ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『離れてほしい、来てほしい』 ルカによる福音書5:1〜11、使徒言行録16:11〜15

2019年1月13日

f:id:bokushiblog:20190113133802j:plain

 

【近づいてほしくない】

 何でこんなときに! というタイミングでやって来る人って、ときどきいますよね。ちょうど穴あきの靴下を履いてきてしまった日に、自分の両親と出会う。全身汗だくで服の上から塩が噴いてしまった日に、憧れの恩師が訪ねて来る。そんなふうに、ちょっと今はやめて……というタイミングで、やって来てしまう人。

 

 それくらいならまだかわいいですが、深刻な過ちを犯して人に怒られているとき、何かに腹を立てて怒りが治らないとき、頼むから、今は来ないで離れていてほしい……そういう時に限って自分のもとを訪れ、見せたくないところを見せてしまう相手がいるのです。皆さんも誰かしら思い出す人がいるでしょう。

 

 聖書の中にも、そういう厄介な方が出て来ます。こちらが近づいてほしくないときにわざわざやって来て、「ちょっと頼みたいことがあるんだけど」と声をかけてくる。「いや〜今は見てのとおり都合が悪いもので」と断っても、「まあまあ、私がいるから大丈夫、心配するな」と聞く耳持ってくれない方。厄介なことに、それが私たちの信じるイエス・キリスト、ご自分の独り子をこの世に送った神様なんですよね。

 

 今日は聖書朗読でも聞いたとおり、イエス様が最初に選ばれた弟子たちの話です。彼らの中心的存在となるペトロが、イエス様から「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と宣言された箇所。非常にドラマティックな話です。全てを捨ててイエス様について行った弟子たち、彼らのように、私たちも主の呼びかけにすぐさま答え、従うように……そんなメッセージが語られてきたところですが、今日はちょっと違います。

 

 むしろ、このドラマティックな場面こそが、弟子たちにとって最もバツの悪い、情けない思い出でもあった……そんな話を今からします。なにせ、このイエス様というお方は、こちらが近づいてほしくないときに、今は離れていてほしいと思うときに、ことごとく迫って来る方だからです。

 

【突然の訪問者】

 実は、イエス様がガリラヤで伝道を始めてから弟子たちをとるまでの間、けっこう色んなエピソードがありました。人々から尊敬されたり憤慨されたり、歓迎されたり追い出されたり、なかなか忙しい方です。

 

 ある時には、突然ナザレの会堂へ来て、恵み深い聖書の言葉を語り聞かせ、人々を大いに驚かせました。そうかと思えば、「ユダヤ人なら当然救われると思うな。むしろ、救われるはずがないと思われている外国人を神様は救ってきたじゃないか」と言って、人々から反感を買い、殺されかけてしまいます。

 

 また別の時には、他の町で男に取り憑いていた悪霊を追い出し、噂が一気に広まったこともありました。何というか、非常に人騒がせな方でした。人々は混乱していたはずです。この人は私たちの敵なのか味方なのか、ついていって大丈夫なのかやばい奴なのか……そんなときに、ペトロとイエス様のファースト・コンタクトが訪れます。今日の箇所より少し前、38節からの出来事です。

 

 「イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった」……シモン・ペトロの名前は、ここで初めて出てきます。もちろんまだ、イエス様の弟子ではありません。イエス様がなぜ、急に彼の家を訪れたのか、理解するのは困難です。どこかでペトロと出会い、食事の約束でもしていたのでしょうか? いえいえ、そんなはずはありません。ペトロの家では、彼の姑が高熱を出して寝込んでいました。

 

 今と違って医療技術が確立されていない時代、高熱が出るという時点で、いつ死んでもおかしくない状況です。危篤の姑がいる自分の家で、食事の約束なんてするわけがありません。むしろこんなときに、会堂を追い出されたり、悪霊を追い出したり、あちこちで騒ぎを起こしていた人物がやって来るなんて、ちょっと勘弁してほしいところです。様々な噂を聞いて、ついてきた大勢の群衆たちもいるわけですから。

 

 「イエス様、こんなときに家に来ないでくださいよ」……彼の正直な思いはこうではなかったでしょうか? ペトロは突然の訪問者に、自分から家族を癒してくれとは頼めません。そんな気持ちも起きません。ところが、一緒にいた人々は、彼の姑を癒してくださいとイエス様に頼みます。単に奇跡が見たかったのか、あるいは本気で彼女のためにそう願ったのか分かりませんが、いずれにせよ、彼の姑を癒してほしいと頼んだのは、ペトロ本人ではありませんでした。

 

 すると、イエス様は彼女の枕元に立ち、熱を叱りつけ、その場で癒してしまいます。彼女はあっという間に元気になり、すぐに起き上がって一同をもてなし始めました。ペトロはびっくりしたでしょう。都合の悪いときにやって来た訪問者、近づいてほしくないと思っていた人物が、自分の家族を救ってくれたわけですから。けれどもまだ、彼の中には、イエス様について行こうという気持ちはありませんでした。

 

【2度目の訪問】

 当然です。結婚して家族もいるし、仕事もあるし、何だかバツも悪いですし……ところが、間もなく2回目の出会いがやって来ました。それが、今日皆さんと読んだ聖書箇所です。この時、自分のもとへイエス様が近づいてきたときも、ペトロにとって、決して都合の良いタイミングではありませんでした。なにせ仕事の真最中、夜通し漁を続けて、一匹も魚が取れなかったというイライラがマックスに達しているときです。

 

 いったい魚はどこへ行っちまったんだ……そう思っているところへ、うるさい群衆たちを連れたイエス様がやって来ます。ああ、ますます魚が逃げてしまう……ため息をついて見ていると、あろうことかイエス様は自分の持ち舟に上がり込んで「岸から少し漕ぎ出してくれ」と頼むのです。以前、しゅうとめを癒してもらった手前、嫌とは言いにくい状況です。

 

 彼はしぶしぶ舟を漕ぎ出します。まあ、ここまでは何とか我慢できるでしょう。恩もあるし、どうせ漁を続けても魚は取れないだろうし……けれども、イエス様はさらにペトロと距離を詰め、神経を逆なでするようなことを言ってきます。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」

 

 いやいやイエス様、あなた漁に関しては素人でしょう? プロの私に指示するのですか? しかも、こっちが夜通し苦労して一匹も魚が釣れなかったというのに! 自分の言うとおりにすれば魚がとれるとでも? いくらあなたでも、ちょっと失礼でしょう。まあお言葉ですから、網を降ろしますよ。

 

 ところが、イエス様の言うとおりにすると、おいおい嘘だろ……という展開が続きます。なんと、網を降ろした瞬間、大量の魚がかかってしまったのです。今は近づかないでほしいと思っていた相手から、2度も奇跡を起こされ、助けられてしまいました。バツの悪いことこの上ない話です。この方に気安く近寄れないのは、むしろ自分の方だった。自分こそ、愚かで何もわかっていなかった。

 

 ペトロは叫ばずにいられません。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです!」……彼の言葉に、共感する思い出を私自身も持っています。今週の火曜日、午後8時31分、私の祖父が亡くなりました。実は、一昨年の段階で一度心臓が止まって、意識不明の危篤状態に陥っていました。もともと心臓が弱く、血管もボロボロになっていたので、どれだけ祈っても、起き上がることはないだろうと思っていました。

 

 私たち家族は、「意識はないけれど、お爺ちゃんが死ぬ前に病床洗礼を授けてもらおう」と話し合い、近くの牧師を呼んで洗礼を授けてもらいました。病室には牧師ともう一人しか立ち会えなかったので、家族の中で私だけが立ち会いました。「神様、とうとう意識があるときに、自分で信仰を告白できるときに、お爺ちゃんを教会につなげてはくれませんでしたね」……こっそり恨み言を心の中で呟きました。

 

 それから数日して、祖父の心臓から機械が外れました……自分の力で心臓が動くようになったのです。意識が戻り、起き上がって、その足で教会に行けるようになりました。お婆ちゃんと2人で教会に行き、自分の口で信仰を告白したのです。この世から去る前に、ちゃんと神様につながって、教会から送り出すことができました。

 

 葬儀でそのことを思い出しながら、嬉しい気持ちと共に、バツの悪い思いもしていました。イエス様は家族を癒してくれる、あり得ない回復をもたらしてくれる、そう信じきれなかった私を見透かすように、神様は奇跡を起こされました。

 

 「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」……この言葉は、ペトロの言葉であると共に、私の言葉でもありました。けれども、イエス様はペトロから離れません。私から遠のくこともありません。むしろこう命じます。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

 

 同じ言葉を、皆さんもかけられたはずです。あるいは、これからかけられるのでしょう。この方は、私たちの都合や拒絶なんて御構いなしに、どんどん近づいて来る方ですから。

 

【復活の主に近づく】

 実は、ペトロがイエス様に従ったときの出来事は、イエス様が復活した後、漁をしている弟子たちの前に現れた話と非常によく似ています。ヨハネによる福音書21章では、一晩中何も釣れなかった弟子たちが、岸にいた何者かに突然、「舟の右側に網を打ちなさい」と言われます。彼らがそのとおりにすると、舟に引き上げられないほど大量の魚がかかりました。その瞬間、弟子たちは気がつきます。「あれは私たちの主、イエス様だ」と。

 

 しかし、明け方まで漁をしていた彼らは、裸同然の格好です。全身ずぶ濡れで、ベタベタで、お世辞にも綺麗とは言えません。思わず「こんな有様、イエス様には見せられない」と叫びたくなる、恥ずかしい姿だったに違いありません。できれば、きちっと身なりを整えるまで、イエス様には近づきたくなかったでしょう。ペトロは再び、「主よ、わたしから離れてください」「ちょっと待っていてください」と言うはずです。

 

 けれども、彼の口から「離れてほしい」という言葉は出てきませんでした。むしろ、ペトロは自分から湖に飛び込んで、イエス様の方へ近づいていきます。裸の上に、ずぶ濡れの上着をまとった、変質者でもうろたえてしまいそうなヤバい格好……その彼が、ためらわずイエス様に近づいたのです。

 

 以前の彼ならあり得ないことでした。罪深い者、汚れた者、信仰の薄い者……その自覚がありながら、彼はイエス様のもとへ近づきました。復活の主は、自分のもとへ近づけなかった者を、自ら近づけさせてしまう力を持ったお方でした。

 

 後から読んだ使徒言行録で、フィリピで最初にパウロの弟子となった女性、リディアの話も、復活したイエス様と出会った2人の弟子たちを思い出させます。彼女は、パウロからイエス様の話を聞いた後、無理を言って彼を自分の家に泊めました。似たような話が、ルカによる福音書24章13節から記されています。それはちょうど、イエス様が十字架にかかって三日目に、墓から遺体がなくなったことをみんなが知った後のことです。

 

 最初に墓を見に行った女性たちは、「自分たちに天使が現れ、『イエスは生きておられる』と告げたんだ」と訴えました。しかし、男性たちはたわごとだと思って信じません。けれども、実際にペトロが墓へ行って確かめてみると、彼女たちの言うとおり、イエス様の遺体はなくなっていたのです。本当にイエス様は生きているのか、それとも誰かが遺体を隠しただけなのか、誰もが気になったことでしょう。

 

 エマオという村へ行く途中だった2人の弟子も、この出来事について論じ合っていました。おそらく、犯罪人として処刑されたイエスの弟子だという理由で、自分たちも捕まるのを恐れ、なるべく遠い村へ行って身を隠そうとしていたのでしょう。すると、突然誰かが近づいて来て、話をしている2人の間に割って入ります。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか?」

 

 身を隠すために移動しているとき、普通なら誰にも会いたくありません。ましてや、自分たちがエルサレムから逃げ出すきっかけとなったデリケートな話題です。いきなり第三者が割って入って来たら、「いえ、別に何でもありませんよ」と、お茶を濁して距離を取るのが安全なはず。けれども、彼ら2人はあろうことか、この正体不明の怪しい人物に、馬鹿正直に話してしまうのです。

 

 「ナザレのイエスのことです……わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」冷静に考えれば、「我々は処刑された犯罪者に従っていた仲間なのだ」という告白に等しい話です。わざわざ自分たちから暴露する話ではありません。他のユダヤ人に密告されるかもしれないのです。一刻も早く、致命的な情報を漏らしてしまったこの相手から離れ、身を隠さなければなりません。

 

 にもかかわらず、彼らはこの人と夢中で話を続け、自分たちと一緒に泊まってほしいと言うのです。もはや、身の危険を感じて、エルサレムから逃げ出したことなど忘れていました。以前の2人ならあり得ないことでした。やがて、一緒に食事をするため、この人が賛美の祈りを唱えてパンを裂いたとき、2人はハッと気がつきます。「この人は十字架にかかったはずの、あのイエス様だ」と。

 

 その瞬間、イエス様の姿はまた見えなくなりました。残された彼らは、時を移さず、そこを出発しました。エマオへ逃げるためではありません。自分たちが逃げ出したエルサレムへ戻って、他の弟子たちと合流するためです。復活の主は、恐怖と困難に立ち向かえない者を、自ら立ち向かう者へ変えてしまうお方でした。

 

【舟から上がる】

 離れてほしい、来てほしい……救い主であるイエス様に対して、私たちは矛盾する2つの感情を持っています。それは、最初にイエス様の弟子となったペトロたちも同じでした。私が今近づくわけにはいかない。こんなにバツが悪く、不信仰な状況で、あの方についていくなんてとてもできない! けれども、イエス様はそんな私たちのことを見透かした上で、こう言われます。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

 

 直接的には、イエス様にひれ伏したペトロに言われた言葉でした。しかし、その場にいた漁師たち、ヨハネ、ヤコブ、アンデレも一緒に、すぐさま舟を陸に引き上げて、イエス様の弟子となりました。イエス様の言葉は、ペトロに語られるとき、そこにいた一人一人にも語られていました。あなたにも、この言葉が語られています。「恐れることはない。あなたは人間をとる漁師になる。」

 

 だから、私たちも舟から上がって、イエス様についていきましょう。自分からこの方に近づけなかったあなた自身が、自ら近づく者に変えられます。平和のうちに、出て行きましょう。