ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『資格ないんですけど?』 テモテへの手紙一3:1b〜13

聖書研究祈祷会 2019年1月16日

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【そんな役職無理】

 「監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません」……これを聞いて、「よし、私は監督とかいう奴になれるぞ!」と思った人はどれだけいるでしょうか? 「私にぴったりな役割だ!」と感じた人がどれだけいるでしょうか?

 

 牧師でも「非のうちどころがない」なんて称される人間、なかなかいません。私の場合、結婚していないので、一人の妻の夫でもありません。このところよく、「いい加減自炊しないとなぁ」と私が漏らしているのを耳にする人が多いように、節制した生活を送れているとも言い難い状況です。どうやら、この教会の牧師である私は、監督とやらになれません。

 

 皆さんはどうでしょうか? 監督が何かはよく分からないけど、とりあえず自分には荷が重そうだと考えた人が大半ではないでしょうか? 「酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず」……これについては、何人か当てはまりそうな人間が私にも思い浮かびます。

 

 穏やかで大人しく、ガッツかないタイプのまじめな人間……外面上は、たぶん私も、そう思われやすいうちの一人でしょう。こっちは何とかなりそうです。けれども、後に続く言葉が一気にハードルを高くします。

 

 「自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません」……ほぼほぼ皆さん、自分は除外されたと思ったでしょう。家庭をよく治めるって、世界平和を実現するくらい難しいことです。これをできているなんて言う人、なかなかいません。

 

 私の両親だって言わないでしょう。皆さんも無理でしょう。できているなら、私たちの教会には、私たちが連れてきた子どもや家族、みんなが一緒に集まっているでしょうから。私が水曜の朝、聖書の話を教えている幼稚園の子どもたち、彼らも喜んで、教会学校に集まって来るはずです。しかし、現実は違います。

 

 シュンっとなってしまった私たちに、トドメを刺すような言葉がかけられます。「自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか?」……テモテへの手紙を書いた人物は、相当容赦ない人です。どうやら、うちの教会では誰一人、監督とやらになれません。

 

【監督って何?】

 そもそも、監督っていったい何なのでしょうか? 実は、冒頭に出てくる「監督の職」という言葉は、本来、キリスト教の役職に限定されません。ギリシャ社会では一般に、監督者、管理者、管財人などを意味し、市政や祭事における職名ともなっていました。ようするに、リーダーシップをとる役職全般を意味していたのです。

 

 ただし、2節から出てくる「監督」という言葉は、これとは別の単語が使われています。キリスト教会で、ある程度かたまりつつあった役職名です。後から言及されるようになった「長老」と同じ種類の役職だろうと言われ、教会の会計、その他の実務ばかりか、外部に対しては教会を代表し、信徒一人一人に対する教育も担っていました。

 

 ちょっと乱暴に言ってみれば、代表役員たる牧師を含んだ責任役員メンバーと言うことができるかもしれません。うちの教会では、総会で選ばれた教会役員の中から責任役員が選ばれますが、こんな厳しいこと言われたら……誰もやらなくなりますよね。勘弁してほしいところです。

 

 ただでさえ、役員の職務を重荷に感じている人が多い中、「こうでなければならない」「ああでなければならない」と列挙されたら、「私はその条件を満たしていないので、責任役員になるのは遠慮させてもらいます」と言い出す人が後を絶たなくなるでしょう。この手紙の著者はちょっとうっかりしているのではないでしょうか? 教会が運営できなくなってしまいます。

 

 ここで少し、手紙が書かれた当時の状況を思い浮かべたいと思うのです。今現在、日本にある多くの教会では、自ら進んで、責任ある役職に就こうとする信徒はほとんどいません。少なくとも私の知る限り……だいたいの人が、役員になることも、責任役員になることも、何かの委員会のリーダーになることも嫌がります。私には無理、あの人の方が……と押し付け合います。

 

 しかし、初代教会はだいぶ異なる状況でした。むしろ、監督になりたい、長老になりたい! と言い出す人が、後を絶たなかったようなのです。それどころか、奉仕者になりたい! と言い出す人もけっこういたらしく、その中からふさわしい人物を審査し、一部の人だけが選ばれたようでした。

 

 8節にはこうあります。「奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません!」

 

 気がついた人もいるでしょう。これらの言葉は確かに厳しいものですが、前半は常識的な道徳、一般的な徳目に過ぎませんでした。学校の先生、警察官、裁判官や政治家だって、理想的にはこういう人が求められますよね?

 

【奉仕者って何?】

 ちなみに「奉仕者」というのは「給仕する者」という意味で、監督を補助する者として、貧しい人や病人のため、様々な世話を担った人たちです。日本語では、後に「執事」と呼ばれる役職名になり、教会役員に関係する話として、よくこの箇所から研修が行われたりします。そしてたいてい、執事や役員に選ばれた人はバツが悪くなります。

 

 「俺、けっこう大酒飲みだよなぁ……」「私、二枚舌と言われたら否定できないな……」やっぱり役員になるべきじゃなかったと感じ、その場で辞退したくなる人もいるでしょう。そうしてますます、責任ある役職に就こうとする人が減っていきます。

 

 今だったら、そもそも役員になる人が不足しているので、「私やりますよ」なんて立候補する人がいたら、いちいち審査するよりも、「どうぞ、どうぞ」と喜んでお願いしたいところです。それこそ、よっぽど問題ある人物でもない限り。しかし、テモテへの手紙を書いた人物は、現代の教会に宛てて新しく手紙を書いたとしても、たぶん同じように言ったと思うのです。

 

 「この人々もまず審査を受けるべきです。その上で、非難される点がなければ、奉仕者の務めに就かせなさい」と……一見、奉仕者になる人間だけが厳しい目で見られているように感じますが、実は逆です。その人を奉仕者の務めに就かせる教会員、信徒一人一人に対して、むしろ責任が問われているのです。

 

 実際、ここに書かれている条件を厳密に当てはめようとすれば、当時の教会でも誰一人、監督や奉仕者になれる資格を持つ者はいなかったでしょう。自分の家庭をよく治めた者は、旧約に出てくる王や預言者、英雄の中でさえ、ほぼいません。ダビデ王の息子は謀反を起こし、サムエルの子どもたちは好き放題遊び、神様に忠実だった王の子どもたちは、だいたい親に反発して真逆の道を選びます。

 

 「神と共に歩んだ」と言われる人たちでさえ、その有様です。迫害の最中、キリスト教と似て非なる教えが広まり、簡単に振り回されていた初代教会も、この条件をいちいち満たせたはずがないのです。だからこそ、監督や奉仕者に就く者を審査した人、選出した人たちは気づいたはずです。

 

 「この人を選出したからには、この人を役職に就かせたからには、みんなでその責任を負わなければならない」と……審査して「よし」とした以上、「あの人に任せたからいい」「この人がやってくれるからいい」では済まされないと……なにせ、手紙の著者に「逆らって」、条件に当てはまらない人物を選んだのは、自分たちなのですから。

 

 自分たちが審査した人が、負担に耐えられず、潰れてしまうようなことがあれば、間違いを犯してしまうことがあれば、その責任は、彼や彼女を役職に就かせる判断をした、自分自身に問われるのです。本来は条件に満たないと分かっている人物を、奉仕者や監督の職務に就かせるということは、その人に対する責任を選んだ自分たちが負うということです。

 

 役員会の中で責任役員を選出することは、その人を任命する責任を、役員全体で負うということ。総会で役員を選出することは、信徒全員がその選択に責任を持つということです。審査を行う人間は、審査を受ける人以上に、厳しくこれからの態度・行動を問われます。あなたはこの人を審査し、選んだ責任を、ちゃんと果たしているのかと!

 

【執り成しの使命】

 教会の中に留まらず、私たちはあらゆる場において、指導者を審査し、選出することの責任について、他人事のような態度を取っています。政治においても、「他に選べる人がいなかったから」という理由で誰かを選び、仕方のない選択として通します。たとえ、悪い噂や過去の暴挙が暴かれている政治家であっても、その人を選んだ自分に、大きな責任があるとは考えません。

 

 だって自分は、何万人もいる投票者の一人に過ぎず、あとは選ばれた人自身が、どう行動するかの問題だから……自分には関係ない。そういうふうに考えてしまいがちです。しかし、本当は違うのです。他に選びようがなかったとしても、その人を審査し、役職に就かせた責任を、あなたも取るように、みんなで取るように、神様は求めてくるのです。

 

 教会はどうでしょうか? 私たちは、「よく教えることができない」「家庭をよく治められない」「節制できない」「あらゆる点で忠実とはちょっといえない」……(胸張って否定できる人は誰一人いないでしょうが)監督や奉仕者として不十分な人間を十分な者として審査し、選出した責任をとっているでしょうか?

 

 牧師になるとき、私は繰り返し思わされました。自分は教会員一人一人の執り成しによって立てられている。本来、人に教える資格のない者が、ただただ、祈りと執り成しによって受け入れられ、神様に導かれて立っている。

 

 誰一人執り成しをしなくなったら、召し出された者たちへの責任を持たなくなったら、教会の牧師、役員、奉仕者は、悪魔の罠に陥るでしょう。7節で「悪魔」と訳されている言葉、ディアボロスは「中傷者」をも意味しますが、まさに、誹謗中傷は、自分が責任の一端を担っていると思う相手には、できないことです。

 

 色んな人が、この罠に陥ります。あの委員はダメ、あの奉仕者はあかん、あの牧師はアウト……それが、本人に誠実な変化を促す批判となっているか、ただ単に、敵意を広げるささやきにしかなっていないか、私たちは時々立ち止まって振り返るべきでしょう。「私は責任ある役職に就く人のため、ちゃんと執り成せているだろうか?」

 

 今日の最後の部分、13節はこんな言葉で締めくくられています。「というのも、奉仕者の仕事を立派に果たした人々は、良い地位を得、キリスト・イエスへの信仰によって大きな確信を得るようになるからです」……「良い地位」というのは、具体的な役職や、より高い地位への昇進を意味するのではありません。むしろ、信徒の尊敬と信頼を得て、互いに良い影響をもたらす立場になるということです。

 

 私たちは最初、この手紙を読み始めたとき、自分には監督や奉仕者といった、教会における責任ある地位に就く資格はないと思いました。しかし神様は、本来、神の国に入る資格のない、正しくない人間を正しい者として受け入れ、自分のもとへ招くために、イエス様をこの世へ送られた方でした。

 

 「私にはそんな資格ありません」……そう縮こまってしまう一人一人に、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と語り、自ら執り成してくださいました。その究極の現れが、イエス様の十字架と復活でした。

 

 この方を信じる共同体は、誰かに責任を負わせ、あとは知らないという集団ではいられません。「私もあなたと共に責任を負う」「私もあなたと共にいる」……そんな姿勢を持つ共同体になるはずです。

 

 その姿勢が、教会だけでなく、神様の造られたこの世界全体に広がるように、今日も互いに執り成し合い、祈っていきたいと思います。