ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『顔が光るって怖い』 出エジプト記34:29〜35、ルカによる福音書9:28〜36

礼拝メッセージ 2019年3月31日

 

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【なぜ光らせた?】

 「顔が光るって怖い」このタイトルを聞いて、礼拝メッセージにつけられた題だとは普通思わないでしょう。

 

 だって、見るからにふざけてる。真面目な話には聞こえない。どちらかと言えば、バラエティーやお笑い番組のテロップに出てきそうな言葉。そりゃそうです、普通人間の顔は光りませんから。

 

 よほどの厚化粧で光が反射してしまうか、顔に蛍光塗料でも塗らない限り……でもこれ、既に皆さん聞いたように、聖書に出てくる大真面目な話からとったタイトルなんです。

 

 イエス様が、弟子たちの中でペトロとヨハネとヤコブだけを連れて山に登ると、いきなり顔の様子が変わって光り始める。

 

 同じ出来事を記したマタイによる福音書の並行箇所では、もっとダイレクトに書いています。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝いた」

 

 顔が変わった?太陽のように輝いた? 何だそりゃ? ってなりますよね。シンプルに「全身が光り輝いた」と書いてくれたなら、もうちょっと印象が変わったでしょう。

 

 何か特別な力が覚醒するとき、かっこよくその人の姿が輝き始める。光に包まれて変身する。それだったら、子ども向けヒーロー番組に出演させたって大丈夫。いかにも聖人や英雄にありそうな奇跡です。

 

 でも、このシーンはなぜか、イエス様の「顔」が変わったことに焦点を当てます。服も一緒に輝き始めたのに、わざわざ「顔」の変化を強調するんです。知っている人の顔が変貌するという、ちょっと恐ろしい出来事を。

 

 赤ちゃんだったら泣きだしてしまいます。皆さんだって今、目の前で私の顔が変わってパァーッと輝き始めたら「奇跡だ!」「神秘だ!」とか感動する前に、「やべえ!」「まじ怖ぇ!」って逃げ出すでしょ?

 

 それか、腰が抜けて立てなくなるか。あるいは「これって夢か?」「現実か?」と自分の見ているものを疑い始めるか。

 

 実はこのとき、もう一つヤバい出来事が起きていました。それは、もうこの世にいないはずのモーセとエリヤが現れて、イエス様と一緒に話しているというシーン。

 

 でも、イエス様の顔が光り輝くというインパクトが強すぎて、その後の出来事がうまく頭に入ってくれません。

 

 ちょっと待って! イエス様の顔が光って、着ている服も真っ白になって、そこにモーセとエリヤが現れた? 

 

 色々渋滞しています。顔の様子が変わっただけで、もうついていくのが精一杯……そもそも何で顔を光らせた? 神様の考えていること、やろうとしていることが分かりません。

 

【訳がわからない】

 実は、山の上で顔が光ったという経験を持つ男は、イエス様だけじゃありませんでした。この時、どこからか急に現れてイエス様と一緒に話し始めた、ずっと昔にこの世から去っていたはずのモーセ……

 

 彼もまた、かつて山の上で神様から掟の板をもらったとき、同じような体験をしたことが書かれています。

 

 「モーセは山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかった」

 

 自分でも気づかないうちに顔が光っていたなんて、何とも恐ろしい話です。周りにいる人たちもやっぱり近づくことができません。

 

 「誰あれ?」「何で顔が光ってるの?」「化け物か?」……そんな騒めきが聞こえる中、モーセは慌てて呼びかけます。「私だ、お前たちの知っているモーセだよ。神様から掟の板を貰って帰ってきたんだ」……

 

 人々は恐る恐る戻ってきます。顔が光っているせいで、話を聞いてもらうのも一苦労。モーセはようやく、山の上で神様から語られたことを伝え始めます。

 

 とはいえ、聞いている人たちの耳に、どれだけその言葉が入ってきたでしょう? なにせ、顔の光っている人間から話を聞くんです。気になってそれどころじゃありません。

 

 実際、顔の光っているイエス様が、モーセやエリヤとしゃべっていたのは、エルサレムで自分が殺されてしまうという聞き捨てならない話でしたが、弟子たちは完全にスルーです。

 

 むしろ眠気に襲われていた彼らは、これが現実なのか夢なのか分かっていなかった節さえあります。

 

 そりゃそうです。眠い目をこすってイエス様の方を見たら、そこにいるのは顔の光っている誰かさん。なぜかこの世にいないはずのモーセとエリヤも一緒にいる。素直に現実を受けとめろという方が無理な話です。

 

 ペトロは自分でもよく分からないことを口走ります。

 

 「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのためです」……本当に何を言っているのか分かりません。いったい何がしたくてそんなこと言ったんでしょう?

 

 ペトロ自身にも分からないほど、彼の頭は混乱していました。ただ、気持ちは分かります。仮小屋を3つ建てる。3人を隠す「覆い」を作る。

 

 顔の光っているイエス様、この世にいないはずのモーセ、同じく天に挙げられたはずのエリヤ……彼らと自分との間に覆いを作る。そうすればようやく一息ついて、俺が見たものは何だったんだ? と考えられる。受け入れる余裕が生まれてくる。

 

 モーセだって、自分の語り終わった後は、光っている顔に覆いをかけました。そうでもしないとみんな落ち着いて話もできなかったでしょう。

 

 ペトロが3人に仮小屋を作ろうとしたのは、そこまで意外な話じゃないんです。それだけ受け入れにくい出来事が目の前で起きてたんですから。本日3回目ですが、もう一度だけ言わせてください……神よ、なぜ顔を光らせた?

 

【顔が変わったもう一つの話】

 基本的に、光は私たちの周りにある様々なものを照らして、見えなかったものを見えるようするありがたいものです。

 

 しかし、光っている物体そのものは、光っているゆえに直視することができません。太陽を見つめることができないように、イエス様の顔も眩しくて直接見ることができなくなります。

 

 たとえ前から知っていた人物でも、顔が光り始めたら正体が分からなくなるんです。そう、光で目が遮られるから……

 

 確かめる方法はただ一つ、その人の声を、言葉を、話を聞くことです。しかし、必ずしもそれで気づけるとは限らない。むしろ、一度目を遮られた人間は、自分が聞いていること、直面していることになかなか気づくことができません。

 

 実は、イエス様の顔の様子が変わったのは、この時だけじゃありませんでした。よく似た出来事を、皆さん既に知っているはずです。受難節の間、イエス様の十字架と苦しみを思い起こし、自分の罪を悔い改めながら待っている、あの日の出来事。

 

 そう、イエス様が復活したことを記念するイースター。あの日、復活したイエス様が目の前に現れても、最初は誰一人気づくことができなかった。

 

 ルカによる福音書24章後半に、2人の弟子たちが復活したイエス様と出会った話が書かれています。

 

 この日、彼らはエルサレムから遠く離れたエマオという村へ向かっていました。歩きながら、自分たちの従っていたイエス様が捕えられ、訴えられ、十字架にかけられて殺されてしまったことについて話していました。

 

 ちょうど、山の上でモーセとエリヤがイエス様の最期について話していたように……そこへ、復活したイエス様ご自身が近づいてきて、一緒に歩き始めます。

 

 しかし、2人の目は遮られていて、イエス様だと気づくことはできません。イエス様はさも他人事かのように「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか?」と聞いてきます。

 

 2人はイエス様に向かって、本人が十字架につけられてしまったときの話をします。目の前で話している相手が誰なのか気づかずに。

 

 2人から見ると、イエス様は別人のように顔の様子が変わっていたのかもしれません。残念ながら、声を聞いても分からなかったみたいです。

 

 イエス様はぼやくように言われます。

 

 「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことをすべて信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」……そして、聖書全体にわたって自分のことがどう書いてあるのか教え始めます。

 

 ここまであからさまにやっても、彼らはまだイエス様だと気づきません。いくら顔の様子が変わっていたとはいえ、さすがに鈍すぎる感じがします。

 

 目の前に希望があるのに、愛する人が生き返ったのに、彼らはその事実を直視することができません。なぜでしょうか?

 

 彼らの中には、イエス様が捕まったとき、訴えられたとき、十字架につけられたとき、見捨てて逃げてしまったという負い目がありました。最後まで従うことができなかった情けない現実がありました。

 

 もう一度イエス様と出会うには、乗り越えられない壁がありました。自分にイエス様との再会が赦されるなんて、思ってもいなかったんでしょう。

 

【顔を見られない】

 先日、中部教区のバイブルキャンプで、小さい頃に自分の友人を見捨ててしまった話を講師の人がしてくれました。二人で自転車に乗って遊んでいたとき、友人が転倒して、腕が反対方向へ折れてしまったんです。

 

 まだ小さかった彼はパニックになり、友人を置いて自分だけ家へ帰ってしまいました。そのまま誰にも話すことができず、どうなったのかずっと心配していました。

 

 次の日、学校へ行くと、友人が骨折で入院したことを知らされました。自分が見捨てて逃げたことは、誰一人知りませんでした。

 

 それからしばらくして、友人は無事に退院し、前と変わらず動けるようになりました。しかしそれ以降、彼は友人の顔が見られなくなったそうです。それまではずっと一緒に遊んでいたのに、あれから一度も話せていない……

 

 かつて、モーセの顔が光を放つようになったのは、人々が彼の言いつけを破ってしまった後でした。神様の代わりに金の子牛の像を作って、それを拝んでしまった罪。

 

 取り返しのつかない過ちを犯した民は、モーセのとりなしによって何とか全滅を免れました。しかしその後、彼らがモーセの顔を直視することはできなくなりました。神様から、新しく掟の板を授けられた後も。

 

 私たちは、自分の中にどうしようもない罪を認めたとき、誰かに顔を向けることができなくなります。光は容赦なく影を暴き、見つめ難い自分の罪を照らします。

 

 私たちの代わりに、罪の罰をその身に受けて、十字架にかかったイエス様の顔は、あまりに眩しくて見られません。近づくことさえ、赦されていない気がします。

 

 ところが、イエス様は私たちの目を遮って自ら接近してきます。エマオの途上で2人の弟子たちと話し始めたイエス様は、そのまま彼らと宿へ泊まり、一緒に食事を始めます。

 

 やがて、イエス様がパンを取り、賛美の祈りを唱えてそれを裂き、2人にお渡しになったとき、弟子たちはようやく目が開け、イエス様だと分かります。

 

 なぜ、その時に目が開けたのか? それは、イエス様が十字架にかけられる前、最後の夜に食事をした風景を思い出したからです。

 

 「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」そう言って、弟子たちのためにパンを裂かれたイエス様。

 

 「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」そう言って、弟子たちのためにぶどう酒を分けられたイエス様。

 

 あの時、自分たちが見捨てて裂かれたイエス様の体……あの時、自分たちが見捨てて流されたイエス様の血……その体と血が、今もう一度与えられた。

 

 自分たちのために、もう一度パンと杯が渡された。その瞬間、弟子たちは自分の犯した罪が赦され、関係を回復されたことを知ったんです。イエス様と、顔と顔を合わせて話す関係に。

 

 山の上でイエス様の顔が光って、モーセやエリヤと共に自分の最期のときについて話し始めたこの出来事……実は、エマオの途上でイエス様と2人の弟子が出会う復活の出来事を準備しているんです。

 

 やがて自分の顔を見られなくなる弟子たちに、「死」という隔たりを乗り越えて、もう一度顔と顔を合わせる日が来るように。信じられない再会を信じることができるように。

 

 光り輝くイエス様に、顔を向けられない私たちへ、その目を遮ってでも接近してくるイエス様……この方の赦しがあるからこそ、私たちは本来見つめることのできない自分の罪と向き合う力が与えられます。

 

 復活の出来事が死を見つめる力を与え、赦しの出来事が罪と向き合う力を与える。神様は、この方を指してこう言います。

 

 「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」……私たちも、聞きましょう。この方の招きを、呼びかけを。