ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『追い出しちゃダメでしょ?』 マタイによる福音書21:12〜17

聖書研究祈祷会 2019年3月13日

 

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【追い出したら困る】

普段優しくて穏やかな人が、突然誰かを排除する、誰かを追い出す話なんて、皆さん聞きたいでしょうか? 

 

信心深く思いやりのある人が、いきなり誰かの荷物をひっつかみ、めちゃくちゃにバラまいた挙句、その人を力尽くで追い出してしまう。相手を強盗呼ばわりし、「ここから出て行け」と怒鳴りつける。

 

もしもそれが教会で行われたら、みんなで止めるに決まっています。「ここは全ての人が招かれている教会です。追い出しちゃダメに決まっているでしょ! どうしたんですか? いつもは誰に対しても、優しく接しているじゃありませんか」……って。

 

けれども、これをやったのは神の子であるイエス様で、場所は同じく、全ての人が礼拝へと招かれている神殿です。みんなで集まり、みんなで祈り、みんなで神様を賛美する。

 

そのために造られたところから、一部の人たちを追い出した……誰もが一度は眉をひそめ、どう読んだらいいのか、頭を抱えるところです。

 

怒りや暴力からほど遠い存在、誰よりも、思いやりと優しさに満ちた方……そう思われたイエス様が、あろうことか、そこで売り買いしている人たちを皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けまで全部倒してしまいます。

 

クレイジーな行動をとったイエス様の言い分はこうです。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」

 

本来は、神殿の奥にまで入れなかった女性や子ども、外国の人たちが礼拝するために備えられた場所が、商売の道具に占領されている。弱い者が追いやられ、祈れなくなっている。こんなことあっていいはずがない! そう声高に訴えるんです。

 

なるほど、確かに弱い者、貧しい者が追いやられている状況を、ほっとくわけにはいきません。

 

今まで弱者を追いやってきた者たちが、訴えられ、非難され、足元から覆される。本来の正しいあり方を取り戻すために、追い出される。そう考えたら、イエス様のやったことも、納得できないことはありません。

 

しかし、イエス様に追い出された人たち、両替人や鳩を売る者、そこで売り買いしていた人たちは、たまったものじゃありません。

 

いくらお金のやりとりとはいえ、彼らは神殿における礼拝で、居てくれないと困ってしまう存在です。たとえ、幾らか横暴さがあったとしても、追い出すわけにはいかない人たちでした。

 

両替人がいなければ、ローマ皇帝の肖像が刻まれた貨幣を、礼拝にふさわしいシンプルな貨幣と交換できません。鳩を売る者がいなければ、羊や山羊をささげられない、遠くから来た貧しい者たちが、ささげものを用意できません。

 

神様にささげる犠牲には、無傷のものしか使うことができず、素人が自分で用意することは、ほぼ不可能だったんです。

 

両替人や鳩を売る者は確かに、弱い者、貧しい者が礼拝する場所に、ドカッと腰を下ろしていましたが、そこにいないとみんなが礼拝できなくなってしまう……そんな役割を担っていました。

 

彼らこそ、遠くから来た貧しい人たちのために、必要なものを用意する存在でした。女性や子ども、外国の人たちには、ちょっと悪いですが、我慢してもらうしかありません。

 

【追い出されたのは誰?】

誰かが追いやられ、蔑ろにされている状況……それはどんな理想を持った団体にも潜んでいます。

 

社会のため、自由のため、人権のため、あるいは子どもたちのために、誠実な働きをしているところだって、賃金が安い、残業代が出ない、長時間の労働で、有給申請は気安くできない、そんな環境が普通にあります。

 

営利を目的としていない、ボランティア精神やキリスト教精神という名の下で、個人の我慢と良心にぶら下がっている……というか、そうしないとやっていられません。

 

追いやられた人がいるなんてとんでもない! 私たちは、この仕組みでやっていくしかないんです。みんな我慢していくしかないんです!

 

イエス様が暴れまわったエルサレム神殿、私たちが属するそれぞれの会社、サークル、福祉施設……実はそんなに変わりません。みんな言い訳するでしょう。

 

イエス様、私たちの場所を引っ掻き回さないでください! そんなことしたら、礼拝が、活動が、運営が、できなくなってしまいます!

 

もしも、私たちの教会で「追いやられた者」がいるとしたら、この教会で、穏やかに祈れない、安心して礼拝に出られないと感じる人がいたとしたら、イエス様が追い出すのは誰でしょう?

 

真っ先に、そういう状況を作り出す人間として考えられるのは、牧師をしている私です。

 

私の一言、私の対応一つで、教会から追い出される人たちがいます。無意識にせよ、意識的にせよ、何らかの責任を取らねばなりません。でも、だからと言って、私をイエス様が追い出したら……みんな困りますよね?

 

メッセージをする人がいない、法人の手続きをする人がいない、聖書を教える人がいない……だから、牧師に追いやられ、傷つけられた人がいても、ちょっと悪いけれど、我慢してもらうしかない。

 

あるいは、逆のパターンもあるでしょう。牧師が追い出された教会、牧師を追い出した教会……中心となった人たちは、その教会にいてくれないとみんなが困る、みんなが途方に暮れてしまう、それくらい重要な役割を担っている。

 

だから、牧師とその家族には悪いけれど、波風立てず、穏やかに退いて、我慢してもらうことにしよう。

 

そう……イエス様が誰かを追い出したとき、困るのは私たちなんです。神殿から両替人や鳩を売る者がいなくなって、みんなが困ったのと同じように。あるいは、私たち自身が追い出される者なんです。

 

たぶん最初は、イエス様に追い出された商売人や両替人、彼らに自分を重ね合わせる人は、ほぼいなかったと思います。むしろ、神殿の境内で追いやられ、祈れなくなっていた女性や子ども、外国の人たちに、自分を重ね合わせた人が多いでしょう。

 

教会は、まさにそうした人たちを受け入れる、追いやられた者を励まし支えるための場所でもあります。しかし、一度ここに身を置けば、実はこの中にも、居心地の悪さ、追いやられた気分を味わう人がいることに、気づいてしまうかもしれません。

 

いやいや、そんなことはない。教会は私に居場所を与えてくれた、大切なつながりを与えてくれた場所だった!

 

そう言う人もいるでしょう。そのとおりです。ここはもともとそういう場所です。エルサレム神殿も、もともとは「祈りの家」と呼ばれるところでした。本来は……。

 

【みんなどうなった?】

私たちが気になるのは、イエス様に追い出された両替人や鳩を売る者、そこで売り買いしていた人たちは、その後どうなったのかという話です。

 

彼らは商売道具をめちゃくちゃにされ、少なくとも、その日一日は仕事ができなくなったはず。

 

両替人は境内に散らばった貨幣を慌てて集め、ローマの貨幣とイスラエルの貨幣が混じってしまったことに、大きく溜息をついたでしょう。これでは礼拝にふさわしい貨幣の交換ができない……

 

鳩を売る者は倒された腰掛けをしまい、売り物に傷がついていないかを確認し、何羽かの鳩が、無傷のささげものではなくなったことに、やはり溜息をついたでしょう。これでは人々にささげものを提供できない……

 

もう今日は家に帰るか、このまま日が沈むまでボーッとしているしかありません。自分たちにできることはなくなったんです。

 

とはいえ、人々にささげものを提供するはずの自分たちが、神殿に断りなく帰ってしまうわけにはいきません。だからと言って、商売道具を抱えてもう一度中に入れば、再びイエス様に追い出されてしまうでしょう。

 

商売ができなくなった彼らは、境内の外で途方に暮れていました。この時間をいったいどうやって過ごしたものか?

 

一つだけ、彼らにできることがありました。境内の外に商売道具を置いて、さっきまで自分たちが腰掛けや台を広げていた場所に戻り、みんなと一緒に祈ることです。

 

忘れてしまいがちですが、彼らは遠くから来た人にささげものを提供するため、自分たちも礼拝できずにいたんです。

 

同じ時間、境内の中にいるにもかかわらず、次々とやってくる人々への対応に追われ、静かに祈ったり、礼拝したりすることができない日々を送っていました。周りに必要とされる役目や評価と引き換えに。

 

恐る恐る、手ぶらで境内の中に戻って来ると、そこには目の見えない人や足の不自由な人たちが集まっていました。普段は「汚れている」「神様の罰を受けている」とみなされ、神殿に入ることが許されない人たち。

 

彼らが次々と集まって、イエス様に癒され、女や子ども、外国の人たちと一緒に祈っている。自分たちを憐れみ、助けてくださる神様に、感謝と賛美をささげている。

 

神殿から追い出される経験をした商売人たちは、追いやられた者の怒り、悲しみ、恥ずかしさを、身をもって知ることになりました。

 

その後で、ささげもの一つ用意できない、自分たちが追い出してきた障害者が、神様の癒しと憐れみを受けている場面に遭遇します。彼らのささげる祈りと賛美を目の当たりにします。

 

自分も今は、商売道具を置いてきて、何一つ持っていない身です。「祈りの家」を「強盗の巣」にしていると訴えられた、汚れた者です。

 

そんな自分たちの前で、汚れた者、追いやられていた者たちが癒され、回復され、共に歌い、共に祈る者となっている……子どもたちまで、「ダビデの子にホサナ!」と叫んで賛美している。

 

神様が求める本当のささげものを、彼らが知った瞬間でした。イエス様に叱られて、追い出された私たちは、私たちが追いやってきた人たちを先頭に、本当の礼拝へと招かれます。

 

私がどれだけ役に立っているか、どれだけ組織に貢献しているかは、この招きと関係ありません。

 

私のしがみついている「追い出されなくて済む理由」は、イエス様にとって、そこまで重要じゃないんです。むしろ、私がしがみつこうとするものは叩き落とされ、蹴り倒され、裸にされてしまいます。

 

「そうじゃない、私はあなたが役に立ち、貢献しているから招くんじゃない。私は何一つ持たない、手ぶらのあなたが祈りに来るのを招くんだ。」

 

【祈りの家って何?】

祭司長や律法学者たちは、この光景を見て腹を立てます。ふさわしくない者たちが、ふさわしくないまま神殿に入り、ささげものも持たずに礼拝している。彼らは何も分かっていない。

 

女も、子どもも、障害者も、神殿の秩序を乱したイエスに向かって、「ダビデの子、ばんざい!」なんて叫んでいる。彼らの祈り、彼らの賛美は、知恵も権威もない空っぽの言葉だ。今すぐここから追い出さねばならない。

 

しかし、イエス様は言われます。「あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」

 

ここは本来、追い出された者が迎え入れられ、欠けていた者が回復され、手ぶらの者が賛美で満たされるところではなかったか? あなたたちは誰を追い出し、誰を迎え入れているのか?

 

便利な人、従順な人、金や奉仕を迎え入れ、見栄えが悪く、何も提供できない人たちは排除する……そんな空間を作ってないか?

 

あなたも今、出て行きなさい。境内の外で荷物を降ろし、手ぶらになって帰ってきなさい。神様が求めるささげものは、空っぽになった手を合わせ、あなたが祈るその祈りだ。

 

私たちも今、ここから追い出されようとしています。あなたがしがみつく役目や評価をひっくり返し、両手を空にして戻ってこれるように。私が追い出してきた人たちと、ここでもう一度祈れるように。

 

私たちの教会は「祈りの家」となるべきです。「強盗の巣」のままではいられません。日曜日、ここに帰って来るとき、今度は私たちが叫びましょう。「ダビデの子よ、どうか救ってください!」と。