ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『死んだらどうなる?』 ルカによる福音書7:11〜17

礼拝メッセージ 2019年2月10日(教会修養会)

 

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【天国か地獄?】

 「死んだらどうなる?」という話……何で今日、これについて考えるんでしょう? 普段この教会では、週ごとに定められた聖書日課で、日曜日の礼拝をしています。が、今回はいつもと違います。なぜかと言えば、今日は一日修養会……『人生の証と葬儀』をテーマに、みんなで考えようとしているからです。

 

 証と葬儀……さっそく面倒なテーマです。そもそも「証」なんて言葉、教会以外じゃ使わないですよね? 誰かに対し、自分と神様の出会いを話す、ようするに「伝道」なわけですが、それと葬儀がどう関係するのか? 死んだらもう話せないのに……いや、その前に、もっと気になることがある。

 

 それが、「死んだらどうなる?」という話です。突然ですが、皆さんは死んだらどうなると思います? とりあえず神様のもとへ行く。これまでやってきたことの報いを受けて、赦しを得た人は天国へ、罰を受けた人は地獄へ落とされる……そんなふうに考えた人が、世の中大半だと思います。

 

 もちろん死んだ後、地獄へ行きたいという人はいないでしょうから、みんな不安になるわけです。自分はちゃんと天国へ行けるだろうか? 大事なあの人も、天国へ入れてもらえるだろうか?……クリスチャンの中には「なるべくみんなが地獄に落ちないよう伝道するんだ」という人も、それなりの数を占めています。

 

 ところが、もともと旧約には「地獄」という場所が出てきません。出てくるのは「陰府」という魂が捨て置かれる場所です。陰府という言葉は「分離された場所」を意味し、神様との関係が断たれた場所、神様がもう手を伸ばしてこない場所として語られます。ようするに、死んだ人が罰される場所というよりは、「完全に無視される場所」ということです。

 

 学校や職場でハブられる、家族から無視される体験をした人は、それがいかに辛いことか分かります。ある意味、地獄と変わらない光景です。何よりもこたえる罰となるでしょう。でも実際には、無視するはずの神様が、結局、陰府にまで手を伸ばしてくることが、度々証言されています。

 

 詩編139編8節「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます」……サムエル記上2章6節「主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げてくださる」……完全に無視できないんです、神様は。神様が苦しむ者に対して、一切干渉しなくなる……そんな場所はどこにもないことが、聖書の至るところに書かれているんです。

 

 じゃあ、新約に出てくる「地獄」、ゲヘナはどうか? これはもともと、エルサレムの南にあるベン・ヒノムの谷を、ギリシャ語で言った言葉です。かつてそこは、動物や罪人の死体が焼かれていた場所でした。そこから転じて、悔い改めない罪人が、神様の消えない怒りと炎によって、焼かれ続ける場所を象徴するようになりました。

 

 マタイによる福音書5章22節には、イエス様のこんな言葉が記されます。「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」……おっと……誰かに「ばか」や「愚か」と言ったことのない人は、ほとんどいないと思います。

 

 天国に行きたいと願う私たちのほぼ全員が、殺人を犯した者と変わらない罪を持っている、地獄に投げ込まれる存在だと、言われてしまいます。非常に厳しい、救いのない言葉です。ところが、イエス様はこう言った後で、不思議な行動を取っていきます。なんと、教えを守れない人たちに罰を下すのではなく、自分が代わりに、罰を受けていくんです。

 

 そう……兄弟に腹を立て、憎しみを覚えた人の代わりに、最高法院へ引き渡されたのは、イエス様でした。そこで鞭打たれ、十字架に架けられ、地獄のような苦しみを受けたのは、イエス様でした。本来、その苦しみを受けるのは、私たち人間のはずだったのに……イエス様は、全ての人の代わりに、神様から見捨てられ、無視され、地獄へ行き、その苦しみを負ってくださったんです。

 

 さらに、復活したイエス様が、自分を見捨てた弟子たちに宣言したのは、裁きでも断罪でもありませんでした。「あなたがたに平和があるように」……もはや、地獄の苦しみを受けると言われる者は、一人もいません。誰もが赦された者として、神様のもとへ行き、終わりの日に復活することが約束されます。

 

 死者の復活……これもなかなか、イメージしづらいことですよね。たぶん多くの人は、死んだら魂だけ、精神だけの存在になると思うでしょう。だって、肉体は腐るし、燃えるし、塵になりますから。そこから再生するなんて現実的じゃありません。しかし、神様は私という存在を、心だけ取り出して、復活させる方じゃないんです。

 

 肉が腐ろうと、骨がバラバラになろうと、焼かれて塵になってしまおうと、神様は、そこから新しい体を造られる。心も体も、私の存在全てを慈しみ、新しくしてくれるのです。そして、新しくされた私たちは、神の国へと招かれ、神様と共に住まい、神様と同じ食卓へ着くことが、教えられます。

 

 死者を見送る葬儀の式は、そんな神様に、亡くなった人の魂を委ね、残された人に慰めと励ましを祈る場です。亡くなった人にとっては、自分の生涯を通して、参列した一人一人が神様と出会う場所、人生最後の証の場となります。

 

【信仰者じゃなかったら?】

 じゃあ、神様を知らずに死んだ人、洗礼を受けずに死んだ人はどうなるの? という疑問が出てきます。キリスト教を知らなかったというならまだしも、キリスト教を知っていて受け入れなかった人は、果たして天国へ行けるのか? その人の葬儀を教会で行って、何かの証になるというのか?……ちょっと触れたくない話題です。

 

 しかし、この問題が出てくる度に、私は思い出す話があるんです。それが、先ほど皆さんと読んだ、イエス様がやもめの息子を生き返らせた話です。ナインという町に住むこの親子は、おそらく今まで、一度もイエス様と会ったことのない2人でした。息子の方は何日か前に亡くなり、既に棺桶に入った状態……イエス様の言葉を聞くことも、信じることもないまま、死んでしまった人物です。

 

 キリスト者という意味での信仰は、彼にありませんでした。母親も今、イエス様に会ったところで、ただ泣いていることしかできませんでした。母親が信じることも頼ることもできない中、イエス様は死んでいる青年に向かって声をかけます。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」

 

 起きるわけがありません。言うことを聞くはずがありません。だって、青年は死んでいるから。こっちの声を聞けるはずがないから。生前、イエス様を信じてさえいなかった人が、その声を聞いて、起き上がるわけがない。そもそも彼は、イエス様に対する信仰を持っていなかったのだから。

 

 にもかかわらず、若者は起き上がって、ものを言い始めました。呼びかけても答えるはずのない者が、答えてしまいました。イエス様は、ありえない応答を引き出す方です。言葉が届かず、返事ができず、冷たく固まってしまった人間を、自分の方に振り向かせ、起き上がらせ、返事をさせてしまいます。

 

 人間は頑固です。生きている間でさえ、私たちの声が届かない人もいます。それは、あなたの家族かもしれないし、友人かもしれないし、愛するパートナーかもしれません。あるいは、あなたが憎み、あなたが許せないあの人かもしれません。罪の自覚、悔い改め、反省の色も全然見えない、そんな人かもしれません。

 

 神様は、そういう頑固な人間をロボットのように操って、無理やり救おうとはされません。私たちをベルトコンベアーに乗せて、自動的に神の国へ連れて行くような方ではありません。むしろ、絶対に変わるとは思えない、返事をするとは思えない者から、「わたしの主」「わたしの神よ」という言葉を、自分の意志で言わせてしまう方なのです。

 

 私はその力が、全ての人に及ぶと思っています。死ぬまで神様を信じられなかった人、死ぬまで反省できなかった人、もう滅びの道しか残されていない、私たちの手が届かない人……そんな相手を神様は振り向かせてしまいます。

 

 「友よ」「娘よ」「息子よ」と呼びかけ、自分の家へと招きます。洗礼を受けてない人、信仰を告白しなかった人の葬儀は、私たちの手が届かないところで、なおその人に変化を起こしてしまう神様のつながりを証しするものなんです。

 

【証しする意味は?】

 こう言えば、きっと反論する人もいるでしょう。「全ての人が救われるなら、信じていない人も神の国へ招かれるなら、キリスト教を伝道する意味なんてないじゃないか!」「私たちが苦労して、証をする意味がないじゃないか!」……確かに、そう感じるのは当たり前だと思うんです。

 

 だって、私自身が証しするより、はるかに人を神様に立ち返らせる言葉を持った方がいるんです。この方は絶対に諦めないし、どんなに頑固で分からず屋な相手でも、「まだ分からないのか」と呻き、嘆き、苦しみながら、付き合い続けてくれますから。私が傍観している横で、ぼんやり眺めている傍で。

 

 でもきっと……この方が私の大切な人、私が諦めてしまった人に対し、嘆き、悲しみ、憤りながら、何とか神様に立ち返らせようとしているとき、私も体が動いてしまうと思うんです。だってこの方は、かつて私のために涙を流し、私のために苦しみながら、ずっと付き合ってくれたんです。私が信じてからも、まだ誰かのために涙を流し、汗を流し、必死に呼びかけているんです。あなたの家族、あなたの友人、あなたの憎む人のために……

 

 そんなイエス様が、マタイによる福音書の最後に残している言葉……「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」……天と地の一切の権能を授かった方が、お願いしてくるんです。

 

 あなたも一緒に、この人たちを私の弟子にしてほしい。私があなたを弟子にしたように……今日、私がメッセージをしているのは、皆さんを、イエス様の弟子にしたいからです。皆さんが、自分の無力さに立ち尽くす傍観者ではなく、イエス様に新しく立てられた証し人となるように……あなたは本来なら死んだままだったのに、イエス様から呼びかけられ、起き上がらされ、もの言う人となりました。もう、傍観者ではないんです。

 

【信仰者の使命】

 「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」……今年度、華陽教会の年間聖句として選ばれた、ペトロの手紙一2章9節の言葉。礼拝に集う一人一人が、選ばれた者、祭司としての使命を持っている。そう宣言する言葉です。

 

 自分も祭司として立てられている……その自覚が、皆さんにも、ありますか? 祭司というのは、人々に神様の存在を示し、その祝福を宣言し、公にとりなしをする人です。あなたは誰かに対し、自分の言葉で、神様との出会い、イエス様との出会いを話すことができますか?

 

 誰かのために、神様の祝福を宣言し、公にとりなしの祈りをしてますか? 牧師じゃないのに、そんなことできません……そういうあなたに告白します。私も、できません。メッセージも、お祈りも、私は原稿を見ないと頭が真っ白になる人間です。礼拝前は緊張で、何度もトイレに行っています。自分の受洗や信仰について話せた友人は、神学部でもごくわずか。私自身のことを話すのは、もともとすごく苦手なんです。

 

 ここへ来て欲しい友人がいます。イエス様と出会って欲しい人がいます。でも誘えません。やり方が分からないんです。どうやって、神様のことを伝えたらいいか分からない。でも、友人は興味を持っています。私がどうして洗礼を受けたのか、どうして神様を信じたのか、どうしてここに立っているのか……伝える入り口はあるんです。

 

 これを話すのに、注解書やヘブライ語、ギリシャ語の辞書は必要ないんです。自分の人生から、イエス様との出会いを語ることだから。でも、自分が神様に助けられ、導かれた話なんて、スラスラ出てくるものじゃありません。いつ、どこで、何がきっかけになって、聖書と、教会とつながるようになったのか、改めて思い出さなきゃいけません。ちょっと思い出すのが辛い、あの時の記憶も掘り起こさなきゃいけません。

 

 面倒くさいです。でも、自分が死ぬときのことを考えると、自分の生涯を、最後にみんなが振り返るときには、やっぱり、神様との出会いを知って欲しいんです。もともとキリスト者を捕まえて回り、処刑するため引き渡していた人殺しパウロは、復活したイエス様の幻と会って以来、死ぬまで手紙を書き続けました。

 

 自分がかつて、どんな人間だったか、どうしてイエス様を信じるようになったか、一つ一つ言葉を絞り出して、人々へ書き送りました。文法がめちゃめちゃな手紙もあります。ぶっちゃけ、意味の通ってない文章もあります。でも彼は、自分とイエス様が出会った生涯を告白し続けたんです。自分の死後も、誰かがこの手紙を通して、イエス様と出会えるように。

 

 私たちが、この世でイエス様を証しする時間は限られています。何かを残せる時と力はわずかです。どうか、あなたの生涯を通して与えられたメッセージ、あなたが絞り出せる言葉の数々を、地面に埋めて隠さないでください。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」……この言葉を「私に関係ない」と切り捨てないでください。あなたを、イエス様は必要としているんです。

 

 「若者よ、あなたに言う。起きなさい」……かつて、あるいは今、あなたに向かって言われた言葉、あなたを起こし、キリスト者として立ち上がらせた言葉は生きています。あなたの沈黙をも破るでしょう。私の沈黙も破ってください。恐れを抱かせ、語らずにはいられなくしてください。「神はその民を心にかけてくださった」……私たちから、この知らせを、周りの地方一帯に広めていきましょう。