法学者やファリサイ派の姿勢に陥ります。「ものの見えない案内人」と、さして変わらない様子を見せてしまいます。
イエス様は、そんな私たちに粘り強く、本当に神様が求めている愛と誠実さを示し、自分が囚われているルールから解放する言葉をかけられます。「まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」……共に、今自分が囚われているもの、本当に守るべきものが何なのか、耳を澄ませていきましょう。