聖書研究祈祷会 2019年2月19日
【嵐を呼ぶ男】
知り合いに「雨男」「雨女」がいる。あるいは、自分自身が行事に出ると、高確率で嵐を呼び寄せてしまう……という人がいるかもしれません。聖書の中にも何人か、「嵐を呼ぶ男」が出てきます。
こう言うと、映画のタイトルに出てきそうなかっこいい雰囲気ですが、実際のところ、そんな良いもんじゃありません。特に、海や湖の上で嵐を呼び寄せよせてしまったら、生きた心地もしないでしょう。いつ舟が壊れるか、転覆するかも分からないからです。
旧約聖書で「舟」と「嵐」と言えば、真っ先に思い浮かぶのが、ノアの箱船物語です。ノアは、神様の指示で箱舟を作って乗り込んだ後、洪水で自分たち以外の全てを流されてしまいます。40日40夜、地上に雨が降り注いでいる間、舟が壊れないか、沈んでしまわないか、気が気でなかったに違いありません。
ノアの場合は、神様の指示に従って舟に乗り込みましたが、逆に神様から逃げようとして舟に乗った人物もいます。それが、ニネベの街へ行くよう命じられたにもかかわらず、タルシシュ行きの舟に乗ってしまったヨナという男です。神様に逆らったがために、彼の乗っている舟は大嵐に見舞われ、今にも砕けんばかりの勢いで波に揉まれます。
文字どおり「嵐を呼んだ男」です。この場合は全然かっこよくありませんが……外国の船乗りたちは皆恐怖に陥り、それぞれ自分の神に向かって助けを求めます。さらに、舟を少しでも軽くしようと、必死に積荷を海へ投げ捨てます。しかし、諸悪の根源であるヨナ自身は、船底に降りて横になり、ぐっすりと眠り込んでいました。
船長はヨナのところに来て言います。「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない」……預言者のくせに神に逆らい、異教の神を信じている船乗りたちから、神に祈るよう勧められる。なんとも皮肉な話です。しかも、彼は舟に乗っている間、結局最後まで、神様に助けを求めて祈らないんです。
舟に乗るとだいたい怖い目に遭うのは、旧約だけの話じゃありません。新約に出てくる宣教師パウロも、外国で捕まり、囚人として舟で移送される途中、何日間も暴風に襲われ、舟はめちゃくちゃに壊れてマルタ島に難破します。タイトルにも挙げたように、聖書に出てくる人物は、海や湖を渡るため舟に乗り込むと、たいてい恐ろしい出来事が待っているんです。
イエス様に従っていた弟子たちも例に漏れず、舟に乗ったら怖い目に遭いました。それも、一度きりの話ではありません。先ほど、湖の上で逆風に悩まされていた弟子たちの話を読みました。が、それ以前にも、弟子たちが舟に乗り込んで、激しい嵐に見舞われた出来事が出てきます。実はそれが、今回の伏線になっているんです。
【舟で寝ているイエス様】
弟子たちが舟の上で怖い目に遭った最初の話は、8章23節以下に出てきます。イエス様はあるとき、おもむろに舟へ乗り込んで、向こう岸へ行こうとされます。弟子たちもそれに従って舟に乗り、みんなで湖を渡ろうとしますが、出発して間もなく、激しい嵐が始まりました。しかし、弟子たちは12人中4人が元漁師……先に挙げてきた人物とは違って、舟の扱いに長けている人たちです。
彼らは、吹き荒れる波風と必死に戦います。けれども、舟は何度も波にのまれそうになり、元漁師の弟子たちにも歯が立ちません。彼らが何とか持ち堪えようとする中、最初に舟へ乗り込んだイエス様は眠っています。弟子たちはふと思ったでしょう。どこかで、こんな場面を聞いたことがあると……そう、この状況は、神様に逆らってタルシシュ行きの舟に乗ったヨナが、船底で眠っている間に、大嵐に見舞われた状況とそっくりです。
弟子たちはまだ、イエス様が「神の子」「救い主」であると認識していませんでした。どちらかと言えば、洗礼者ヨハネのような、神様から選ばれた「預言者」という認識の方が近かったかもしれません。すると、同じ預言者として選ばれたヨナが、神様から逃げようとして、舟を転覆させそうになった、という「やらかした出来事」がどうしても頭から離れなくなります。
眠っているイエス様を見ながら、弟子たちは色々考えたでしょう。この人と舟に乗り込んでからすぐに、嵐が起きた。もしかしてこの嵐は、イエス様が原因で起きたんじゃないか? いったい、この人はどういう人なんだろう? 何をやらかしたんだろう? もし、嵐がおさまらなかったら、この人をどうすればいいんだろう?
かつて、やらかしてしまったヨナが、無実の船乗りたちを巻き込まないよう、嵐を静めるためどんな行動をしたか……皆さんは知っているでしょうか? そう、ヨナは船乗りたちにこう言うんです。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている……」
弟子たちはどんな気持ちで、イエス様を起こしたんでしょうか……マタイによる福音書では「主よ、助けてください。おぼれそうです」というシンプルな言葉しかありません。しかし、マルコによる福音書では「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!」という非難めいた口調になっています。
イエス様、この嵐はあなたのせいなんですか? あなたは何者で、何をやらかしたんですか? 船乗りたちがヨナを問いただしたように、弟子たちもイエス様を問いただしたい気持ちだったかもしれません。彼らは恐ろしかったんです。自分たちの従っているこの人物が、どんな人なのか分からなくて。
すると、イエス様はヨナとは全然違う答え方を返します。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」……そして、あろうことか、神様が怒って嵐にしたかもしれない風と湖を叱りつけたんです。弟子たちは衝撃を受けます。そのあと嵐はピタッと止んで、すっかり凪になったからです。
もしかしたら、この人はヨナのように神様に背いて、懲らしめを受けようとしている預言者じゃないか? そう思ったら、全然違うことが判明しました。イエス様は全くの無実で、むしろ、自分たちを怖がらせ、不安にさせた風と湖を叱りつけ、穏やかにしてしまう方だからです。預言者どころのスケールじゃありません。弟子たちは呟きます。「いったい、この方はどういう方なのだろう……」
【舟に乗らないイエス様】
時が経ち、イエス様の起こす奇跡を何度も見てきた弟子たちは、再び、舟に乗って湖を渡る日がやって来ます。それが14章の最後に出てくる場面でした。以前、嵐を静めてくれたイエス様がいるので、今回は安心です。舟の上で何があっても、この方といれば大丈夫! 弟子たちはそう思っていたでしょう。ところが、なかなかそうはいきません。なんと、イエス様は弟子たちを舟に乗せたあと、自分は乗らないで「先に行け」と言うんです。
いやいや、私たちが舟を出しちゃったら、あなたはどうやって向こう岸へ行くんです? 弟子たちは困惑します。先に湖を渡るとしても、向こう岸のどこへ舟を停めたらいいか、イエス様は言ってくれません。同じ話が記されたマルコによる福音書やヨハネによる福音書では、ベトサイダやカファルナウムという目的地を持って、弟子たちは舟に乗り込みます。が、マタイによる福音書は違います。
彼らはイエス様に目的地を告げられないまま舟に乗せられ、とにかく向こう岸へ渡るようにとだけ指示を受け、その間に、イエス様は群衆を解散させに行ってしまうからです。まるで、自分たちから少しでも早く離れたいかのように……事実、イエス様は群衆を解散させたあと、すぐには弟子たちのところへ戻らず、山に登って夕方まで一人で祈っていました。
そして案の定、弟子たちは逆風に襲われ、波に悩まされ、前回と同様、二進も三進もいかなくなります。今回は風と湖を静めるイエス様も不在です。彼らはどんどん不安になっていきます。ああ、何が悪かったんだろう! どうしてイエス様は、一緒にいてくれないんだろう? どうして目的地も指定せず、我々を舟に乗せたんだろう?
そう、イエス様は強いて弟子たちを舟に乗せました。この状況は彼らの選択や行動の結果ではなく、イエス様の行動がもたらしたものです。弟子たちの中に疑いが芽生えます。もしかして、イエス様は最初からこうなることが分かっていたんだろうか? 我々が逆風に襲われ、陸地にたどり着けないのは、やはりあの人のせいなんだろうか?
ちょうど少し前、イエス様に洗礼を授けたバプテスマのヨハネが処刑されるという事件がありました。イエス様の数少ない理解者が殺された……相当ショッキングな話です。おそらく、イエス様が一人で祈りに行ったのも、この出来事が背景にあったんでしょう。心を痛め、自暴自棄になる。予想のつかない行動に出る。そんな可能性は十分考えられました。
悪い予感のする弟子たちに、さらに恐ろしいことが起こります。湖の上を歩いて、強風の中、誰かが自分たちの方へやって来るんです。彼らは恐怖のあまり叫び声をあげ、「幽霊だ!」と怖がりました。そりゃそうです。私だって同じ反応をするでしょう。ところが、幽霊だと思った相手から、聞き覚えのある声が聞こえてきます。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」……そう、イエス様です。どうして自分たちと一緒にいてくれないのか? どうして自分たちだけ危険な目に遭わせるのか? もう自分たちのことなんてどうでもよくなり、見捨ててしまったのか? そんな疑いにのみ込まれようとしていたとき、この人は帰って来たんです。
「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」……ペトロは勇気を出してこう言います。不安と疑いにのみこまれ、沈みかけていた彼は、今こそ、この方がどういう方なのか、本当に知りたいと願ったんだと思います。そんな彼に、イエス様は一言「来なさい」と命じます。
ペトロは震えながら舟から降りて、水の上に足を乗せました。すると、確かに沈むはずの足が支えられ、イエス様の方へ歩けます。もう一歩、もう一歩と進んでいこうとしたとき、彼はふと気がつきました。イエス様が来てくれたのに、波も風も止むことなく、舟は上下に揺れっぱなし……風は相変わらず強く、この前みたいに凪にはなりません。
イエス様、この強風を止めてくれないんですか? 私たちを助けに来てくれたんじゃないんですか? ペトロは再び恐ろしくなりました。本当に、この方に頼っていいのか不安になります。その瞬間、今まで支えられていた足が沈み始め、溺れそうになります。
「主よ、助けてください!」……叫んだ彼に対し、イエス様の手はすぐに伸びてきました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」そう言いながら、彼を舟へと引っ張り上げ、ようやくみんなと一緒に乗り込みます。そのとき、弟子たちの前で風は止み、湖は静かになりました。かつて、「この方はどういう方なのだろう?」と呟いた弟子たちは、もう今までとは違います。イエス様に向かってはっきりと告白します。「本当に、あなたは神の子です」
【海底ではなく十字架へ】
最初に、タルシシュ行きの舟へ乗ったヨナの物語が、湖の上で嵐にあった弟子たちの出来事と結びついていることを話しました。実は、物語の結びつきはこれだけで終わりません。ヨナは嵐に見舞われた船乗りたちを救うため、自らを捕らえさせ、海へ放り投げるよう言いました。自分を犠牲としてささげなさいと……それは、彼自身が罪を犯したためでもありました。
しかし、イエス様はヨナと違って無実であるにもかかわらず、自らを犠牲としてささげることになります。それは、海の上に放り投げられる形ではなく、十字架の上に掛けられることによって果たされるんです。イエス様がこの時助けたのは、自分を神の子と心から信じ、全く疑いもしない人たちのためではありませんでした。
むしろ、ちょっと風が吹けばすぐ不安になり、すぐ疑いをかけてしまう、信仰の薄い者たちのためでした。この方は本当に神の子です。どれだけ私たちが疑っても、必ず助けにやって来て、必ず手を伸ばすんです。「安心しなさい」「恐れることはない」そう言いつつ、安心できず恐れてしまう私たちを、見捨てず支えてくれるんです。