ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『癒されなければ罪人ですか?』 ルカによる福音書5:12〜26

礼拝メッセージ 2019年2月24日

 

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 【信仰があれば病は治る?】

 ここしばらく、破壊的カルトについて調べていました。健全だった教会が、集まった人たちに経済的、精神的、身体的被害を与える……「教会のカルト化」といった現象がなぜ起こるのか、ずっと調べていたんです。なぜかと言うと、私が神学生だった頃、賑やかで暖かい若者向けの教会だと思っていたところが、その頃からたくさんの人を傷つけている「カルト化した教会だった」ということが、最近分かってきたからです。

 

 本当は認めたくありませんでした。私は「若者向けの新しい礼拝」を勉強するために、自分でその教会を調べ、自分からその礼拝に参加しました。自分が神学生をしていた教会で、その内容を導入するために……! そこの教会は、私の訪問をとても歓迎してくれました。「自分の教会でも、若者がたくさん集まる工夫をしたい」……そう話す私のことを、「素晴らしいね」「がんばって」と心から応援してくれました。

 

 今までにないくらい、自分の思うこと、やろうとしていることを肯定され、応援され、歓迎されたんです。本当に良い人たちでした……私はそれが、ラブシャワーと呼ばれるマインド・コントロールの入り口だとは気づかないまま、その教会を後にしました。自分の教会に帰って、「こんな素晴らしい教会があるんです」と紹介してしまいました。今になって、この教会に入った多くの若者が、時間を奪われ、お金を失くし、心に傷を負っていると知ったんです。

 

 実は、似たような教会があちこちで増えてきています。その多くが「繁栄の福音」というものを教えています。一言でいえば、「正しい信仰を持つ者は、神から健康と富を得る」という内容です。教会に献金すればするほど、自分自身も豊かになる。病気や貧困はその人のネガティブから来るもので、神に信頼してポジティブに生きれば、病は治り、お金持ちになれる……非常にシンプルで、分かりやすい教えです。

 

 病気が治らなければ、「祈りが足りない」と言われるわけです。病や貧困から抜け出せないのは、あなたの不信仰が原因だと言われるわけです。もしかしたら、ここにいる人の中にも、自分の病気が治らないのは、私が神を信頼し切れていないから……と思う人がいるかもしれません。私の人生が上手くいかないのは、私自身の不信仰が問題なんだ……と感じる人がいるかもしれません。

 

 同じクリスチャンでも、病気が治る人と治らない人がいる。幸福になる人とそうでない人がいる……それはなぜだろう? 今日は、そんな難問について考えさせられる出来事を聞きました。イエス様が、重い皮膚病にかかった人と、中風を患っている人を癒した話……どちらも、病の癒しに「信仰」が大きく関わってくる話です。

 

【病気の人は汚れてる?】

 最初に出てくるのは、全身重い皮膚病にかかった人……ハンセン病なのか、象皮病なのか、白癬なのかは分かりませんが、とにかく治療が困難な病であったことは確かです。旧約において、重い皮膚病にかかった人たちは、神様に背いて罰を受けた、というふうにみなされました。彼らは町の外に隔離され、他の人と接触を避けるよう命じられました。完全に治ったことが認められるまで、人の集まる所に出かけてはならなかったんです。

 

 つまり、重い皮膚病を患った病人が町にいること自体、重大な律法違反でした。ところが、この箇所に出てくる男に関しては、律法違反とも言い切れないんです。なぜなら、彼は一部ではなく全身が、重い皮膚病で「満ちていた」人だから……実は、レビ記13章にこんな言葉が出てきます。

 

 「もし、この皮膚病が皮膚に生じていて、祭司が見るかぎり、頭から足の先まで患者の全身を覆っているようならば、祭司はそれを調べ、確かに全身を覆っているならば、『患者は清い』と言い渡す」……そう、重い皮膚病を患った人たちは、治療が必要な「汚れている」状態なら隔離を命じられましたが、その症状が全身に回った「清い」状態なら、見た目はひどくても、みんなと一緒に生活することが許されました。

 

 だからこそ、彼は町にいても咎められることなく、律法違反で罰されることもなく、イエス様と出会うことができたんでしょう。けれども、全身重い皮膚病にかかったこの人は、決して自分を「清い」とは、みんなに受け入れられる状態とは思っていませんでした。たとえ、律法の規定では「清い」と認められていても、彼を調べた祭司たちは「清い」と宣言してくれなかったようですから。

 

 彼は病人だけれども、本来は「清い」と認められる状態で、認めてもらえない人でした。元ハンセン病患者の中にも、治療を終えて、もう感染しないことが判明しているのに、触れば感染ると恐れられ、避けられてしまう人がいます。「清い」けれど「清くない」……そんな状況で、彼はイエス様に叫ぶんです。

 

 「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」……イエス様、あなたは分かっているはずです。私は汚れた者じゃないことを! 神に呪われた者じゃないことを! あなたは神様が私を愛し、私を受け入れてくださることを、きっと証明してくださいます。

 

 彼の切実な願いは、訴えは、確かに「信仰」から来るものでした。イエス様は言います。「よろしい、清くなれ」……するとたちまち、重い皮膚病は去りました。イエス様は、今まで彼を「清い」と認めず、「神の罰を受けている」と思っていた人たちに、本当に清い身であることを示すよう、男にこう命じます。

 

 「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい」……あなたは汚れた人じゃない、神に赦されない罪人でも、呪われた者でもない。自分が神に愛され、赦された者であることを証明してきなさい! イエス様がこの人に願ったのは、単に病気が癒されることではありませんでした。この人が神様に赦された、愛されている存在だと、みんなに受け入れられることでした。

 

【たくさん救うチャンスなのに!】

 その後、この噂は一気に広まり、群衆は教えを聞いたり、病気を癒してもらうために、次々とイエス様のもとへ集まってきました。多くの人に伝道する絶好のチャンス、もっとたくさんの人たちを助けられる機会です。もし、私たちに病気を癒す力が備われば、ここで多くの人に奇跡を起こすことこそ、神の御心だと思うでしょう。

 

 でも、イエス様は違います。神様の力を示す絶好の機会に、人里離れた所に退いてしまうんです。ただ、祈るためだけに……誰かのために奇跡を起こした直後、イエス様はしばしば人気のない場所に行きました。5千人以上集まっていた群衆を、5つのパンと2匹の魚だけで満腹にさせてしまった。あの有名な奇跡の後も、すぐに群衆を解散させ、一人山に登って、祈っていました。

 

 噂を聞きつけて、もっとたくさんの人が集まってくるかもしれないのに。より多くの人に、神様のことを教えられるのに。貧しさと空腹、病に冒された人たちをもっとたくさん救えるかもしれないのに……イエス様は度々一人になります。なんてもったいないことするんでしょう?

 

 いえ、ちょっと思い出してみましょう。イエス様が5千人の空腹を満たして立ち去った後、そこには12の籠いっぱいに、余ったパン屑が残っていました。イエス様はこれを集めさせただけで、全く手をつけません。そこに残したまま立ち去ってしまいます。人々は考えたでしょう。自分たちの手元にあるこの糧をどうするか……そして、さらに分け与える相手を探したはずです。

 

 イエス様が願うのは、自分に権力が集中することではありませんでした。自分に癒してもらうため、自分に教えてもらうため、人々が我先にと争って来ることではなく、癒された者たちが別の誰かを助け、教えられた者がさらに誰かへ伝えていく……互いに愛し合う関係こそを、イエス様は求めていました。

 

【治ってないのに赦される】

 けれども、一旦イエス様が退いた後も、人々は次々とやってきます。人里離れたところから戻ってきたイエス様は、彼らのために、またエルサレムで教えたり、病気を癒したりするようになりました。イエス様がいた家は、群衆で阻まれて、覗くことさえできないほど、多くの人で溢れていました。

 

 するとそこへ、ある男たちが、中風を患っている人を床に乗せたまま運んできます。中風というのは、いわゆる脳出血や脳梗塞で、運動障害や麻痺、言語障害が出てしまう病です。動くこともしゃべることもできないため、生きていても仕方がない、神に見捨てられ、呪われてしまった……そういう評価を受ける存在です。しかし、彼を連れてきた友人たちは、そう思っていませんでした。

 

 もしかしたら、ちょっと非常識な友達だったかもしれません。大の男を床に乗せたまま担いでくるなんて、悪目立ちにも程があります。しかも彼らは、群衆に阻まれてイエス様のもとへ行けないからと、その家に登って屋根をはがし、床ごと病人を釣り下ろすんです……みんながイエス様の話に聞き入っているときに。

 

 「空気読めよ!」「今じゃないだろ!」「順番守れよ!」という話です。ある意味自己中、自分の友達のことしか考えていません。彼らは必死です。周りのことなんて見えないほどに。

 

 なあ、頼むよ……こいつは神に見捨てられた奴じゃない。呪われた奴じゃない。罪人なんかじゃないはずなんだ。イエス様、あんたなら分かるだろ? こいつを癒して、ここにいる連中に、みんなに、「こいつは神に愛されている」「赦される存在なんだ」って証明してくれよ!……彼らの思いは、信頼は、確かに「信仰」そのものでした。

 

 イエス様は、その人たちの信仰を見て言います。「人よ、あなたの罪は赦された」……これに対し、律法学者やファリサイ派の人たちは、あれやこれやと考え始めます。「神を冒瀆するこの男は何者だ? ただ神のほかに、いったいだれが罪を赦すことができるだろうか!」……実はこれ、正論なんです。罪を赦せるのは神お一人、本当にその通りなんです。

 

 当時の祭司だって、自分の意見で人の罪を帳消しにすることはできませんでした。ただ、神に赦されたかどうかを判断するのが、祭司の仕事でした。その判断基準が、病が治ったかどうか、体が清くなったと認められるかどうかだったんです。

 

 「あなたの罪は赦された」という宣言は、本来、その人が「清くなった」と認められる条件、病が治ってからじゃないと言えないものでした。それを無視して、罪の赦しを宣言することは、人間が神様の意志を、勝手に代弁するのに等しいことでした。にもかかわらず、イエス様は、まだ床に伏せている男に向かって、「あなたの罪は赦された」と言ってしまいます。

 

 旧約の専門家である律法学者やファリサイ派たちはギョッとします。何言ってんだ? 病気が治った後ならともかく、まだ汚れている男に向かって、「あなたの罪は赦された」なんてどうかしている! 神への冒瀆だ!……するとイエス様はこう言います。

 

 「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」……たぶん、その場で多くの人たちが期待するのは、むしろ「起きて歩け」という力強い言葉だと思います。それは、今すぐ病が治ること、回復することを予感させる言葉だからです。

 

 イエス様がそう言えば、その人は確かに治るでしょう。起き上がることができるようになるでしょう。もう散々、そういう奇跡を、イエス様は見せてきたんです。私たちも信仰深い人、ベテランの信徒や牧師から「あなたの病は癒されよ」と言われたら、思わず期待しますよね。もしかして、本当に治るかもしれないと。

 

 でもこれって、病気にかかっている当人に、ものすごくプレッシャーを与える言葉でもあるんです。なぜなら、起き上がることができなかったとき、床に寝ているままだったとき、それは、「私の信仰が足りなかったから」「私の努力が足りなかったから」と思わされるからです。

 

 「あの人は、○○さんに祈ってもらったのに、治らなかったね」……そんな言葉がささやかれるとき、その人は神様から赦されていないという評価を受けるかもしれません。でもイエス様は「起きて歩け」と言うより先に、「あなたの罪は赦された」と宣言します。起き上がれない、床に寝たままの人間が、十分神様の御心に適っている。もう赦されている存在だと言うんです。

 

 イエス様はわざわざ繰り返します。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」……不思議ですよね。イエス様は「病気を癒す権威」じゃなくて「罪を赦す権威」を持っていると言うんです。病気が治った人に「あなたの罪は赦された」と言うんじゃなく、まだ起き上がれない人に向かって「あなたの罪は赦された」と言うんです。

 

 見ていた人、聞いていた人は気づきます。ああ、この人は病気にかかっているときから神に愛され、赦されていたんだ。うちで寝ているあの人も、長年患っているこの人も、まだ癒されてないけれど、「赦された」って言われるんだ。……イエス様は、その後初めて、床に寝ている男に向かって命じます。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」

 

【赦された人は誰だろう?】

 今日、病気にかかっている人たちを「罪人だ」と言う人はそういないでしょう。しかし中には、自分が頑張っていないから、努力できていないから、病気が治らないと思わされ、苦しんでいる人もいます。「依存症」という病気にかかっている人たちもそうです。アルコール依存、薬物依存、ギャンブル依存、性依存……どれも、本人と家族の意志だけでは治りません。

 

 意志をコントロールする脳の機能が壊れているからです。骨折の治療に整形外科が必要なように、依存症も専門のサポートがないと治せません。でも、たいていは、その人が依存を止められないのは、その人が我慢できなかったから、意志が弱かったからという理由で片付けられてしまいます。

 

 私は罪人だ、清くなれない汚れた者だ、神様にも見放され、赦してもらえないだろう……そんな人たちに、「あなたには適切な治療が必要なだ」と呼びかけ、グループホームや入寮施設へ連れて行ってくれる人たちがいます。ちょうど、中風の人をイエス様のいる家まで連れて行った男たちのように……私が最近出会ったのは、岐阜ダルクの人たちです。

 

 学生の頃も何度か、薬物依存からの回復をサポートする、ダルクの人たちにお会いしました。薬をやめられない、クリーンになれない自分自身に苦しんでいる人たち……彼らの大半は、自分の罪が赦されるのは、薬を止められた、依存症が治った後だと思っています。けれども、そんな彼らに、イエス様は言うんです。「あなたの罪は赦された」と。

 

 イエス様を心の中で非難した律法学者のように、私たちはあれこれと考え始めるかもしれません。「いったい誰が、この人たちの罪を赦せるだろうか?」と。でも、イエス様は確かに宣言するんです。「あなたの罪は赦された。行って、共同体に帰りなさい」と。

 

 病が治った人、治っていない人との間に、「赦された」「赦されてない」という違いはないんです。むしろ、苦しい思いをして自分を責めている人に、イエス様は「あなたは確かに赦されている」と言うんです。イエス様の癒しは、あなたが赦され、愛されていることの宣言から始まります。あなたを癒すイエス様の業は、もう開始されているんです。この回復が、さらに豊かにもたらされますように。