ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『信仰によって酷い目に?』 ヘブライ人への手紙11:32〜40

聖書研究祈祷会 2019年4月10日

 

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【信仰があれば何でもできる?】

 ワード・オブ・フェイスって聞いたことありますか? 簡単に言えば、「信仰があれば何でもできる!」という信仰です。信仰があれば病気は治る、信仰があれば夢は叶う、信仰があれば経済的に豊かになる……

 

 昔、「元気があれば何でもできる」って言葉が流行りましたよね。あれと似ていると思います。信仰があれば何でもできる。できなければ、信仰がまだまだ足りていないわけです。

 

 病気や罪、失敗は信仰の欠如の結果です。もっと自分の願望をありありと心に描き、積極的に信じて告白すれば、願いは叶えられ、病気は癒され、経済的繁栄が得られます……おっと、怪しくなってきました。

 

 そう、お気づきのとおり、これはキリスト教会の中でも問題視されている教えです。

 

 もっと祈りなさい、そうすれば薬なんて飲まなくても回復する。もっと献げなさい、そうすれば富は何倍にもなって返ってくる。

 

 信仰によって病気を癒すため医療行為を禁じられた人、信仰によって裕福になるため貧しくても無理やり献金させられた人、そういう人が大勢出たため、ワード・オブ・フェイスは教会をカルト化させる教えとして、警戒されるようになりました。

 

 でも、先ほど読んだ手紙の文章……この教えとちょっと似たことが書かれていましたよね? 信仰によって、ある人は国々を征服し、ある人は正義を行い、ある人は約束されたものを手に入れた。

 

 信仰によって、ある人は獅子の口をふさぎ、ある人は燃え盛る炎を消し、ある人は弱かったのに強い者とされた。信仰によって、ある人は敵軍を敗走させ、ある人は身内を生き返らせてもらった……信仰があれば何でもできる。

 

 「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」

 

 神の子であるイエス様も、マタイによる福音書17章20節でそう言っています。私たちには信仰がない。だから、これもできないし、あれもできない。

 

 でも……本当にそうでしょうか? 体が衰え、心が病むのは、信仰が足りていないからでしょうか? 受験に落ちて仕事に失敗するのは、信仰が十分でないからでしょうか?

 

 何でもできると信じれば、否定的な考えを止めて肯定的に考えるようになれば、夢は叶うのでしょうか? それって、聖書が求める「信仰」でしょうか?

 

【信仰によって勝利した?】

 ヘブライ人への手紙には、「信仰によって」神に認められた人々、困難を乗り越えてきた人々のことが何人も列挙されています。今日読んだのはその終わりの部分です。

 

 「これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう……」

 

 手紙の著者は、旧約聖書の英雄を持ち出して、信仰がいかに大切なものかを語ります。私たちも納得します。確かにこれらの人々は、普通ならできないようなことをやってのけた。彼らは信仰によってすごいことを行なった。

 

 でも、ここに出てくる人たち……決して「何でもできる」と信じていたわけじゃないんです。

 

 最初にあげられた4人、ギデオン、バラク、サムソン、エフタは、王制が成立する前に立てられたイスラエルの指導者「士師」と呼ばれる人たちです。

 

 ギデオンは最も有名な士師ですが、彼は神様にイスラエルを敵の手から救い出すよう命じられたとき、こう返事をします。

 

 「わたしの主よ……どうすればイスラエルを救うことができましょう? わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下のものです」……信仰があれば何でもできる! そんな態度には見えません。

 

 彼はこの後、二度も三度も「本当に私の手によってイスラエルを救おうとしているなら、そのしるしをください」と願います。一回や二回じゃ信じられなかったんです。

 

 彼の後に出てくるバラク……信仰によって敵軍を敗走させた英雄の一人として描かれますが、実は彼も一人では何もできない男でした。本来ここに名前をあげるなら、バラクよりも、彼と一緒に戦場へ赴いたデボラの方がふさわしいでしょう。

 

 「イスラエルの神、主がお命じになったではありませんか。『行け、ナフタリ人とゼブルン人一万を動員し、タボル山に集結させよ。わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢をお前に対してキション川に集結させる。わたしは彼をお前の手に渡す』と」

 

 士師であり、預言者でもあるデボラがそう言ったとき、バラクは「OK、任せろ!」とは答えませんでした。

 

 彼は自分にそれができるとは信じられず、「あなたが共に来てくださるなら、行きます。もし来てくださらないなら、わたしは行きません」と返事をします。

 

 信仰があれば何でもできる……いえいえ、自信満々で戦場へ出かけた士師なんて、実はほとんどいなかったんです。

 

【信仰によって生き返った?】

 では、サムソンはどうでしょう? イスラエル最後の士師である彼は、聖書の中では珍しく自信満々な様子で描かれます。「俺にできないことは何もない!」という乱暴で粗野な台詞が似合う男。

 

 まるで、いじめっ子でガキ大将のジャイアンみたいなキャラクターです。逆に言えば、私たちがサムソンという人物から「信仰的な」イメージを受け取ることは、ほとんど不可能と言っても過言ではありません。

 

 彼は、両親こそ非常に信心深い人たちですが、本人は異教徒であるペリシテ人の女性に言い寄って、自分の妻に迎えようとする男です。しかも、女性に対する扱いが非常に雑……紳士的とは口が裂けても言えません。

 

 さらに、「死体に触れてはならない」という掟を破って、ライオンの死骸に群れていた蜜蜂から蜜を取り、自分の両親へ黙って食べさせてしまいます。

 

 あまりに無頓着で、人に対する思いやりとか、神様に対する配慮とか、全然感じられません。挙げ句の果てに、彼は神様の言いつけを破って、自分の弱点が髪の毛を切ることであると敵に教えてしまい、力を失って両目を抉られてしまいます。

 

 彼が神様に向かって祈るのは、死ぬ直前の最後のとき、「もう一度だけ自分に力を与え、ペリシテ人に復讐させてください」と願うときだけです。

 

 信仰があれば何でもできる……サムソンの場合、そもそも信仰があったかどうか、神様を恐れ敬う気持ちがあったかどうか、非常に疑わしく感じます。

 

 むしろ、彼が最後に神様へ祈ったとき、心にあったのは「何でもできる」という思いではなく、「何もできない」自分が露わにされた、恥ずかしい思いだったのではないでしょうか?

 

 消極的で、否定的で、何もできない思いに支配されたとき、信仰は失われた状態なんでしょうか?

 

 自分に対する自信が湧いてこない、積極的な意志が出てこない、肯定的な考えが浮かんでこない……旧約に登場する人々は、そんなときこそ「信仰によって」神様に心を向けたことが書かれています。

 

 「神様、そんなこと私にできません」「そんな無茶言わないでください」「弱く情けない私の姿を見てください」……足りない者、欠けた者、乏しい者。ポジティブになれない彼らが正直に自分の姿を晒したとき、神様は「私があなたと共にいる」「あなたにできないことは何もない」と語りかけます。

 

 何でもできるのは神様です。私たちが自分の心を、自信を、思考を操作して願いを叶えるのではありません。そんなことできるならとっくにやってます。

 

 何もできない自分を見捨てない、無視しない、傷つけない神様を信頼することが、私たちに与えられた「信仰」なんです。

 

【信仰によって酷い目に?】

 信仰によって数々の成功を収めた話……聖書に書かれているのがそれだけなら、私たちはもっと絶望していたでしょう。

 

 だって、成功が信仰の証なら、私もあなたも、信仰を認めてもらえる人はいなくなる。成功体験より失敗談の方が、ずっとずっと多い私たち。けれども36節からは、とても人生の成功とは思えないような道を「信仰によって」歩まされた人たちが出てきます。

 

 ある人はあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれて投獄された。ある人は石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で斬り殺されてしまった。ある人は、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待された……

 

 これってむしろ、悪者が受ける仕打ちですよね? 悪いことしたからバチが当たった。信仰が薄かったから乗り越えられなかった。そう言われてもおかしくありません。

 

 けれども、手紙の著者はこの人々が、その信仰ゆえに神様に認められたと語ります。士師のように国々を征服することも、敵軍を敗走させることもなかった。

 

 むしろ、何もできないまま死んでしまった。しかし彼らは、確かに信仰によって生きたのだ。神様は彼らを足りない者ではなく、十分な者として認めたのだ。

 

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか!」信仰によって口にされたとは思えない言葉を、神の子であるキリストが残しました。「なぜ!」「どうして!」「答えてください!」

 

 不安と恐怖の中、必死に神様へ問いかけるとき、イエス様も一緒に叫んでいます。主よ、この人のそばにいてください。震えるこの人を救ってください。

 

【信仰は御呪いじゃない】

 信仰って、自分に「これができる」とか「あれができる」とか、言い聞かせる類のものじゃないんです。

 

 そんなの鏡に映った自分に向かって「俺は社長になる」とか「私は金持ちになる」とか口にし続けるのと変わりません。それらは神様への信仰ではなくて、「自分の信仰を操作できる」という思い上がりです。

 

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」……11章の1節にあった言葉、これが全てを表していると思います。

 

 私は病気を治したい。不安から解放されたい。健全な生活に戻りたい。神様はそんな私を救おうとしている。見えないけれど、今日も私に手を伸ばしている。私と、私の周りにいる人には見えなくても。

 

 聖書が私たちに語りかけるのは、目先の救いに集中しろというチープな言葉ではありません。もっと奥深く、今苦しんでいるあなたの身に、神様が起こそうとしている救いは何なのか?

 

 生まれてからずっと目が見えなかった男性、何年も出血が止まらなかった女性、重い皮膚病で苦しんでいた人たちが、何年も、何年も癒されなかったのは、信仰が足りなかったからなのか?

 

 「神の業がこの人に現れるためである」「あなたの信仰があなたを救った」……イエス様に語りかけられ、癒された彼らは、病気や障害からの解放以上に、大きな救いをもたらされました。

 

 不信仰で、心が弱く、祈りの足りない未熟者……そう言われてきた自分自身の中に、イエス様は「信仰」を認めてくれた。私を足りない者ではなく、十分な者として受け入れてくれた。

 

 神様は、この世で死を克服できなかった人たち、自らの罪、因果応報、自業自得で死んでいったと見なされる人間に、さらに大きな救いをもたらします。自分に対する自信ではなく、イエス様を信じる信仰によって「義」とされる。

 

 「あなたの信仰があなたを救った」と神の国に受け入れられる。一人一人が「完全な状態」に達するよう導かれる……信仰がステータスや評価の基準ではなく、自信を失った私たちの希望となりますように。