ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『私と一緒に苦しんで』 テモテへの手紙二1:1〜14

聖書研究祈祷会 2019年1月23日

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【こんなこと言う?】

 「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」……この言葉は、私にとってたいへん思い入れのある聖句です。なぜなら、私が牧師になるための按手を受けるとき、司式をしてくださった先生が、ここからメッセージをしてくれたからです。

 

 これからいよいよ牧師になる、どこかの教会で主任として責任を持つ、神学生や伝道師をしていた頃とは、比べ物にならない重荷がのしかかる……そんなプレッシャーを前にして、まさに私が弱気になり、臆病になっているときに、心へスッと入った言葉でした。皆さんも何かしら任職を受けるとき、重要な務めに就かされるとき、けっこう励まされる言葉だと思います。

 

 神様があなたに送るのは、臆病の霊ではない、力と愛と思慮分別の霊なのだ……心細い若手の新任教師にも、非常にありがたい言葉でした。しかし、今になってその続きを読むと、思わずギョッとさせられます。「だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません」……これのどこにギョッとするかと言えば、普通は不安を覚えている人相手に使う表現じゃないことです。

 

 「証しすること」という表現は、ギリシャ語で「殉教」に通ずる言葉です。信仰のために、自らの命さえ捨てること……どうも穏やかじゃありません。よくよく見てみると、この文書全体は、テモテという人物にパウロが言い残す「遺言」の形で記されています。どうやらパウロは、囚人としてどこかに投獄されていたようです。しかも、自分の死が近いうちにやって来ることを予期しています。

 

 そう、牧師になるための按手を受ける際、私を励ますために語られたのは、パウロの遺言のメッセージだったのです。ちょっと嫌な予感がします。その予感は、当たっていると言わざるを得ないでしょう。彼は先ほどの言葉に続いて、こう語っていくからです。「むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」と。

 

 ようするに、「私と一緒に苦しんで」ということです。殉教することも、囚人として投獄されることも厭わず、むしろ、一緒に苦しんでくれと求めてくる……これはもう、無理心中を迫る人間と、そう変わらないのではないでしょうか? 自信が持てず、不安にまみれた臆病な人間に、普通こんなこと言うでしょうか?

 

【テモテとパウロ】

 この手紙が書かれた頃、初代教会を取り巻く状況は、1世紀にわたって厳しい変化を続けていました。ローマ帝国によるキリスト教の迫害はいよいよ激しくなり、ついにはパウロのように教会の指導者が投獄され、処罰される危険も出てきました。既に、アジア州の人々は皆教会から離れ、信仰を捨て、身の安全を確保していたのです。テモテだって、心は揺れていたはずです。

 

 このまま伝道を続けていれば、自分も捕まってしまうかもしれない、一人孤独になるかもしれない、死んでしまうかもしれないと……彼はもともと、心配性で不安になりやすい人でした。コリントの信徒への手紙でも、パウロは彼に配慮して、教会の人たちにこんなアドバイスを送っています。

 

 「テモテがそちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話ください……だれも彼をないがしろにしてはならない。わたしのところに来るときは、安心して来られるように送り出してください。わたしは、彼が兄弟たちと一緒に来るのを、待っているのです。」

 

 なるほど、テモテは一人で物事に対処するのが、たいへん苦手なようでした。誰かが側にいて、安心できる状況でなければ、なかなか務めを果たせない人間でした。ところが今、教会はローマ帝国による迫害で、どんどん人が減っています。キリストの十字架と復活を否定し、教会を分裂させる者たちも現れました。

 

 テモテは非常に心細かったはずです。誰かの助けを心待ちにしていたはずです。そんな中、恩師から届いた手紙には「大丈夫、私があなたを助けに行こう」というメッセージではなく、「私と一緒に苦しんでね」という遺言が入っていました。

 

 よくも、こんな手紙送りましたよね……よくも、これで励ませると思いましたよね……皆さんも、グループのリーダーや、何かの指導者的立場になったとき、元上司に「私心細いんです……」と相談したら「大丈夫、私がついているし、助けてあげる」と言ってほしいですよね。安心させてほしいですよね。

 

 でも逆に、「そうだな、この仕事はとてもしんどい。私と一緒に君も苦しめ!」なんて言われた日には、「やべーことになったな……」と肩を落とすしかありません。パウロはテモテに、より不安になることを言っている気がします。「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をくださった!」なんて言っていますけど、むしろ、より不安を増していないでしょうか?

 

 こんなんじゃかえって、テモテは自信を失い、力強い指導者として立てなるかもしれません。へなへなと座り込んで、諦めてしまうかもしれません。もっと優しく、もっと安心する言葉をかけるべきだと思うでしょう。でも実は、違うのです。心配性で、不安になりやすいテモテに対し、パウロはちゃんと、必要な力が与えられると確信して言っているのです。

 

【本当にただの臆病?】

 私たちは、不安な気持ち、臆病な気持ちのことを、自分の自信を失わせ、行動を阻害させる、ダメな気持ちと思い込んでいますよね? でも実は、心理学の世界では、「不安がないなら、新しいことを始めるべきじゃない」と言われるほど、この「臆病さ」って大事なのです。なぜなら、不安は物事に、新しく対処していくための準備をしている状態だからです。

 

 どうしよう……人事や運営なんて今までしたことなかったのに、学校の教頭に任命されてしまった! 先生たちのシフトを考えなきゃいけない! 市や県との交渉や手続きを覚えなきゃといけない! 何にも知らない、何にも分からないこの私が、ちゃんとやっていけるだろうか? ああ、別の人にお願いしたい!

 

 一見、こんな不安は、ひたすら自信を失わせ、堂々と対処することをできなくさせるように感じますが、実はこれがないと、新しい職務を行えるようになりません。だって、不安がなければ準備なんてしませんから……これがいるかな? あれがいるかな? と考えなければ、その役目に必要な思慮や配慮、分別も、生まれてくることはないからです。

 

 士師記の中に、これに関する面白い話が出てきます。イスラエルがミディアン人の襲撃や略奪に苦しめられていたとき、民の指導者としてギデオンが立てられた話です。おそらく、私が知る聖書の登場人物で、最も臆病な性格をしている者の一人です。彼はイスラエルをミディアン人から救うため、神様から遣わされたとき、こう言って抵抗します。

 

 「わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です」……何だか、神様の使命を断ろうとしたモーセの台詞みたいです。神様は、「わたしがあなたと共にいるから大丈夫」と言いますが、ギデオンは不安を募らせ、「では、そのしるしを見せてください」と頼みます。

 

 ここまでは普通です。神様は、彼が望むしるしを与え、さっそくギデオンを遣わします。そしていよいよ、ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族が結束し、川を渡って、イスラエルのもとへやってきたとき、ギデオンのもとに主の霊が降り、彼の全身を覆います。ところが、次の瞬間、ギデオンはまたこう言い出すのです。

 

 「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、こうこうこういうしるしを見せてください。そうすれば、お告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっていることが納得できます」……ちょっと前に、しるしを与えてもらったばかりなのに、彼はまたも臆病風に吹かれます。

 

 しかも、今回は一度だけで満足せず、「もう一つ、もう一つだけしるしを見せてください!」と懇願するのです。何だか最初よりも臆病になっています。ここで注目したいのは、「主の霊が彼を覆っていた」にもかかわらず、臆病さが増してしまったという事実です。

 

 神様がくださるのは、「おくびょうの霊」ではなく、「力と愛と思慮分別の霊」であるはずなのに、ギデオンはあいかわらず、というよりこれまで以上に、臆病な気持ちになっていました。話が違います。こんなんじゃ、ギデオンはいつまで経っても指導者としてふさわしくなれません。もしも、敵と戦い始めてから臆病風に吹かれたら、ビクビクしている間に首を切られてアウトです。

 

 ところが、彼はこれだけ臆病なのに、ミディアン人と戦うときには、神様のいうことをしっかり聞いて、自分の仲間を3つに分け、夜になってから敵を包囲し、混乱に乗じて同士討ちを起こさせます。敵にぶつかっていく、最も緊張するタイミングで、非常に冷静かつ適切な判断を下したのです。

 

 主の霊がギデオンを覆ったとき、彼が抱いた不安感は、単なる臆病さではありませんでした。むしろ、繰り返し神様の指示を求め、何を行うべきかを選び取る、思慮深さと判断、分別を生み出す力でした。パウロがテモテに与えられると言ったのも、この「思慮分別」をもたらす霊、行動に移す「力」と人々を導く「愛」をもたらす霊でした。

 

【愛と力と思慮分別の霊】

 東京で、多くの先輩牧師に囲まれる中、按手礼式を受けたとき、私は心の中でこう思っていました。ああ、ついに自分は牧師として遣わされる。ここから送り出されていく。だけど正直、今まで以上に、自分は臆病になっている。

 

 毎週、礼拝と祈祷会のメッセージを、ちゃんと用意できるだろうか? 総会や役員会の運営を適切に進めることができるだろうか? 宗教法人上の手続きを、不備なく一人で行えるだろうか? 上手く喋られないかもしれない、ギクシャクしてしまうかもしれない、失敗するかもしれない……いくらでも不安がやってくる。

 

 愛と力と思慮分別の霊ではなく、臆病さが与えられている私は、本当はこの仕事に就くべきじゃなかったのかもしれない……しかし、私がただ単に「臆病さ」だと感じていた不安は、私が一つの教会で牧師として歩んでいくための、思慮と分別を用意する力でもありました。

 

 不安があったから、私はここに来る前、色々な準備ができました。メッセージのストック、教会の運営方法・法人上の手続きの確認、必要な書籍の購入……逆に楽観的過ぎたら、これらを用意しないまま、配慮や思慮に欠けた牧会をしていたかもしれません。まあ、準備していても、不足や欠けはあるんですけどね……。

 

 もしも今、あなたに新しい職務が与えられ、不安を覚えているとしても、前より臆病になっていたとしても、「私はこの務めにふさわしくない」なんて思う必要はありません。神様が、あなたの中に与えた不安は、決して「おくびょうの霊」ではなく、あなたが使命を果たすために必要な「愛と力と思慮分別の霊」なのです。

 

 だからこそ、パウロは語ります。「わたしと共に苦しみを忍んでください」と……あなたの上に降りかかった困難、あなたを苦しめる障害の数々は、あなたをその役目から引きずり下ろすものではなく、あなたが使命を果たすための力へと変えられるものなのです。あなたを遣わした神様は、必ずあなたと共にいて、その働きを支えてくださいます。

 

 父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和が、皆さんと共にありますように。