ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『休ませてくれよ!』 マタイによる福音書11:25〜30

聖書研究祈祷会 2019年2月13日

 

f:id:bokushiblog:20190213174309j:plain

 

【休めない安息日】

 休みがほしい……働きたくない……今日もそんな叫びが聞こえてきます。一週間、朝から晩まで働いて、定時退社なんて概念はなく、休みの日は容赦なく会議を入れられ、お客は遠慮なしにやって来る。丸一日休める日なんてほとんどない。ああ、よくあるブラック企業の話だな、と思ったかもしれません。が、実はこれ、教会で働く牧師からよく耳にする話です。

 

 また、ある所からはこんな話を聞きます。残業代は請求できず、有給も自然に申請できず、その仕事もうちょっと減らせません? と願い出ることもできない。子どもや若者、社会のためにあなたは働いているんでしょ? とボランティア精神を強要される。やりがい搾取のブラックNPOか? と思ったかもしれません。が、残念ながら、いくつかのキリスト教主義の職場です。

 

 あれをやれ、これもやれ、どうしてそれができないの?……色んな言葉が重くのしかかったまま、日曜日がやって来ました。今日くらいは、家でごろごろしていたい。朝早く布団から出たくない。でも、今起きないと10時15分から始まる教会の礼拝に間に合わない。そう言えば、9時から子どもの礼拝のメッセージにも当たっていた! 午後からは各種委員会もある。出ないわけにはいかない。けれど、本当は一日休んでいたい……

 

 安息日と名のつく日曜日に、本当に「安息」している人がどれだけいるか、けっこう怪しいところです。社会で、学校で、家庭で疲れ果てた者、重荷を負わされた者たちが、安息を求めて教会にやって来る。ところが、気がつくと様々な役割が自分に集中し、日曜日を安らかに過ごせなくなっている。皮肉なことに、教会に来て、さらに疲れを感じて去っていく。

 

 神様は世界を創造した7日目に休みをとったと言うのに、教会で私を休ませてくれる人は誰もいなかった。そんな人が、イエス様の言葉を耳にします。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」……イエス様、ここへ来たものの、実は私休めていないんです。あなた本当に休ませてくれるんですか? 正直、だいぶ疑わしいです。

 

 すると、イエス様はこう言います。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」……どうも変です。軛というのは、大きな荷物を引かせるために、家畜2頭を並べて首にかける道具です。ようするに、仕事をさせるための道具、重荷を負わせるための道具……「休ませてあげよう」と言いながら、結局仕事をさせるんかい! という話です。

 

【まるで奴隷?】

 イエス様の話は突っ込みどころ満載です。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」……いやいや、荷物を引っ張るための道具を首にかけられて、安らぎを得られるわけがないでしょう? 軛って、牛や馬がつけているなら普通ですけど、人間がつけていたら、まさに首にカセをつけられた奴隷じゃないですか? 私を騙して、自分のためにこき使うつもりですか?

 

 すると、イエス様はさらに言います。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いから」……まるで自分自身も軛を負って来たような言い方……待ってくださいイエス様! もしかして、軛の片っぽはあなたがつけているんですか? ヘンテコなこと言わんでください。本来、軛を負わせる主人は、自ら軛を負わないでしょ! どんだけ滑稽なことしてるんですか? 

 

 そうなんです。イエス様ちょっと変なんです。荷物が重くて休めない人がいるなら、素直にその人が背負っている重荷を全部とっちゃえばいいんです。それなのにイエス様ときたら、休みに来た人を座らせて、重荷を降ろし、また別の荷物を背負わせる。カチャッと一緒に軛をつけて……みんな思いますよね。そんなんじゃ、ちゃんと休めないって。

 

【休めない人たち】

 休ませてくれよ……そう思いながら、休ませてくれない現実がある。これを私が最初に実感したのは、父がうつ病になったときでした。父は私たちが子どもの頃、積み重なる仕事と人間関係のストレスで、躁鬱病という心の病を負いました。その名のとおり、躁状態と鬱状態、ガッといきなり元気になったり、ガクンと気分が沈んだりを繰り返します。

 

 病気になって10年以上経ち、今は薬を飲みながらボチボチやっていますが、最初は分からないことばかりで、安定とは程遠い毎日を送っていました。まず、鬱の状態がひどくなると、何も手に付きません。本も新聞も読めなくなり、ひどいときにはテレビも見られません。

 

 当然、仕事なんてできません。だからと言って、何もせず休んでいるのは難しい。だって、本当はしなきゃいけないことがいくらでもあるから。父は、何度かその時の教会で休みをもらいましたが、「休む」ということが本人の意思だけでは上手くできなかったんです。

 

 自分は仕事をしなきゃいけない。休んでいていいわけがない。教会の人たちに迷惑がかかる。幼稚園にしんどい思いをさせる。色んなことを考えたでしょう。楽をしている罪悪感があったでしょう。周りの人が色々動いている中で、自分だけ、「何もしない」「ただ休む」ということは、人間なかなかできないんです。

 

 休まなければならないときこそ、安心して休めない……職場以外でも似たような出来事が起きています。学生の中にも、うつ病になる人がいます。ある人はスポーツ推薦で大学に入ってきた人で、簡単には部活を止められない立場でした。うつと診断されたものの、しばらくは無理に部活を続けます。

 

 しかし、結局ドクターストップがかかり、部活を退部することになりました。ですが、止めた後も、大会の審判や受付の業務などを手伝うことになりました。本当はそれも休んで、サクッと止めてしまうよう医師から勧められていたんですが、彼はそれができません。

 

 スポーツ推薦で大学に入らせてくれた高校や、大会で選手として期待されていた自分が活躍できない罪悪感……それらが、彼を気持ちよく「休んでいい」とは思わせてくれませんでした。

 

 またある人は就活中で、履歴書に自分の病気を書くべきか、書かないべきか、非常に悩んでしまいます。仕事をするとき、自分の病気を理解してもらわなければ、みんなに迷惑がかかる。けれど、病気のことを言えば就職できないかもしれない。そんな難しい時期を過ごすんです。

 

 

 結局、しばらくして半年後に勤務が始まる会社の内定が決まります。彼女はそれでもう、働き始めるまで休んでいいはずでした。ですが、周りがまだ就活を続けていたり、資格のために勉強をしていたりする中で、安心して休むことはそんなにできないと感じます。

 

【休めるように】

 実は、ただ言葉で「休みなさい」と言われても、人は簡単に休めないんです。自分が何もしないで、何の役にも立たないで、一人休ませてもらっても、心は安心できません。ほとんどの人が、「いや、何かできることします」「私一人だけ休んでられません」という気持ちになって、壊れていきます。

 

 それは、日頃「休みたい」と言っていても同じです。いざ休める状況になっても、一人で休むのは至難の業。だって、自分が要らない人間、ダメな人間に思えるから……イエス様の周りにいたのも、自分がダメに見えることを恐れている人たちでした。当時のイスラエルは、律法という神様から与えられた掟を守らなければ、人として失格だと思われました。

 

 ファリサイ派や律法学者と呼ばれる旧約聖書に詳しい人から、あれもやれ、これもやれと生活指導を受け、守れないと罪人に見られ、みんな疲れ切っていました。特に、「安息日に仕事をしてはならない」という掟、これは非常に事細かく指示をされ、地域によっては「この日は何歩以上歩いてはならない」「食べ物を温めてはならない」といったことまで教えられていました。愚かな笑い話に聞こえますが、今もそんなに変わりません。

 

 教師は有給を取っても平日に近所を出歩くべきじゃない、保護者に「あの先生学校サボっている」とクレームが入るから……女子生徒は寒い日でもスカートの下にジャージを履くべきじゃない、みっともないから……小学生は給食がカレーの日でも箸以外使ってはいけない、箸の使い方が分からなくなるから……聞いてるだけで疲れてくる内容ですが、全部、岐阜市内で私が聞いた話です。

 

 有給とったなら、平日に先生が出歩いてもいいじゃん。風邪を引かせるくらいならスカートの下にジャージを履くか、ズボンでの登校を認めていいじゃん。カレーくらいスプーンで食わせろよ……心の中ではそう思いつつ、みんな我慢しているのに自分だけ変えたら楽していると思われる、ダメな奴だと思われる……と不安になり、結局そのまま過ごしてしまう。

 

 こんな「正しさ」にがんじがらめにされている私たち、自分のために休めなくなっている私たちへ、イエス様は、ただ「休みなさい」とは言いません。言っても聞きませんからね……あなた一人のために休めないなら、わたしのために軛を負いなさい。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いから」……そう言って、自分と同じ生き方を、一緒に背負ってくれと頼んできます。

 

 イエス様は、私たちが一人で休めないのをよく知っていました。「休みなさい」と言われても、私たちが休む自分を許せないとよく分かっていました。だからこそ、「わたしの軛を負いなさい」と言ったんでしょう。

 

 「あなたは、こうしろ、ああしろと言われて負わされた、様々な重荷を降ろしなさい。代わりに、私と一緒にこの軛を負いなさい。あなたはダメな人でも役に立たない者でもない。私と一緒に大切な積荷を運ぶのだから」と。

 

【軛を負う者】

 実は、私自身も学生の頃、教会実習で九州へ行った一ヶ月、最初の5日目に足を骨折し、休まなければならなくなりました。夏期派遣神学生という立場で教会に来ていた私は、本来なら色んな幼稚園の行事や教会の仕事を手伝うはずでした。しかし、足を骨折して何も手伝えず、むしろ色んな人のお世話になりました。

 

 かなり心苦しい状況でした。教会のキャンプへ行っても、ほぼ、荷物を運ぶ手伝いはできず、子どもたちとプールで遊ぶこともできず、料理の手伝いも見ているだけで、むしろ周りの人がどんどん「食べてね」と親切に持って来てくれる……お世話になってばかりで、自分は何しにここへ来たのか、と虚しくなってきます。

 

 そうすると余計に、骨折を理由に休む気持ちになれないんです。ここでじっとしていていいわけがない。何か自分にできることを探して少しでも役に立たなきゃ。そんな気持ちの方が強くなり、無理して歩き回ろうとします。そんな私に、できることを探して持って来てくれた人たちがいました。幼稚園の子どもたちです。

 

 「これ読んで」「あれ読んで」と、次々に絵本を持ってくる。骨が折れていても、物が運べなくても、一緒に走り回れなくても、絵本なら読んであげることができる。その時になって気づいたんです。

 

 ああ、普段自分が通っている教会では、こんなふうにゆっくり子どもたちと過ごしてこなかったな……いつも、教会の委員会や仕事に走り回って、負うべきものを何も負わずに疲れていたなと。その日、私に軛を負わせたイエス様は、幼稚園の子どもたちを通して現れました。

 

 イエス様は、私たちが「休む」とき、今まで背負って来た重荷を下ろすとき、「私の軛を負いなさい」と呼びかけます。私たちが周りから「楽している」「ダメな奴」と指さされるとき、「いいや、あなたは確かに、私と一緒に軛を負っている」と語ります。イエス様と一緒に背負うのは、理不尽な「こうしろ」「ああしろ」という重荷ではありません。「互いに愛し合いなさい」という温かく優しい積荷なんです。