ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『閉じ込められたら』 ヨシュア記3:1〜13、ルカによる福音書3:15〜22

礼拝メッセージ 2019年1月6日        

f:id:bokushiblog:20190106153624j:plain

【新しいスタート】

 「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え!」……力強い招詞と共に、今日の礼拝が始まりました。新年おめでとうございます。2019年最初の日曜礼拝は聞いてのとおり、新しい始まり、新しいスタートがテーマです。皆さんと交互に読んだ詩編では、世界を創造した神様が「地の面を新たにされる」という言葉で締めくくられました。新しいことが始まる予感を与えてくれます。

 

 旧約の朗読で読まれたヨシュア記でも、イスラエルの指導者であったモーセが亡くなり、ヨシュアが後継者となった、新しい時代の始まりが描かれていました。今年最初の礼拝に訪れた私たちにとって、新しいスタートを思わせる、新年にふさわしい聖書箇所です。ところが、続けて読まれたルカによる福音書では、洗礼者ヨハネが投獄されるという残念な出来事が載っていました。

 

 新年早々、悪いニュースです。今聞くべき話とは思えません。この前のクリスマスに洗礼を受けた人もいます。初めて教会に来てくれた人もいます。みんな、これから新しい時代に向けて羽ばたこうとしています。それなのに、この日に当たっている聖書箇所で、洗礼者が閉じ込められるなんて、何とも縁起の悪い話です。

 

【メシアと勘違いされる】

 ヨハネを牢に閉じ込めたヘロデ・アンティパス……彼は、生まれてすぐのイエス様を殺そうとしたヘロデ王とは別の人物です。当時、ガリラヤの領主をしており、自分の姪にあたるヘロディアと結婚をしていました。叔父と姪が結婚することは、現代も法的に許されていませんが、イスラエルでも律法で禁じられている行為でした。しかし、ヘロデは自らの地位を利用して、強引にそれを成立させたようです。

 

 どうやら、他にもたくさん不法を働いていたようでした。彼は、あらゆる悪事をヨハネに責められます。当然、怒りを買ったヨハネは、時の権力者によって牢に捕えられてしまいました。私たちがこの後期待するのは、ヨハネが再び解放され、新しく人生を歩み始めるというストーリーです。しかし、彼が釈放されることはありません。9章9節で「わたしが首をはねた」というヘロデの言葉によって、彼の死があっさり告げられて終わります。

 

 これをどう考えたら良いのでしょうか? ヨハネに従って洗礼を受けた人たちも、きっと戸惑わずにはいられなかったでしょう。彼は、力強く人々に悔い改めの洗礼を勧めてきました。時の権力者にほとんどの人が逆らえなかった時代、ヨハネは誰に対しても、ためらわず悪事を批判し、神様に立ち返るよう命じました。その大胆さに多くの群衆が引き寄せられ、彼から洗礼を受けたいと集まってきました。

 

 一般的なユダヤ人だけでなく、ローマ帝国のために税金を集めていた徴税人、ユダヤ人を監視する立場であった兵士まで、ヨハネの教えを受けに来ました。みんな「もしかしたらヨハネこそが、救い主メシアではないか」と心の中で考えました。けれども、ヨハネ自身はそれを否定します。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」

 

 ようするに、自分は後から来られる救い主の奴隷にさえ、ふさわしくない存在だと言うのです。いやいや、そこまで謙遜しなくても……と言いたくなりますが、この発言から間もなくして、彼は物理的に奴隷以下の者、囚人としての扱いを受けるようになります。救い主だと思っていた人物が囚人になってしまった……新しい時代をもたらしてくれると思っていた人が閉じ込められてしまった。

 

 新しいスタートを切るどころではありません。むしろ、結局何も始まらないという無力感、虚無感が襲ってきます。人々は、しばらく呆然と佇んだ後、散り散りに去っていくことでしょう。悪事と不法に身を委ねた、元の生活に帰っていくことでしょう……いえ、そうはなりませんでした。洗礼者が閉じ込められ、メシアだと思っていた人物が終わりを迎えたにもかかわらず、洗礼を受けたいと願った人々は、去らなかったのです。

 

【一緒に洗礼を受ける主】

 ルカによる福音書では、ヨハネが牢に閉じ込められた後、イエス様が洗礼を受けた話が続いています。あれ、おかしいな? と思った人もいるでしょう。同じ話が記されたマルコによる福音書とマタイによる福音書では、ヨハネは自分が捕えられる前に、イエス様へ洗礼を授けているからです。しかし、ここでは順序が逆になっています。まるで、洗礼者が不在のときに、イエス様が洗礼を受けたかのように聞こえてきます。

 

 こっちは時系列がバラバラなのかな……と感じるかもしれませんが、この書物はもともと「順序正しく」書くことを目的に作られたものでした。わりと物語の順番には気を配っているわけです。つまり、ヨハネが捕えられた後、イエス様が洗礼を受けたという記述からも、重要なメッセージが見えてくるのです。それは、洗礼者ヨハネが閉じ込められ、終わってしまったかに見えた悔い改めの洗礼は、決して終わらなかったという話です。

 

 21節によれば、ヨハネが捕えられた後も、民衆は皆どこかで洗礼を受けていました。もちろんヨハネがいないので、彼の弟子たちが授けたか、見よう見まねでやっていた人たちがいたのでしょう。人々はメシアだと思っていたヨハネが不在の中、落胆しつつ、罪を悔い改めようと集まってきました。本来なら、ヨハネがいなくなったのですから、集まる人たちもいなくなるのが普通でした。もう悔い改めを迫る指導者はいなくなったからです。

 

 ところが、人々の中には続けて、悔い改めを迫る気持ちが起こされていました。牢に閉じ込められたヨハネの言葉は、人々の中に記憶され、語り伝えられ、一人一人の胸を打ち続けていたのです。さらに、指導者を失った人々が、心細い思いで洗礼を受ける中、一緒に洗礼を受け、祈っている人がいました。それが、ヨハネの後に来ると言われていた、救い主イエス様でした。

 

 あまりにも静かな登場です。イエス様は全く目立つことなく、人々の中に入ってきます。民衆は、自分たちと一緒に洗礼を受けているこの人が、まさかメシアだとは思いません。救い主は当然、悔い改めを迫る存在であって、一緒に悔い改めの祈りをしてくれる存在だとは、思いもよらなかったからです。民衆はヨハネがいなくなって、メシアだと期待する人物を失いましたが、気づかないうちに、本当のメシアと一緒に過ごしていました。

 

 新しい時代が訪れていました。まだ誰も気づいていませんでしたが、無力と虚無、落胆と絶望の中にあった人々のもとへ、救い主は静かにやって来たのです。一緒に悩み、一緒に苦しみ、一緒に祈り、一緒に悔い改める……この方の到来を預言した言葉は、確かに成就したのです。

 

【共にいる主】

 ヨハネはイエス様についてこう語っていました。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」……「聖霊と火」は「風と火」とも訳すことができます。どちらも、神様が人前に現れるときに伴った現象です。かつて、エジプトの奴隷だったイスラエルの民が敵に追い詰められたとき、風によって目の前の海に道ができたこと。その後、昼は雲の柱で、夜は火の柱で、神様が行くべき道を示してくださったことが思い出されます。

 

 神様は人々が危機に陥ったとき、いつも共にいてくれました。モーセの死後、心細い思いで後継者になったヨシュアにも、「わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、すべての者に知らせる」と言ってくださいました。イエス様も、人々の虚無と絶望を吹き飛ばす「風」として、行くべき道を指し示す「炎」として、共にいてくださいます。

 

 ヨハネが牢に閉じ込められた出来事は、一見「ああ終わった」という印象を私たちに与えました。実際、私たちだって、何かの事情で牢に閉じ込められたら……家に閉じ込められたら……病院に閉じ込められたら……施設に閉じ込められた……社会的にも精神的にも「ああ終わった」という気分になります。何かが始まる、新しくなる希望なんて持てなくなります。

 

 しかし、ヨハネの投獄は、単に彼の人生に終わりを告げるものとはありませんでした。むしろ、彼自身の待ち望んでいたイエス様が、これから受ける十字架の苦しみを先取りするものとなりました。さらに、ヨハネが先取りしたイエス様の十字架と死も、絶望で終わることはありませんでした。イエス様は三日目に復活し、自分を信じる者たちも、終わりの日に復活することを宣言されたからです。

 

 イエス様と出会った弟子たちも、皆閉じ込められた状況の中で、新しく羽ばたく経験をしてきました。イエス様が十字架にかけられた後、恐怖から家に閉じこめられていた弟子たちは、その部屋の真ん中で復活の主と出会いました。イエス様が天に昇っていなくなった後、やはりどうしたらいいか分からず、部屋に閉じこめられていた彼らは、家全体を震わす風と共に、聖霊が炎のような舌となって、自分たちに降ってくるのを目撃しました。

 

 閉じ込められたら、終わりではないのです。今、新年のスタートを切ろうとするとき、大きな困難や壁にぶちあたり、どこへも出ていけないような状況に、あなたが陥っていたとしても、イエス様はやって来ます。共に悩み、共に悔やみ、共に祈り、共に出ていくイエス様が、いてくれます。たとえそのとき、私たちが気づかなかったとしても……。

 

【主の食卓】

 今日はこの後、キリストの十字架と復活を記念する聖餐式を行います。聖餐式は、洗礼を受けた信仰者が、信仰者であり続けるための式であり、共にいてくださるイエス様を思い起こす儀式です。最初の方で、主の食卓への招きとしてこんな言葉が読まれます。「復活の主は弟子たちと食事の席に着いたとき、パンを取り、祝福してそれを割き、お渡しになった。すると、弟子たちの目が開かれ、それがイエスだと分かった……」

 

 イエス様は、人々と一緒に洗礼を受けたときも、復活して弟子たちとエマオの途上を歩いたときも、一緒にいる人たちに気づいてもらえませんでした。気づいてもらえませんでしたが、確かにそこにいてくださいました。聖餐式は、そんなイエス様が、共にいてくださることを気づかせた、あの食事の席を思い出すときでもあります。

 

 この場には、洗礼を受けた方も、受けていない方もおられます。パンとぶどう液が配られるとき、受け取る方と、待っている方とがおられます。どちらも、イエス様の招きを受けています。「わたしはあなたと共にいる」と言われています。パンとぶどう液を受け取った方は、待っている方のために、どうぞ祈りを合わせてください。待っている方は、イエス様の招きに耳を澄ませてください。

 

 聖霊が、皆さん一人一人に注がれて、イエス様の祝福と恵みを受け取ることができますように。