ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『落差が激しすぎる』 ルカによる福音書19:28〜40、22:39〜53

礼拝メッセージ 2019年4月14日

 

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【歓迎から逮捕へ】

 落差が激しすぎる……何のことを言っているのか、2つの聖書箇所を読んだ後なら、すぐに分かると思います。

 

 最初はエルサレムで好意的に迎えられたイエス様が、後に剣や棒を持った人たちに捕えられてしまう。ちょっと前まで熱烈な歓迎を受けていたのに、仲間の一人に裏切られ、逮捕されてしまう。

 

 大富豪から大貧民へ落とされるような非常に容赦ない展開です。イエス様が十字架にかかるまでの一週間、エルサレムに入城してから殺されるまでの日々、それを思い出すのが今日から始まる「受難週」です。

 

 この日、多くの教会では、棕櫚の葉っぱ、ナツメヤシの葉を持って、礼拝堂へ子どもたちが入場してきます。

 

 子ろばに乗ったイエス様が進み行く道に、自分たちの服や葉っぱを敷いて、王に対する敬意を表した。そんな人々の様子を再現し、私たち一人一人も、イエス様を心に迎える準備をするためです。

 

 しかし、イエス様を褒め称えていた人々が、その後どのように態度を翻したか、私たちは知っています。

 

 はじめは王として迎え入れたイエス様を、後から犯罪者として捕えてしまう。自分たちを困難から救ってくれると信じていたのに、期待していた展開にならないと、「偽物だ」「メシアじゃない」と責めるようになる。

 

 どこか、身に覚えのある光景です。なぜなら、私たちの信仰生活もこれを繰り返しているからです。

 

 はじめは、イエス様こそ私の苦しみを理解し、支えてくれる方だと信じていた。キリストを信じていれば、辛いことや悲しいことも乗り越えられると思っていた。でも、しばらくすると、自分ではどうしようもない出来事がいくつも降りかかってきた。

 

 どれだけ祈っても、どれだけ聖書を読んでも、平安を感じることができなくなっていた。イエス様を信じますと告白したのに、どうしてこんな目に遭うのか、どうして助けてくれないのか? 

 

 本当は私のことなんかイエス様は見ていなくて、これっぽっちも助ける気持ちはないんじゃないか? そんな疑いが出てきた挙句、終いには、信じることそのものが無駄なのではと思い始める。

 

 クリスチャンは皆、常に神様に信頼して、心に平安を覚えているわけじゃありません。むしろ、難しい問題と出会う度に、私たちの心は揺れ動き、神様に対する不信感で溢れます。

 

 感謝の祈りは失われ、「神は私を救わない」「そんな神など捨ててしまえ」と感じるようになります。落差が激しすぎる……それは、イエス様を信じた一人一人が、神様に見せる態度の変化でもあるんです。

 

【ホサナから十字架へ】

 イエス様がエルサレムへ入城するとき、人々はこぞって喜びと賛美を口にしました。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところに栄光」皮肉なことに、やがて彼らは正反対の言葉を叫ぶようになります。

 

 「その男を殺せ」「十字架につけろ、十字架につけろ」自分を褒め称えていた人々が、一週間後に、罵倒と嘲りの言葉をぶつけるようになる。

 

 イエス様は最初からこの展開を予想していたようでした。「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる」「彼らは人の子を、鞭打ってから殺す」

 

 もう3度も、そうやって予告していました。後々、態度を覆すと分かっている相手から、イエス様はどういう気持ちで賛美や賞賛を聞いていたんでしょう?

 

 「分かったもういい」「もうたくさんだ」「黙っていてくれ」……私たちならそう言ってしまいそうです。どうせ後から、みんなで私のことを裏切るんだろう? と思い、自分を褒め称える言葉にも耳を塞ぎたくなります。

 

 しかし、イエス様は人々の叫びがこだまするとき、耳を塞ごうとはしませんでした。「十字架につけろ!」という叫び声も、「祝福があるように!」という叫び声も、どちらも止めなかったんです。

 

 一方、ファリサイ派のある人々は、群衆の叫び声を聞いて「先生、お弟子たちを叱ってください」と願います。

 

 ほおっておけば、ローマから暴動を起こしていると疑われ、兵隊に方位されてしまうかもしれない。騒ぎになる前に止めてください! ファリサイ派の要請は、しごく当然のものでした。

 

 しかしイエス様は、「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」と言って止めません。聞き様によっては、自分もウンザリするような言葉を止めず、ひたすら聞き続けたんです。

 

【叫び声を聞き続ける】

 イエス様に向かって叫んでいる人を誰かが黙らせようとした。それをイエス様がやめさせた。そして、追い払おうとする人々に「その人を私のところへ来させなさい」と命じられた……

 

 イエス様とファリサイ派のやりとりは、実は何度も、他のところで見たことがあるものでした。

 

 そう、以前イエス様に触れていただくため、泣き叫ぶ乳飲み子を連れてきた人々。彼らを叱りつけた弟子たちと、群衆を叱るようイエス様に願ったファリサイ派は、非常によく似ています。

 

 また、目が見えず、物乞いをしていたある人は、通りがかりのイエス様に大声でこう叫びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」人々は彼を叱りつけて黙らせようとします。しかし、彼はますます必死に叫びます。

 

 「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」イエス様は彼を黙らせようとはせず、むしろ自分のもとへ連れてくるように命じました。

 

 また、別のところでは、カナンの女性がイエス様にこう叫びます。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」あまりにひどく叫ぶので、弟子たちはイエス様に願います。

 

 「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」しかし、イエス様は言いました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」

 

 それぞれの叫びに共通していたのは「主よ、どうか救ってください」という願いです。子どもがこの時代を生き延びられるよう祝福してください。見えない私の目を見えるようにしてください。苦しんでいる娘のことを助けてください。

 

 主よ、どうか救ってください!

 

 同じ言葉が、エルサレムに入城してきたイエス様にも叫ばれました。ダビデの子にホサナ!……ルカによる福音書以外では、「主の名によって来られる方に」と叫ぶとき、この言葉が一緒についています。

 

 ホサナ「ばんざい!」という意味ですが、もともとは「どうか主よ、私たちを救ってください」という意味です。

 

 「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」「主よ、ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」「主の名によって来られる方、どうか主よ、私たちを救ってください」

 

 イエス様は、彼らが叫ぶのを止めてはならないと言われます。私がそれを聞いているから。

 

 先週まで神様を賛美していた皆さんが、今週から神様を罵り初めても、イエス様は止めずに聞いています。その嘆きを、悲しみを、全部受け止めてくださいます。

 

 誰かがイエス様に言いました。「神を疑い、嘆いてばかりいるあの人を黙らせてください!」イエス様は答えます。「止めてはならない! 私はこの人の叫びを聞いている、この人の願いを今聞いているんだ」

 

 イエス様は、揺れ動く私たちの叫びから、本当の願いを聞き出します。周りがうんざりするような言葉にも、黙らせたくなる言葉にも、全力で耳を傾けます。

 

 「どうか主よ、私たちを救ってください!」……表面的な言葉に耳を塞ぐのでなく、その奥深くにある祈りを聞かれる。それがイエス様なんです。

 

【起きて祈っていなさい】

 後半に読んだ聖書箇所では、イエス様が捕えられる夜、オリーブ山で祈っていたことが書かれていました。

 

 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」……「杯」というのは、イエス様が十字架につけられて血を流す未来を表しています。それはあまりにも厳しい未来です。

 

 「主よ、どうか救ってください」「わたしを憐れんでください」イエス様も、そう必死に祈ります。十字架の苦しみを取り除けてくれと願います。しかし、私たちの祈ったことが全て思いどおりにはならないように、イエス様も十字架は避けられません。

 

 なぜ、どうして、こんな目に遭わなければならないのか! そんな出来事が、イエス様にも降りかかります。

 

 イエス様は、平気な顔をなさいません。「苦しみもだえ」「汗が血の滴るように落ちた」それほどまでに、切実に神様へ願います。

 

 どうか、どうか私をこんな目に遭わせないでください。私の願いを聞いてください。私の叫びを聞いてください! 「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」……イエス様は、神様への態度を変えません。ひたすら祈り続けます。

 

 神様は私のことなんか見ていなくて、これっぽっちも助ける気持ちはないんじゃないか? 神様を信じて、神様に従って生きてきたのに、犯罪人として鞭打たれ、罪人として十字架につけられるなんて、どう考えても救いの道とは思えない。

 

 神は私を救わない。そんな神なら捨ててしまえ……いや、違う。救いの道は、この十字架の先にある。

 

 「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は3日目に復活する」

 

 神様は、ちゃんと私を見ておられる。私の叫びを聞いている。私が恐れている十字架も、私が怖がっている死の力も、復活によって打ち砕く。神様は私を見捨てない。

 

 今日の聖書箇所は、正直こんなところで切ってほしくないというところで終わっています。捕えられたイエス様が、最後にこう言って幕を閉じる。

 

 「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」……闇が力を振るっている。

 

 皆さんの周りでも、闇が力を振るっているかもしれません。善人が捕えられ、悪人が野放しにされる。悔い改めた者が中傷を受け、開き直った者が擁護される。期待していた展開は訪れず、悪い方向へ進んでいく……光の見えない不安な日々。

 

 しかし、イエス様は言われます。「起きて祈っていなさい」……イエス様も闇が力を振るう中、切に祈り続けました。

 

 このまま闇に呑み込まれる。もうどうしようもないだろう。確かに今は闇の時だ。しかし、光は必ず照らされる。その時は必ずやって来る。だから、起きて祈っていなさい。

 

 悲しみのあまり、眠り込んでいる私たちにも言われます。起きて祈りなさい。神様に訴えなさい。怒りも、悲しみも、虚しさも、神様は全てを受けとめられる。あなたを遮るものはなにもない。

 

 周りの人が耳を塞ぎたくなるようなあなたの叫びも、神様は祈りとして聞かれるから。

 

 キリストの復活を祝うイースターまで、あと一週間……あなたも備えて祈りなさい。