ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『たわ言を信じてる?』 ルカによる福音書24:1〜12

礼拝メッセージ 2019年4月21日

 

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【たわ言にしか思えない】

 たわ言を信じてる……イースターの朝早く、日曜日の礼拝で、このメッセージのタイトルを聞いたとき、「たわ言」って何のことだと思いました? 神の存在がたわ言? 天国の所在がたわ言? 奇跡の話がたわ言?

 

 いえいえ、もっと信じ難いことがあるでしょう。勘違いか誇張だとしか思えない話があるでしょう。そう、キリストが死者の中から復活したという話……これをすんなり信じられる人は、そういないと思います。

 

 人々の前で十字架につけられたイエス様が、死んでから3日目に甦る。そんなのたわ言に決まっています。死んだ人が生き返るわけありません。

 

 神様がいることも、いつか天国に行くことも、そっちは何とか信じられる。だけど、正真正銘、殺された人が生き返る。釘打たれ、槍で刺されてしまった人が、この世で復活させられる……この話だけは、どうしても信じることができない。

 

 クリスチャンは本気でそれを信じてるんですか? この世で亡くなった人が、胸の中、心の中で生き続けるという話じゃなくて、現実で生き返らされたと……

 

 そう思いたいのは分かります。真剣に言っているのも分かります。でも、私には同じ信仰を持てません。自分の理解と理性では、現実的に捉えられないから。ありもしないと思うことを、いい加減に信じることはしたくはない。

 

 そう、世の中いい加減なことを言う人で溢れています。「いじめをなくしたい」「格差をなくしたい」「核兵器をなくしたい」そんなこと、本気で実現すると思ってるんでしょうか?

 

 自分が生きている間に、全ての紛争が解決して、平和が訪れるなんて信じてる人、いったいどれだけいるんでしょうか? それって、死んでる人が生き返るのと同じくらい、非現実的なことですよね。

 

 下手に自分の信じてることを口にするもんじゃありません。「それ本気?」と聞かれた瞬間、だんだん声が小さくなってしまいます。

 

 正義は必ず勝つ!……いやいや、そんなのたわ言に過ぎない。そう言われてしまいます。自分でも、本当に心から信じているのか怪しくなってきます。クリスチャンの信仰もわりとそんな感じです。

 

 「あなたは本当にイエスの復活を信じてるんですか?」そう聞かれた瞬間、私だって怪しくなります。「俺、本当に信じてるよな? ちゃんと信じてるよな?」心の中で自問します。

 

 だって不安じゃないですか? 「世界平和」や「いじめをなくせる」と信じている人たちが、本当にそう信じていると証明できないように、私たちも証明できないんです。

 

 むしろ、信じ難い理由を説明する方がはるかに簡単です。世の中を見渡せば、いくらでも現実が教えてくれます。死者は生き返らない。戦争は終わらない。いじめはなくならない。

 

 負の力に勝利するという現実は、私たちに見えてこない。そんなあなたに朗報です。もっと簡単で賢い方法があります。現実を受け入れることです。

 

【死の現実を受け入れる】

 イエス様の死から3日経って、多くの人は、現実を拒絶しないで受け入れていました。弟子たちは家の中に閉じこもって、静かに隠れて過ごしていました。「あの方が死んだなんて嘘だ!」そう喚き散らす男はいませんでした。

 

 彼らのほとんどは、イエス様が処刑された場面に居合わせてすらいなかったのに、みんなその死を受け入れていました。真っ当で賢い態度でした。

 

 女性たちは、慌ただしく埋葬されたイエス様のために、後から遺体を清めるため、香油と香料を塗る準備をしていました。イエス様は死んだ。もう食事や生活の世話をすることはできない。お話を聞くこともできない。

 

 だから、せめて遺体を綺麗にしてあげよう。葬式もしないで葬られたイエス様に、最後のお別れをしに行こう。誠実で賢い行動でした。私たちも、彼らに見習うべきでしょう。

 

 ところが、彼女たちが墓へ行くと、入り口を塞ぐはずの大きな石が、わきに転がしてありました。中に入ると、イエス様の遺体が見当たりません。

 

 女性たちは途方に暮れます。おかしい、遺体がなくなっている。どこへ行ったのか? すると、輝く衣を着た2人の人が突然自分たちのそばに現れます。

 

 明け方の薄暗い時間、明かりのついていない墓の中で、突然ぼぉっと現れる白い光。女性たちは恐れて地に顔を伏せます。

 

 見てはならないものを見てしまった。出会ってはならないものと出会ってしまった。何か危害を加えられる……そう構えていると、輝く2人の人はこう言ってきます。

 

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」女性たちは、その言葉を聞いて思い出します。イエス様自身が言っていたこと……

 

 「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は3日目に復活する」……彼女たちは急いで墓を後にし、弟子たちと他のみんなに知らせます。

 

 聞いてください、私たちは今朝、イエス様のお墓へ行きました。お墓は空っぽになっていました。そこに輝く衣を着た2人の人が現れて、「あの方は復活した」と言われました。私たちは思い出したんです。

 

 「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」……皆さんも覚えているでしょう? イエス様は確かにそう言いました。あの方の言ったとおりになったんです。だから、きっと、イエス様は復活しました!

 

 けれども、使徒たちはこの話がたわ言のように思えました。誰もすぐには信じません。おそらく、女性たちの言うことを同情しながら聞いていたんでしょう。

 

 彼女たちがこう言うのも無理はない。あれほど慕っていた、愛していた方が亡くなったんだから。目の前で無残に処刑され、十字架につけられるのを見ていたんだから。現実を受け入れられないのも当然だ。

 

 だが……我々を巻き込まないでくれ。我々は3日経ってようやく、あの方の死を受け入れたんだ。あなたたちも早く現実を受け入れなさい。イエス様は死んだ。敵に捕まって殺された。

 

 我々もあの方の仲間だという理由で、捕まって殺されるかもしれない。身の振り方を考えなければならない。いつまでも、グズグズしてはいられない。

 

 酷なことかもしれないが、あの方の死を早く受け入れて、我々は目の前の現実に対処しなければ……弟子たちの反応は自然です。

 

 彼らの前には、自分たちを教えていた方が殺されたという現実と、自分たちも殺されるかもしれないという死の危険が横たわっていました。それは、一刻も早く認めなければならない事実。

 

 死の現実を受け入れる。動かしがたい事実を受けとめる。大切なものを失ったとき、私たちが真っ先に求められる行動です。

 

 多くの人は、差し迫った状況に対処するために、何とか「死」を受け入れようとします。どうにもできないこと、制御不能なことを認めて、「生」にしがみつくのを止めようとします。

 

 いじめはなくならない。巻き込まれれば、下手すると死ぬまで追い詰められる。あの人や、あの子たちのように……だから、なるべく関わらないように、なるべく標的にされないように生きていこう。それが、自分の望む生き方でないとしても。

 

 不正はなくならない。是正しようとすれば、逆に不利益を被る側から責められる。精神的にも肉体的にも追い詰められる。

 

 場合によっては、助けたかった相手と共倒れになってしまう。だから、首を突っ込まないように、公正や平等を叫ばないように生きていこう。それが、間違った生き方だとしても。

 

【信じてないのに】

 死の力、動かし難い現実を認めることは、私たちに安心と安全をもたらします。危険な行動、危ない橋を渡ることから遠ざけてくれます。

 

 事実、イエス様が死んだままなら、弟子たちは家から出る必要はありませんでした。そのまま隠れて、危険から身を守っていれば良かったんです。

 

 でも、女性たちの言葉を聞いて、墓が空っぽになったと聞いて、家から出た人がいました。その名はペトロ。弟子たちの中心的な人物です。彼も、他の弟子たちと同じく、女性たちの報告をたわ言だと思っていました。信じていませんでした。

 

 しかし、ペトロは立ち上がって、墓へ走り、身をかがめて中を覗きます。無防備な姿勢です。後ろから逮捕されたら一発アウト。

 

 もしかしたら、イエスの仲間が来るかもしれないと見張っているユダヤ人がいるかもしれないのに。ペトロは危険を冒して、墓を確認しに行きました。たわ言だと思いながら、彼も思い出していたんです。

 

 「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、3日目に復活することになっている」……イエス様の言ったこと、3度も予告されたこと。だから、確認せずにはいられませんでした。

 

 この日、彼以外にも、家を出た弟子たちがいました。今日読んだところの続きに出てくる、エマオという村へ向かう2人の弟子。彼らが歩きながら議論していたのは、まさに、女性たちから聞いた出来事についてでした。

 

 この2人も、彼女たちの話を信用しません。でも、彼らは家を飛び出し、歩きながらこの話を始めたんです。「たわ言だ」「現実なわけがない」……そう分かりきっていたのに。

 

 「たわ言だ」と思われた女性たちの報告が、弟子たちに変化をもたらしました。外へ出るという危険な行動を起こさせました。家の中に隠れて、縮こまって、死んでいた弟子たち。死の力を受け入れて、屈していた弟子たち。

 

 そんな彼らに、家を出て、墓を出て、外へ出て、危険を顧みない行動を起こさせます。本当に死が打ち破られたのか、確認し、議論し、答えを見つけようとする道へ。

 

 あるピンクの服を着た男の子がいじめられていました。それを見た別の子が、「いじめをなくそう」「いじめはみんなでなくせる」と言いました。周りの子たちは、「たわ言だ」「そんな上手くいくか」と思いました。

 

 でも、次の日には彼の呼びかけで、何人かの子がピンクのシャツを着てきました。自分も捕まるかもしれない、いじめの標的になるかもしれない……そんな危険を冒して、外に出てきました。死んでいることを止めた日。

 

 「あの方は生きている」「死の力に打ち勝った」その知らせは、私たちから安全を奪い、様々な危険をもたらしました。死んだまま生きていく、予想どおりの安定した道ではなく、何が起こるか分からない、ハラハラドキドキする危険な道。

 

 「死に打ち勝てるわけがない」「不正に勝てるわけがない」「暴力に勝てるわけがない」そんなのたわ言だ、リアルじゃない。

 

 そう言いつつも、私たちは多くの権利と自由が、負の力に対する勝利の宣言によってもたらされてきたことを知っています。「非暴力・不服従」「自由は死せず」「太陽は輝いた」

 

 そして今、死に対する勝利が宣言されます。「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」

 

 たわ言だと思ったまま、信じることができないままの弟子たちに、それでも変化が始まりました。現実を受け入れることで満足していた人たちに、より勇気のいる行動を起こさせました。

 

 皆さんにも今日、キリストの復活が宣言されました。心から信じることができない人も、たわ言だと思っている人も、イエス様は変化と祝福をもたらします。あなたをご自分の食卓へと招きます。

 

 今日は、一日曇り空……ずっと薄暗い天気です。朝早く、女性たちが墓から出て行ったときと同じように、私たちも薄暗い中、教会から出ようとしています。その道の先に、あなたが出て行った先に、あなたを待っている方と出会うことができますように。