ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『たとえているのに分かりにくい!』 箴言3:1〜8、ルカによる福音書8:4〜15

2019年2月17日

 

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【正しい意味が知りたい】

 誤った教えではなく、正しい教えが聞きたい。乱暴な解釈ではなく、適切な答えが知りたい。たぶん、多くの人はそう思って、教会へ聖書の話を聞きに来るんだと思います。実際、今日読んだイエス様の教えも、ただ聞いているだけでは意味が分かりませんでした。種を蒔く人のたとえ……それ自体は、非常にシンプルな話です。

 

 種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、ある種は石の上に落ち、ある種は荊の中に落ちてしまった。結局、これらの種は踏みつけられ、鳥に食べられ、荊に覆われて枯れてしまった。しかし、良い土地に落ちた種だけは、百倍の実を結んだ。

 

 特別、変わった話ではありません。むしろ、当たり前の内容です。作物の種は、良い土地でなければ育たない。悪い土地に蒔いても枯れてしまう……当然のこと、だから何? という話です。実際、イエス様が群衆に向かってこの話をしたとき、「なるほど!」と頷いた者は一人もいませんでした。

 

 そりゃそうです。だって何をたとえているのか、一切説明がないんですから。みんな疑問を抱きます。イエス様はなぜ、我々が知っている当たり前のことを言ったのか? 何かをたとえているようだが、種を蒔く人、蒔かれた種、種が蒔かれるそれぞれの土地は、いったい何を示すのか? ヒントもないまま、たとえ話に放り込まれた群衆は様々な考えを巡らします。

 

 そうこうしているうちに、弟子たちが手を上げます。「先生、このたとえはどういう意味なんでしょうか?」……見てください、みんな理解してないですよ? 私たちも置いてかれています。何で、そんな意味の分からないたとえを使うんです? 群衆の気持ちを代弁するかのように、彼らは質問を投げかけます。

 

 するとイエス様は、たとえを用いる理由から説明します。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」

 

 どういうことでしょう? イエス様に従う弟子たちは、神の国の秘密を知ってもいいけれど、そうでない人たちは分からないように、敢えて難しく話すんだ……ということでしょうか? それって何だか、心が狭いように感じます。

 

【混乱するたとえの説明】

 普通、皆さんがたとえを使うときって、どういうときでしょう? きっと、そのままでは理解しにくいことを、分かりやすく説明するために、たとえを使うことが多いですよね? でも、その逆で、敢えて一部の人しか分からないように、たとえを使うことも出てきます。

 

 たとえば、上司の行動に不満があるとき。本人には分からないよう、あたかも別の話をしているかのように、周りとやりとりすることがありますよね? 子どもに知られたらまずいことを、大人だけに通じる隠語で話すこともあります。「誰でも分かるように」ではなく、「一部の人しか分からないように」たとえを使う……イエス様もそれが目的だったようです。

 

 ところが、実際のところ、このたとえを理解しているのはイエス様一人。弟子たちにだけ分かる隠語を使ったのでもなく、彼らも知らない表現で、神の国の秘密を語ります。最初から、このたとえは「誰でも分かる」内容でも、「一部の人だけが分かる」内容でもなかったんです。

 

 じゃあ、何のためにたとえを使ったの? という話になってきます。ぶっちゃけ、弟子たちにだけ分かるように語った、というよりも、彼らが考え込まざるを得ないように、こんな話し方をした、という印象を受けます。そもそも、この後に続くたとえの説明を聞いたところで、本当に理解できるかも怪しいんです。なぜかって、イエス様が弟子たちに話したたとえ話の説明は、よく見ると、成り立っていないから。

 

 最初に、イエス様は「種は神の言葉である」と説明します。一見、これで分かりやすくなったような気がします。神の言葉が「種」ならば、その種が蒔かれる土地は、それぞれの聞き手を表すことになるからです。実際多くの人は、自分が良い土地なのか、荊の生えた土地なのか、石だらけの土地なのか、道端なのかを考えます。

 

 たぶん今までも、私を含め、多くの牧師がそういう説明をしてきました。ところが、続きを見ていくと、いつの間にか、御言葉の聞き手が「土地」ではなく「種」の方に置き換えられています。あなたは石地に落ちて根がないために枯れてしまう種か? 荊の中に落ちて実を熟すことのできない種か? あるいは、良い土地に落ちて百倍の実を結ぶ種か?

 

 そんな問いを投げかける話として、イエス様は説明するからです。これでは、たとえ話に出てくる「種」を、「神の言葉」として捉えるのか、「聞き手の私たち」として捉えるのか、どっちが正しいのか選べません。イエス様は、このたとえの正しい受け取り方を「これだ!」とは教えてくれないんです。

 

 聞き手の私たちは、自分が土地にたとえられているのか、種にたとえられているのか、自ら考えて話を聞かなければなりません。イエス様は、「誰でも分かる話」でも、「一部の人だけ分かる話」でもなく、「一人一人が自分で考え、自分で解釈しなければ、意味が獲得できない話」をしているんです。

 

 ただ正解を求めて、人からの答えを得ようとするだけでは、この話は「見ても見えず、聞いても理解できない」んです。皆さんは、注解書に書いてあることや、牧師が言うことを「正しい答え」だと思って聞くかもしれません。しかし、イエス様があなたに望んでいるのは、唯一の正しい解釈を得ることではなく、あなたがこの話の意味を、自分で考え、自分で受け取ることなんです。

 

【聞き手を土地に捉えたら】

 実際、この話の意味は、聞く人によって受け取り方が変わってきます。今日、私が皆さんに話せるのは、このたとえの正しい意味ではなく、このたとえから、私が受け取ったメッセージです。その中から2つを、今から証ししたいと思います。私の人生を通して、神様が与えてくれたメッセージ……まずは、私自身が「土地」にたとえられていると受け取った話です。

 

 もうほとんどの人が知っていますが、私は牧師家庭で育ちました。生まれたときから教会の中で過ごし、聖書の話を毎週のように聞いてきました。小さい頃から、神の言葉である「種」を蒔かれ続けてきたんです。そんな私が牧師になったのを見て、皆さんは、私がこのたとえで言う「良い土壌」「良い土地」だと思うかもしれません。しかし実際はそうじゃなかったんです。

 

 大人になって自立したら、もう教会には行かないだろう……そう思っている時期が、けっこう長くありました。日曜日、礼拝があるから遊びに行けない、午前中ゆっくり過ごせない。本当は、聖書の話を聞いてるよりも、遊んだり、寝坊したり、テレビを見たりして過ごしたい。そんな誘惑が、荊となるものが、いつも私を覆っていました。

 

 今までは、子どもの礼拝が終わったら遊んでいたのに、自分の弟が大人の礼拝にも出るようになったのを見て、「俺も頑張って出てみるかなぁ」と思ったこともありました。しかし、聖書の話を真面目に聞いてこなかった私は、すぐにつまらなくなり、出るのを止めてしまいました。私の心は石地のように固く、種を蒔かれても根を張ることができず、枯れてしまう土地だったんです。

 

 学校のクラスメートは、「教会って怪しいところ」「カルトと似たようなもの」という認識で、よく私をからかっていました。ちょっと聖書の言葉に感動することがあっても、すぐ周りの常識や偏見に自分の心を踏み荒らされ、受け取った希望も奪い去られていきました。私の心は全然良い土地じゃなかったんです。種が実を結ぶはずのない、道端や石地、荊の生えた土地でした。私は全くと言っていいほど、自分の心を耕してきませんでした。

 

 神様も呆れて、こんなところに種を蒔いても意味がないと止めてしまうのが普通です。だって本来、道端や石地、荊の中に種を蒔くことなんてありえないですから。ところが、神様は私に、種を蒔き続けます。踏みつけられ、鳥に食べられ、荊に覆われることが分かっているのに、御言葉を語り続けるんです。

 

 何でこんなところに種を蒔き続けるんでしょう? そこは耕されていないのに……実は、かつてのイスラエルで「種を蒔く」という行為は、畑を耕す前に行われていました。つまり、たくさんの種を蒔いた後、これから土に鍬を入れ、石を取り、荊を抜いていくんです。神様が種を蒔いた後、これから、その土地を耕しに来る人がいます。それがイエス様でした。

 

 「牧師になんてなるものか」「教会には行かなくなるだろう」……かつて、自分の土地を、荒れるがまま放っておいた私が、今ここに立っているのは、本来ありえないことでした。しかし、イエス様は、実を結ぶはずのなかった私のところへやって来て、私の心を耕し、石を除き、荊を抜いてくれたんです。非常に粘り強く。神様はそこに、種を蒔き続けてくれました。

 

 種を蒔く人のたとえは、私自身が、どれだけ荒れ果てた土壌であるかを気づかせ、にもかかわらず、そこに種を蒔き続ける神様の愛を気づかせ、さらにそこへ、耕しに来てくれる、イエス様の姿を思い起こさせる話です。皆さんは今、自分がどんな土地であるか、見えているでしょうか? 自分を耕しにやって来た、イエス様の姿が見えるでしょうか?

 

【聞き手を種に捉えたら】

 次に話すのは、聞き手の私が「種」にたとえられていると受け取った話です。洗礼を受け、信仰を告白し、神様を証しする使命を与えられた私が「種」として遣わされるのは、様々な土壌です。家族のいる家、友人のいる学校、同僚が待つ職場、あるいは、初めてキリスト教に触れる人がやって来る、教会というコミュニティ……人々が集まる様々な土壌へ、私は「種」として蒔かれていきます。

 

 ところが、そこが良い土地とは限りません。私が受け取った聖書の言葉を、ただの綺麗事だと言い放ち、見向きもせずに踏みつけていく人たち。何とか聖書の言葉を伝えようとするものの、自分の信仰が受け入れられない状況に心が挫け、聖書から受け取った希望さえ手放し、鳥に食べられてしまう……そんな道端に蒔かれてしまうときもありました。

 

 家族の中で、一人だけ洗礼を受け、自分の大切な人たちにも信仰が芽生えてほしいと願っている。ところが、「信じるなら勝手にして」「私のことは巻き込まないで」という態度を誰一人崩さない。まるで、石の上に蒔かれた種のように、無力を感じている……そんな状況に放り込まれている知り合いもたくさんいます。

 

 神学部に入ってすぐのとき、私は多くの人に神様の言葉を伝えたいと思い、がんばって勉強するぞ! と燃えました。ところが、関西に来て初めての一人暮らし、小さい頃以上に、多くの誘惑がありました。土曜日の夜、明日礼拝があるのに、飲みに来ないかと誘ってくる先輩たち。教会学校の準備があるのに、そんなの朝までに終わらせればいいと、巧みに遊びへ引っ張り出す友人たち。

 

 神様のことを知ってほしい、もっと信仰を育みたい……そう思いながらも、様々な誘惑に襲われて、自分自身も芽が出せなくなる。そんな荊の中へ蒔かれてしまい、悪戦苦闘する時期も、度々やって来ます。今だって、荊に何度も覆われるんです。私は自分が置かれた場所で実を結ぶことのできない、誰かにとって「神の言葉」になりえない、そんな種なんです。

 

 信仰を育むことも、継承することもできません。実りをもたらさないまま、時が過ぎていく……でも、そんな「種」である私を、イエス様は「神の言葉だ」と言うんです。「神の言葉」になりえない私、実りをもたらさない私を、それでも「神の言葉だ」と宣言し、遣わしていくんです。私がここで実を結べないとき、イエス様がこの地を耕しにやって来ます。

 

 種を蒔く人のたとえは、私自身が芽を出せず、挫折し、枯れてしまっても、なお「神の言葉」として、命を吹き込んでくださるイエス様を思い出す話です。皆さんは今、どこに蒔かれているでしょうか? そこではもう芽を出せず、神様を証しできないと思っているでしょうか? そんなあなたを巻き込んで、この地を耕そうとするイエス様が見えるでしょうか?

 

 今、皆さんはこのたとえを聞いています。イエス様の話を聞いています。その教えは、一人一人に違ったメッセージを与えます。あなた自身が悩み、考え、受けとめることを、求めています。「イエス様、このたとえにはどんな意味があるんでしょう?」あなたが疑問に思ったとき、あなたを耕すイエス様との出会いがあるでしょう。だから……聞く耳のある者は、聞きなさい。