礼拝メッセージ 2019年4月7日
【教会の不祥事】
先に断っておきます。今から話すのはけっこうきつい話です。なかなか希望が見えないかもしれません。でも、どうか最後まで聞いてください。受難節第5週目を迎えた今日、私たちが見つめるべき自分の姿、共同体の姿をもう一度振り返っていきましょう。
ここしばらく、キリスト教会の不祥事が報道されています。聖職者による児童への性的虐待、修道女に対する性暴力。
牧師から信徒に行われたレイプ、セクハラ、金銭トラブル。教会員の間でもDVやいじめ、それらの隠蔽体質など、枚挙にいとまがありません。
教会は愛に満ちた共同体ではなかったのか? 人々を救ってくれる場所じゃなかったのか? 多くの人の怒り、失望、無念の声が聞こえてきます。海外ではデモにまでなっています。
華陽教会では今のところ、誰かが暴力を受けたとか被害を受けたとか、そういう話は聞きません。献金の強要も、訴訟に発展するような問題も、私の知る限りではありません。
でもそれは皆さんが言い出せないだけで、あるいは私が聞かないようにしているだけで、今もこの場で、傷つけられている人がいるのかもしれません。
なにせ、私たちは救いを求めてここに来る。日曜日は安心して過ごしたい。自分自身や仲間の誰かが加害者になっている状況なんて、できれば考えたくはない。
そもそも教会とは、聖なる暖かい場所だから、ひどいことなんて起きないはず……でも、それが幻想であることを私たちは知っています。
聖なる場所にいる人が、聖なる者とは限らない。むしろ、聖なる場所に来ただけで、聖なる者になれはしない。皆さんもよくご存知です。それはあなたのことであり、私自身のことですから。
【教会とイスラエル】
「聖なる国民」「神の民」と呼ばれた人たちがいました。かつて神様から選ばれた中東の小さな国イスラエル……彼らは神様に導かれ、助けられ、守られていることに応答し、神様の与えた掟、「律法」を守るよう求められました。
「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」
聖なる国民たる彼らは、この教えに背かないはずの人たちでした。しかし彼らは、神様の遣わした預言者から、何度も告発を受けるようになります。
あなたがたは貧しい人を奴隷にし、子どもたちに食べさせず、罪のない人たちを苦しめている。夫を失った女性から搾取し、不当な裁判を行って金品を巻き上げている。神から離れ、偶像を拝み、大国の権威にすり寄っている。不正に対して目を背け、見て見ぬ振りを続けている。
悔い改めよ。神に立ち返って、正義と公正を求めなさい……繰り返し、預言者から警告されたにもかかわらず、イスラエルの人たちは自分の生き方を変えませんでした。
繰り返し、被害者から、支援者から、ジャーナリストから警告を受けた教会が、それでも問題を放置し、隠蔽し続けてきたように。
神様は自分に背き続けるイスラエルに、とうとう裁きを下します。紀元前721年、北王国イスラエルはアッシリアによって滅亡し、紀元前587年には、南王国ユダもバビロニアに滅ぼされました。
国家の滅亡によって、神の民であったイスラエルは、もはや聖なる国民とは呼べない状況に陥りました。
「エルサレムは罪に罪を重ね、笑いものになった。恥があばかれたので、重んじてくれた者にも軽んじられる……」文字通り、身から出た錆び、因果応報、自業自得。人々は後悔して叫びます。
「背いたわたしの罪は御手に束ねられ、軛とされ、わたしを圧する。主の軛を首に負わされ、力尽きてわたしは倒れ、刃向かうこともできない敵の手に引き渡されてしまった」
最初に読まれた哀歌の言葉。読んで字のごとく哀しみの歌です。しかも、理不尽な苦しみではなく、自分たちの犯した罪と怠慢の結果、招いた不幸を嘆いている……これほど悲しい歌はありません。
周りの同情を誘おうにも「まあ、それだけのことをやったからね」という目で見られてしまう。
次々と発覚する司祭の性的虐待。その賠償金を払うため、あるカトリックの教区では、もうじき教会を解散せざるを得ないと予想されています。
かつては国内のプロテスタント教会として、最大の信徒数を誇っていた日本基督教団。内部ではセクハラ、差別、裁判沙汰が起き、少子高齢化もあいまって信徒数は減り続けています。2025年には会計がパンクし、立ち行かなくなります。もうじき、私たちの教団は運営できなくなる。
あちこちで教勢を弱めている教会に対して、同情してくれる世論はあまりないでしょう。だって、それだけの事件が起きてきたし、信頼を回復する努力をしてきたとは、そんなに思われていないから。
教会は何をやってきたのか? 綺麗事を語る場所で、聖職者の罪を隠し、傷ついた人や倒れている人には目を向けず、今日も自分たちの日常を守るために、メッセージを聞きに来る……神様が救われるのは教会にいる人たちではなく、むしろ別の人たちではないか?
【民衆へのあてつけ】
こんなこと、教会の中で礼拝している最中に言うことではないかもしれません。わざわざ皆さんの気に触ること、始めてきた人のつまずきになることを、今ここで言うべきではないでしょう。
しかし、2000年前にエルサレムの神殿で、みんなが礼拝する場所で、同じような批判を行った人がいました。
それこそ、天から遣わされた神の御子イエス・キリストです。彼は民衆に向かってこう語り始めます。
「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った」
ぶどう園は、聖書のたとえ話に何度も繰り返し出てきます。神様が実りある結果を期待して、時間、労働、配慮をもって力を注ぐ大きな事業。いわゆる天の国、神の国のイメージとして語られます。
このたとえのぶどう園は、長いこと小作人の管理下にありました。主人から選ばれた農夫たち。収穫の際、報酬が約束されている人たちです。
イエス様の話を聞いていた人たちは、すぐピンときたでしょう。「主人」は神様、「農夫」は選ばれたイスラエル、自分たちを指していると。
この後に続くのは、農夫たちが報酬を受けとるシーン、神の民たる自分たちが天の国に受け入れられるエピソードだと。
ところが、実際に続くのは、農夫たちがこの僕を袋だたきにして追い返したという話です。主人は再び、他の僕をぶどう園に送りますが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して追い返します。さらに、3人目の僕も遣わされますが、農夫たちは彼にも傷を負わせ、放り出してしまいました。
ここで聴衆は気がつきます。主人が農夫たちに送った「僕」は、イスラエルに何度も遣わされてきた預言者のことを指していると。
彼らが遣わされる度に、その言葉を拒絶し、追い返し、傷つけてきた自分たちにあてつけて、この話をされていると……たとえ話はそのまま、クライマックスへ突入します。
「そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じあった。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった」
このとき、イエス様はもう既に3度、自分がエルサレムで捕まって、乱暴な仕打ちを受けて殺されることを予告していました。
今は自分を歓迎している人々も、やがて手のひら返すように侮辱することを知っていました。もうじき、自分を十字架につけようとする民衆にあてつけて、この話をされたのでしょうか? 最後にこう締めくくられます。
「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない」……約束された報酬は、イスラエルの民ではなく他の人たちに与えられる。
他の人たちとは誰か? かつて、自分たちの国を踏み荒らし、攻めのぼり、支配するようになった異邦人のことではないか?
民衆は思わず口にします。「そんなことがあってはなりません」……私たちもこんな言い方されたら抗議するでしょう。
神様が天の国を与えるのは、教会で礼拝している我々ではなく他の人たち。クリスチャンを奇異な目で見てきた一般人、我々を理解せず、受け入れず、批判してきた他の人々……そんなことがあってはなりません! と。
【指導者へのあてつけ】
抗議する民衆に対し、イエス様は彼らを見つめて言われます。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
これを聞いて、祭司長や律法学者も怒り始めます。旧約聖書に精通する彼らには、これがエルサレム滅亡、ひいてはエルサレム神殿の崩壊を暗示する言葉だと分かったからです。
イエス様は、ぶどう園と農夫のたとえを民衆に向かって話しながら、実は、自分に敵意を抱いている彼らにもあてつけて話していました。
そりゃ怒って当然です。教会の牧師に「あなたのところの会堂は取り壊されるだろう」と言ったようなものですから。色々敵を増やす発言です。しかし、私たちはこの発言が、ただの皮肉でないことも知っています。
なぜなら、エルサレムは実際に紀元70年に滅ぼされ、神殿も崩壊し、キリスト教はイスラエルではなくローマの国教となっていくからです。そして今や、キリスト教に関心を向ける人は、教会の中より外の方が多くなってきた。
たとえ話の中で、農夫たちは借りていたぶどう園を、いつの間にか自分たちの所有物として理解し、本当の所有者である主人のことを忘れてしまいました。今現在、私たちは教会を自分たちの所有物として理解し、本当の主人である神様を忘れていないでしょうか?
ここは私の場所、私が心地よく過ごすための場所。そう思って、望まない変化を拒んだり、「ここはあなたにふさわしくない」と誰かを追い返していないでしょうか?
やがて私たちは、神様の手に打ち砕かれ、押しつぶされ、懲らしめを受けてしまうのでしょうか? イスラエルが国を失って嘆いたように、私たちも教会を失って、「背いたわたしの罪は御手に束ねられ、軛とされ、わたしを圧する」と嘆くのでしょうか? 主の軛を首に負わされ、力尽きて倒れていく、そんな日が来るのでしょうか?
【重荷を負う】
自分たちの犯した罪を悔い、人々が残していった哀しみの歌……ここに出てきた「軛」という言葉を、私たちは別の箇所で見ることができます。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」
マタイによる福音書11章28節、29節の言葉です。イエス様が悔い改めない町々を、人々を叱った後で語った言葉……
本来、「軛」とは哀歌にも出てくるように、牛や奴隷の首にかける強制労働の象徴です。罪を犯してしまった者が、その代償として負わされる罰。しかし、イエス様は、軛を罰ではなく、休息と安らぎの象徴として用います。
「疲れた者」「重荷を負う者」それは今、私のメッセージを聞いて、心が重くなっている皆さんを指しているのかもしれません。
正すべきこと、直すべきことは分かっているけど、それに立ち向かっていく力が出ない、心がついていかない私たち……その私に、イエス様は一緒に軛を負いなさいと誘って来ます。
一人で罪と向き合えない、重荷を負って歩けないあなたを、私が支えると約束する。自分のことを侮辱し、追い返し、殺してしまった人々をも赦すため、十字架にかかって死んだ後、三日目に復活したイエス様……
本来、主人の息子を殺した農夫たちは、たとえ話にもあるように、やがて殺される運命です。
しかし、この息子が生き返ったら……復活して農夫たちに再会し、「あなたがたに平和があるように」と言われたら……
彼らは恐れと後悔に震えながらも、自分が赦された現実に驚き、息子に従って歩むでしょう。今まで無視してきた主人に謝罪し、心を入れ替えて生きるでしょう。
「これは、あなたがたのため裂かれた主イエス・キリストの体です」「これは、あなたがたのために流された主イエス・キリストの血潮です」
イエス様の十字架と復活を思い起こす、パンとぶどう酒に与るとき、私たちも心を入れ替えて神様に立ち返りましょう。あなたを赦してくれたキリストが、あなたと一緒に軛を負って隣で歩まれるからです。