ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

多数の「正統派」vs 少数の「異端」?

2018年12月28日

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【できれば「異端」と言わないで……】

こんにちは、クリスマスが終わってやっと落ち着いてきたので、久しぶりに雑談を書こうと思います。ブログを初めてちょうど80記事目……あっという間ですね。

 

最近、キリスト教関係者の間で、いくつかの集団に対し、「異端」という言葉が使われているのをよく目にします。

 

その集団を批判する場合にも、擁護する場合にも使われているのですが、できればどちらの場合も「異端」という言葉を使ってほしくないな……と感じます。

 

なぜなら、「異端」という言葉は、自分を正しい立場に置かないと相手に使えない言葉であり、「カルト」と混同した使い方、受け取られ方をすると、色々厄介な話になるからです。

 

 

 

 

【「異端」も「正統」になる】

以前、自分たちの信じる「正統的」な教義に逸脱した教会を、まとめて「カルト」と呼んでしまうことが多い話をしました。(リンク参照 ↓ )

bokushiblog.hatenablog.com

 

それらは特定の宗教グループから見た「異端」であって、社会的被害を出した集団と同じような範疇で「カルト」と呼ぶべきではないことも話しました。

 

キリスト教も当初はユダヤ教から見た「異端」でしたし、プロテスタント教会もカトリック教会から出た「異端」だったからです。「異端」は時代の移り変わりと共に、「正統」なグループの一つとして認められることがあるわけです。

 

したがって、多数の正統派グループが少数の異端的グループを批判するとき、「異端だからと言って悪者扱いすべきではない」という思いから、それらの批判者に対して慎重になるよう促されることがあります。

 

確かにそうだなと思います。そもそも、「異端」という言葉を使用すること自体、多数派の力に違和感なく乗っかっていく姿勢になるので、避けるべきことでしょう。

 

ただし、「異端」として批判されているグループを庇うとき、本当にその批判が「異端かどうか」という点だけで発信されているものか、注意する必要があります。

 

【「異端かどうか」と「カルトかどうか」】

もしも、「正統な教義から外れた異端である」という理由だけで、過度なバッシングや中傷がなされているのであれば、それを止めるのは必要なことでしょう。「異端」に対するキリスト教会の歴史的な誤ちは、反省すべきものが多いからです。

 

しかし、批判されているグループが「何かしらの被害を出した」という点でバッシングを受けているのであれば、「異端かどうか」はさて置いて、「破壊的カルトかどうか」を慎重に検討し、対応しなければなりません。

 

「異端だからと言って悪者扱いすべきではない」という誠実な姿勢が、「破壊的カルトの擁護」に利用されてしまう恐れがあるからです。

 

厄介なことに、「異端かどうか」は正統派の教義・教理と照らし合わせて、比較的すぐに判断できますが、「破壊的カルトかどうか」はすぐに判断できません。

 

ブラック企業やブラックバイトのように、破壊的要素はあらゆる集団が抱えており、巧妙に隠されています。表に出てくるのは「優しく」「誠実で」「真剣な」人たちが働く組織の姿であり、「利用され」「傷つき」「排除される」人たちの姿は見えません。

 

その集団が表に出している教義・教理で判断できる「異端」と違って、その集団が隠そうとする「被害」や「訴え」で「破壊的カルト」は判断しなければならないのです。そして、被害を受けたと訴え出る人間は、さらに「少数派」なのです。

 

「異端だけどカルトじゃない教会」への攻撃と「被害が訴えられている教会」への批判を、同列で扱ってはいけません。少数派に対する多数派の暴力と同じく、個人に対する集団の暴力も、避けるべき問題だからです。

 

【強者が弱者を圧迫しないために】

実際に、集団による殺害が起きてしまったグループ、長期にわたって身体的・精神的・経済的被害を出してしまったグループのことが「異端」として処理されるとき、「多数派が少数のグループに圧力をかけるべきでない」としばしば語られます。

 

しかし、少数のグループの中で、さらに小さな者が傷つけられ、黙らされ、隠されているという訴えがあるときは、その訴えを蔑ろにせず、慎重に検討すべきだと思います。

 

多数派から少数派を守ろうとしたのに、結果的に集団から個人を守らない選択になることがあるからです。

 

また、現在「正統派」とされている教会が、かつて「異端」だったときに持っていた熱狂的な姿勢や行為も、無批判に受け入れるべきではないと思います。

 

教会が成長するために無我夢中でやっていたこと、熱心に伝道していた方法の中には、問題のある内容もたくさんありました。今、「正統派」だからと言って、それらの方法を承認していいわけではないのです。

 

何が正しく、何が間違っているのか、色々と判断が難しい時代になりました。強者が弱者を圧迫しないために、様々な観点から考えなければならなくなりました。しかし、一つ一つの過程をすっ飛ばさないで、誠実に判断していきたいなと思います。

 

 

*破壊的カルトについては、以下のリンクにもう少し詳しい記事を書いています。

bokushiblog.hatenablog.com

bokushiblog.hatenablog.com