聖書研究祈祷会 2019年4月17日
【つながりが切れる】
自分だけ、誰かとつながりを切られてしまう。仲間外れにされてしまう。もういらないと捨てられてしまう。私たちはしばしば、つながりが切られることを恐れます。誰かとつながっていることを求めます。
クラスの中で、自分だけLINEグループに入れてもらえない。会社の中で、自分だけ連絡網が回ってこない。家族の中で、自分だけ会話に入れてもらえない。つながりが切れ、関係が切れ、絆を失っている。
いや違う! 私はみんなとつながっている。決して捨てられたわけではない! メールで、LINEで、手紙で、電話で、私たちは誰かとつながっていることを確認します。
喧嘩や噂、他人の評価で、周りとのつながりが切られてないか、自分が捨てられてないかを気にします。
わたしにつながっていなさい……あらゆる人が皆さんに求めてきます。メールの返信をするように。着信があったらかけ直すように、誘いをしたら断らないように。わたしにつながっていなさい。
皆さんも無意識に、友人や家族、大切なパートナーに求めているかもしれません。自分に同意すること、自分に賛成すること、自分に従うこと……
もし、それができなければ、あなたは私につながっていない。私に「捨てられる」存在、私を「捨てている」存在。
いやいや、私はあなたを捨てはしない! あなたに捨てられたくはない! ある時は必死に言い訳し、ある時は長文のメールを送り、ある時は敢えて「既読」をつけないようにする。
みんなとつながり続けるために、深夜までスマホと睨めっこし、心も体もすり減らしていく。私たちを拘束し、振り回し、疲れさせるもの……イエス様も言いました。わたしにつながっていなさい。
【つながっていなさい】
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」……いつものように、イエス様は唐突にたとえ話を始めます。
ですが幸い、今回は分かりやすい話です。最初から、「ぶどうの木」はイエス様、「農夫」は父なる神だと教えてくれるからです。しかしその後、脅しのような言葉が続きます。
「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」「実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」
穿った見方をすれば、言うことを聞かなければつながりを切られ、言うことを聞けばご褒美がもらえる。そんな言い方にも聞こえます。
わたしにつながっていなさい。つながっていなければ、あなたは滅ぶ……弟子たちはちょっと不安になったでしょう。どうすれば、イエス様につながっていると証明できるのか? メールもLINEもできない相手と、どうやってつながりを確認するのか?
イエス様は単純明快に答えます。「わたしの愛にとどまりなさい」……実は、「わたしにつながっていなさい」という言葉は「わたしにとどまりなさい」とも訳すことができます。
わたしにつながっていなさい。わたしの愛にとどまりなさい。これはほぼ、同じ意味というわけです。
イエス様はこれまでも繰り返し言ってきました。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と。
この瞬間、弟子たちはもうドキドキしています。だって彼らは、互いに愛し合う関係とは、まだ言えなかったから。誰が一番偉いのか言い争い、抜け駆けしようとした仲間を攻め、度々喧嘩をしていました。
ある時、ペトロはイエス様にこう尋ねます。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか? 七回までですか?」……「兄弟」というのが誰を指しているかは分かりませんが、弟子たちの中での話だったかもしれません。
彼にとって、血縁上の兄弟であるアンデレは、自分と一緒にイエス様の弟子をしていました。それに、周りにはいつも競い合っている仲間たちがいました。誰かがペトロに対して、失礼な態度をとり続けたのかもしれません。
イエス様、七回赦せば、さすがに次は怒ってもいいでしょう? ここまでくれば、あなただって、こいつが悪いと思いますよね? もしかしたら、ペトロは弟子の誰かを指差しながら、イエス様に迫ったのかもしれません。
こいつは七回も私を怒らせました。いい加減、仲間から追放してください! こいつとのつながりを切ってください!
しかし、イエス様が言うのはこうです。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」……わたしは彼とつながりを切らない。彼をここから追い出さない。
確かにイエス様は、弟子たちがどれだけ無理解でも、どれだけ間違ったことをしても、切り捨てることをしませんでした。自分から誰かを追放することは、排除することはありませんでした。
それこそ、自分を裏切る相手でさえ……「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」
私につながっているということは、この掟を守るということだ。イエス様はさらに続けて言われます。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」……わたしの愛にとどまるとは、そういうことだ。
事実、イエス様は自分が「友」と読んだ人々のために、自らの命を捨てました。全ての人の罪を背負って、十字架にかかっていきました。
ですがその時、弟子たちは反対のことを行いました。自分を「友」と呼んでくれたイエス様を、見捨てて逃げてしまいました。
【取り除かれる】
友のために自分の命を捨てること。それが、イエス様の愛にとどまることなら、弟子たちには不可能なことでした。彼らは自分の命を優先し、「友」を置いて逃げ出す存在だったからです。
皆さんはどうでしょう? 友のために命を捨てる。その愛にとどまることができるでしょうか? 私は逃げ出してしまう気がします。
でも、それじゃイエス様につながっているとは認められない。実を結ばないことになる。6節でイエス様はこう言っていました。
「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」
似たような言葉が、別のところでも言われていました。「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」
わたしにつながっていなさい。さもなければ、地獄に落ちる。そう言われているかのような響きです。
でも、弟子たちは結局、イエス様を見捨てて逃げてしまった。友のために命を捨てることができなかった。彼らだけではありません。私も、皆さんも、ほとんどの人が、友のために命を捨てるなんて、究極の選択をできるとは思えません。
むしろ、自分に罪を犯した兄弟を七回赦すことでさえ難しいんです。私たちは皆、実を結ばない枝として取り除かれる。枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。文字通り地獄行き。
でも、イエス様はこう言います。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」
いやいや、この脅しみたいな言葉で喜ぶ人が、どこにいるでしょう? むしろ、不安と恐れを増す言葉じゃないでしょうか?
【つながっている】
いえ……よく見るとイエス様は、既に自分とみんながつながっているという前提で話をしています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」
喧嘩ばかりしている弟子たちに、友を赦せない私たちに「あなたはわたしとつながっている」と宣言します。
わたしがつながっているから、あなたは豊かに実を結ぶ。取り除かれ、切り捨てられることはない。イエス様は、自分の言葉を聞いて不安になる人々へこう語ります。
「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」「わたしもあなたがたにつながっている」
メールを返さないでいたら、LINEを既読無視したら、即つながりを切られてしまうような、そんな関係ではありません。イエス様は、自分を裏切り、自分を見捨て、自分に呪いの言葉を吐いた人でさえ、つながりを切ることはありませんでした。
むしろ、自分からつながりを切ってしまった、イエス様を捨ててしまった人たちに、なお、つながっていることを知らせます。自分が十字架にかかって死んだ後、三日目に復活し、彼らに会いに来ることによって。
イエス様は、裏切り者のユダを「友」と呼び、自分を3度「知らない」と言ったペトロを励まし、復活を信じなかったトマスに「信じなさい」と呼びかけました。自分を見捨てて逃げた人たちへ「あなたがたに平和があるように」と言いました。
死によって決定的につながりが切れたはずだったのに、つながりは切れていませんでした。イエス様と私たちとのつながりは、何があっても絶対に切れることはないんです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」……この比喩自体が、そのことを表しています。
「ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない」
そう、枝は木につながっていなければ、勝手に実をつけることはできません。同時に、枝は自ら木と分離することもできません。
木の枝は、木とつながっていることなしに、生きていくことはできないからです。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。あなたがたは勝手に、わたしから離れることはできない。「あなたがたがわたしを選んだのではない」「わたしがあなたがたを選んだ」
イエス様は繰り返し、わたしたちに「つながっていること」を強調します。十字架にかかって死ぬ前に、決定的な断絶が訪れる前に、あなたがたは確かに私とつながっていると語ります。
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている……どこまでも、私たちとつながってくださるイエス様。どこまでも、私たちを切り捨てることのないイエス様。
その憐れみを覚えつつ、イースターまで残り4日間を過ごしていきたいと思います。