ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『自分を捨てる?』 イザヤ書63:7〜14、ルカによる福音書9:18〜27

礼拝メッセージ 2019年3月24日

 

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【自分を捨てたら上手くいく?】

 「自分を捨てなさい」という教え、人生で一度は聞いたことがあると思います。自分を捨てて、無私無欲に生きなさい。そうすれば、あなたの人生は円滑に進むでしょう。

 

 キリスト教でも、仏教でも、儒教でも似たような教えがあります。何なら、駅前の書店に並ぶ自己啓発本にも出てきます。

 

 『自分を捨てたら人生変わる』『自分を捨てれば周りも変わる』『自分を捨てて性格変えよう』……そんなキャッチフレーズ、皆さんもよく目にするはずです。

 

 自分を捨てたら、仕事も人間関係もあらゆることが上手くいく。心は穏やかに、頭は整理され、自分を取り巻く環境や身の回りの関係性も、だんだん改善されていく。なかなか素敵なことですよね。

 

 でも自分を捨てるって、そう簡単にはできません。これがほしい、あれもほしいという願望。あの人やこの人に認められたいという思い。誰に何を言われても絶対に曲げたくない意見……

 

 きっと捨てれば楽になる、手放せばもう少し自由になる、そう分かってはいるけれど、私は自分を捨てれない。自分自身を手放せない。

 

 部屋の掃除をするときでさえ、私物を捨てられない私たちです。「これは捨てるべき」「あれは捨てちゃダメ!」そんなマニュアルが欲しくなります。下手に捨てたら、後で困るかもしれない、取り返しがつかなくなるかもしれない。

 

 物理的な物でさえ、何を捨てたらいいのか決められないのに、自分の中にある欲や感情、思考なんて、どれを捨てたらいいのか誰にも分かりません。

 

 だから、自分の代わりに捨てるべきものを指示してくれる、誰かの判断が欲しくなる。そんなとき、こういう人が現れます。「自分を捨てて、私についてきなさい!」

 

 一瞬、ありがたく感じますが、これって冷静に考えると、けっこう恐ろしい言葉です。自分で考えること、自分で判断することを止めさせて、言うことを全て聞くように誘導する。そんな話に聞こえてきませんか?

 

 私たちは「自分を捨てなさい」と言われると、自分自身の感情や思考や判断は「良くないんだ」と感じます。

 

 私が思っていることは、私が願っていることは、私が考えていることは、どれも良くないものなんだ。間違った感情は捨てなきゃならない。正しくない思考は手放さなきゃ……そうして、自分をコントロールする誰かのもとへ下ります。

 

【自分を捨てろと言う人たち】

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」……イエス様が命じたこの言葉、正直言うと私はゾワゾワするんです。

 

 だってこれ、強烈な支配関係を生み出す言葉ですよね? 何かを捨てさせるって、自分への依存を高める最も効果的な手段です。

 

 趣味を捨てさせる、友人を捨てさせる、叶えたい夢を捨てさせる……DVやデートDVで、加害者が最初に始める行為です。

 

 「そんなことも分からないのか?」「またこんな馬鹿やったのか?」息を荒げ、言葉を積み重ね、いかに相手の思考や判断が正常でないかを叩き込み、その人の自信や自尊心を捨てさせる。こちらの指示から逃れられない、マインド・コントロールの手法!

 

 恋人を捨てさせる、仕事を捨てさせる、今まで身につけていた大切なものを捨てさせる……これも、マインド・コントロールを行う破壊的カルトの手口です。

 

 キリスト教会の中でもやってしまうことがあります。神様のために何かを捨てさせる。献身の証に、イエス様に仕える証に、その人に何かを捨てさせる。

 

 色んな集会で美談として語られますが、もしかしたら神様への服従ではなく、組織や集団に従うかどうかを確認する手段になっているかもしれません。しかも、何かを捨てさせようとする人たちほど、案外自分を捨ててない。

 

 怒りや執着にまみれていたり、すぐに誰かを裁こうとしたり……牧師も陥りやすいし、ベテランの信徒も陥りやすい事態です。

 

 真面目な人ほど「自分を捨てなさい」という言葉で、自分や誰かを他人のコントロールに置こうとするでしょう。

 

 イエス様が、将来自分を苦しめて排斥し、殺してしまうだろうと言った人たち、「長老」「祭司長」「律法学者」……彼らもまた、人々に対して善意から、親切心から、「自分を捨てなさい」と言ってきた人たちだと思うんです。

 

 あなたの考えではなく私に従いなさい、私の方が聖書をよく知っているから。我々の方が妥当で正統的な考えを持っているから。彼らはこう言ってきます。「伝統や慣習に対する批判や不満は一切捨てなさい、我々と違う勝手な意見を主張してはならない」

 

「神殿や祭司が支持することに疑問を挟むな、あなた個人の違和感や道理に正当性はない」「あなたが受けた被害や暴力を声高に訴えるな、あなた個人の声に組織が振り回されてはならない」

 

 「自分を捨てる」って言葉は便利ですよね。考えるのを止めなさい、言われたことをただ聞きなさいって受けとめてもらえるから……実は、会社でも、学校でも、家庭でも、色んなところで都合よく勧められている姿勢です。

 

【自分の何を捨てたらいいの?】

 でも、イエス様が言ったのはそういうことじゃないようです。だって、イエス様が人々に教えたのは、自分の頭で考えないと理解できないたとえ話……「これはこういう意味である」と教えてくれたのはごく僅か。

 

 ほとんどのたとえ話については、その意味を言ってくれません。弟子たちへ説明してくれたたとえ話も、最終的にどの意味で捉えるかは結局自分で考えるようになっています。

 

 やるべきこと、行うべきことについても「これをするにはああしなさい」「あれをするにはこうしなさい」と細かく命じることは、ほとんどありませんでした。

 

 イエス様の指示ってたいてい中途半端で、実行しようとする人間が、相当自分の頭で考える必要がありました。そもそも、旧約の時代から神様が人々に教えることって、だいたいそうでしたよね?

 

 悪から離れ、善を求めよ!……でも、悪って具体的に何ですか? 何をしたら善になるんですか? その辺の詳しい話はなかなかしてくれません。神様もイエス様も、私たちから自分で考える責任を取り上げたりしないんです。

 

 私の言うことにただ従え、私の教えることに疑問を挟むな……そんな態度をとったのは、どちらかというと人間の方でした。

 

 むしろ、イエス様は弟子たちに対して、けっこう自由に疑問を口にさせました。「それってどういう意味ですか?」「そんなの無理に決まってます!」

 

 イエス様の教えに戸惑い、驚き、つまずいた弟子たちは、何度もイエス様に問いかけました。イエス様はその口を閉ざさせることはありませんでした。

 

 また、弟子たちは自らヒエラルキーを作って、イエス様に仕えようとしました。イエス様の次に偉いのは誰なのか、自分たちの中心になる弟子は誰なのか、しょっちゅう口論し、喧嘩をしていました。そんなとき、イエス様が彼らに言ったのはこんな言葉でした。

 

 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子(わたし)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」

 

 誰かを支配し、誰かに支配される関係……そのあり方そのものを「捨てなさい」と言われました。

 

 ちょうど、最初に読まれたイザヤ書63章7節から14節には、イスラエルの民がエジプトの奴隷であったとき、その支配関係を打ち壊し、人々を脱出させた神様の姿が描かれていました。

 

 実は、出エジプトにおいて、イスラエルの民は何度も自分から、エジプトの奴隷に戻ろうとしていました。自由と解放の道を捨てて、自分たちが予想できる安定した暮らし、変わらない支配関係の方を選ぼうとしました。

 

 神様はその度に、捨てるべきなのはあなたが囚われている人間の支配だと訴えました。その支配とは、結局「死」に対する人間の恐怖、安定した「生」を求める私たちの呪縛だったんです。

 

【自分を捨てたイエス様】

 人間は皆、自分自身がいつか死ぬという事実に支配されています。この恐れから逃れるために、多くの人が誰かにコントロールされています。

 

 しかし、イエス様はまさに、人を支配しコントロールしてきた力、死の力を捨て去るために、自分自身の命を捨てに行きました。

 

 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」

 

 こんなこと言うのを聞いて、この人について行けば大丈夫と思う人が、どこにいるでしょうか? イエス様は3度、自分が十字架につけられることを予告し、自分に従おうとする人たちを戸惑わせます。

 

 どういうこと? 何言ってるの? 私この人に従っていて大丈夫かな……普通は、奇跡や癒しの業を行えば、「救い主メシア」と認められれば、多くの人がその人に従おうと集まってきます。

 

 しかし、イエス様は無批判に自分のコントロールを受けようとする人たちに不安をもたらします。自分が人間的な支配者として立つことを拒否します。

 

 むしろ、自分は犯罪者として十字架にかかり、人を支配する場所から最も離れたところに身を置くんだと語ります。

 

 裏切られ、見捨てられ、誰一人コントロールできない孤独な立場。そこに身を置き、誰よりも低く、誰よりも卑しく、誰よりもみすぼらしい状態になる。神の子でありながら、あらゆる支配権を手放してしまう。

 

 そうして、槍で突かれ、釘を打たれ、死の世界へ下ると言うんです。けれども、同時にイエス様は、自分が3日目に復活し、死の支配を捨て去ることを予告します。誰もが恐れる死の力を、徹底的なものじゃなくします。

 

 イエス様はかつて、悪魔の誘惑を受けたとき、自分に従えば世界を好きに支配させようという誘いを断りました。神様以外のものに支配され、別の誰かを支配する……そんな自分を捨て去ったんです。

 

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」

 

 自分の命を救いたいと思うとき、私たちは死を恐れています。死の支配下にあって、なるべく苦痛の少ないコントロールを受けようと行動します。

 

 しかし、イエス様に従う人は、むしろ死の支配が徹底的じゃないことを信じて、新しい生き方を促されます。神様以外のものに支配されようとする自分、神様じゃないのに誰かを支配しようとする自分に、抵抗し、打ち勝ち、真実を叫ぶ力。

 

 「自分を捨てなさい」というのは、あなたのうちに湧き出てくる感情や思考や問いかけを否定することじゃないんです。だって、イエス様が捨てたのは、不義に対する怒りや涙や違和感ではなかったから。

 

 みんなの前で憤り、怒り、涙を流して叫んだから。たとえそれが、外からの権威の怒りを買って、自分の生を揺るがすことであっても。

 

 「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」……皆さんが背負う十字架は何でしょうか? あなたが捨てるべき自分とは何でしょうか?

 

 キリストの十字架と苦しみを思い起こす受難節のこの期間、私たち自身が負うべきもの、捨てるべきものにも、想いを馳せたいと思います。