ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『ここにもあそこにもいない』 マタイによる福音書28:1〜10

聖書研究祈祷会 2019年4月24日

f:id:bokushiblog:20190424150903j:plain



【信じられない証言】

 キリストの復活って本当にあったんだろうか……そう思ったことがある人は、私だけではないでしょう。初めてこの話を聞く人はもちろん、長年信仰生活を送っている人も、一度か二度は疑いを持ったことがあると思うんです。

 

 牧師がこんなこと言い出すのは不謹慎かもしれませんが、私も小さい頃からしょっちゅう、こう思っていました。

 

 十字架につけられて殺されたイエス様が、死んだ後も、「霊において弟子たちと共に生きていた」「心の中に生きていた」そう言われているなら分かる。「みんなの心に生き続ける」というなら理解できる。

 

 だけど、「現実に生き返った」「甦った」というのは、ちょっと苦しいんじゃないか? この話、信頼してもいいんだろうか?

 

 日曜日、私たちはキリストの復活を記念するイースターを迎えました。もうそれから3日が経っています。

 

 あの日、復活のメッセージを聞いて、イースターの賛美に心を震わせ、新しく力が湧いてくるのを感じながら家に帰っていった人たち。変わらない毎日に疲れ果て、死んだようになっていたけれど、新しく生きていこうと思えた人たち。

 

 でも、いざ月曜日から新しい一週間が始まってみれば、これまでと変わらない、生きているのか死んでいるのか分からない日々を送っている。イエス様の復活に、あの日の感動に、リアリティを感じられなくなっている。まだ3日しか経っていないのに!

 

 そして、もう一度聖書を読み返します。イエス様が死者の中から甦り、暗い墓から出て行った話。

 

 そこで気がつきます。これほど現実離れした話はなかなかないと……確かに、復活という話自体が胡散臭いものですが、問題はこの胡散臭い話が、少しも現実的に描かれないところです。

 

 もうちょっと信憑性をもたせてくれよ、現実身をもたせてくれよと福音書の著者に言いたくなります。

 

 実際、先ほど読んだマタイによる福音書28章……読めば読むほど、「本当にそれ起こったの?」と聞きたくなる出来事が次々に出てきます。

 

 週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。普通なのは、この最初の一行だけ。二行目にはもう天変地異です。

 

 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降ってきて、石をわきへ転がした。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった……まるで、黙示録のような光景です。映画に出てきそうな、世界が終わるときに起こりそうな出来事。ちょっとついていけません。

 

 実は、復活についてのリアリティーが感じられない話は、この前にもありました。イエス様が息を引き取ったときの様子、27章50節以下の記述。

 

 「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂けた」

 

 おや? イエス様が死んだときと生き返ったとき、似たような天変地異が起こっています。どちらも地震が起きて、石が裂けたり、転がされたりする。だけど、これで終わりじゃありません。

 

 52節では、地震が起こり、岩が裂けるのに続いて、閉じていた墓が開き、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返ります。そして、イエス様が復活した後、彼らも墓から出て来て、聖なる都エルサレムに入り、多くの人々に現れる。

 

 これ、どう思います? まるでゾンビ映画ですよね? 聖人に対してゾンビなんて言うのは失礼かもしれませんが、でも、相当騒ぎになりそうな話です。もっと色んな記録に残っていてもいい話……

 

 マタイによる福音書を書いた人は、ちょっとやり過ぎじゃないでしょうか? 書いているうちに熱が入ったのかもしれませんが、もうちょっと抑えて、信憑性の高い証言を書くべきじゃなかったか……?

 

【食い違う証言】

 私もこの時期、色んな所でイースターの話をします。教会で、幼稚園で、学校のチャペルで、そして今日みたいな祈祷会で、何度も何度も復活のメッセージをするわけです。

 

 同じ話ばかりしないように、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネといったそれぞれの福音書に当たりつつ、ひたすら復活について話します。

 

 その中には、今言ったように信じられない話、リアリティーがない話、信憑性のない話が山ほどあります。さらに、4つの福音書に記された復活の証言は、けっこう食い違っている。

 

 日曜日、礼拝で読まれたルカによる福音書では、墓を見に来たのはマグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちでした。大勢いたようです。

 

 でも、今日読んだマタイによる福音書では、マグダラのマリアともう一人のマリアだけ。しかも、マルコによる福音書では、サロメも一緒に来ているし、ヨハネによる福音書では、マグダラのマリア一人しかいない!

 

 女性たちに現れた天使も、1人だったり、2人だったり、そもそも存在しなかったり……何なら、墓の中にいたのか、外にいたのかも食い違っている!

 

 ついでに言うと、ルカによる福音書では、復活したイエス様が墓を出たために入り口の石がどけられていますが、マタイによる福音書では、イエス様がいないことを見せるために墓の石がどけられています。

 

 これだけ証言が一致しないのも珍しい。初代教会の人たちは、よくこれだけバラバラの証言を載せたものです。

 

 これが裁判所や調査委員会に出された文書なら、「事実とは認められない」と言われて終わるでしょう。「読む人に信じさせる気ある?」と感じる大胆で矛盾だらけの証言……私たちはこれを、毎年イースターの日に読んできました。

 

 ここにもあそこにも、証拠として認められるものはない。客観的な言葉はない。共通するのは、「女性たちが空っぽの墓を見つけた」という証言だけ。それ以外は、だいたい食い違う。

 

【何もないという証言】

 皮肉なことに、唯一一致しているのが「遺体は消えていた」という証言。

 

 「あの方は、ここにはおられない」「御覧なさい。お納めした場所である」「中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」「どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」「身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった」

 

 遺体は「ない」。「ない」から、生き返ったと思う。そんな曖昧な言葉。通常であれば、何かを証明するとき、「なかった」ことではなく「ある」ことが根拠とされます。

 

 体がある、書き置きがある、証言の一致がある……だけど、イエス様の復活については、「ない」ことばかりが目立ちます。

 

 墓は開けられ、亜麻布の中身はなく、遺体も消えている。証言は一致せず、リアリティーのある描写も少ない……どうもこれは、復活を信じてもらうために書かれた文書ではないようです。

 

 むしろ、復活を信じているんだけど混乱している人たち、他の人がどんな体験をしたのか確認したい人たちの言葉。「あなたはそう聞いたのか、私はこう聞いたんだ!」

 

 イエス様が復活したとき、ほとんどの人が混乱しました。弟子たちも、女性たちも、すぐには理解できませんでした。

 

 マルコによる福音書では、天使に出会った女性たちが、全員、墓を出て逃げ去ったと書いてあります。「震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった」……少なくとも、当分の間は。

 

 マタイによる福音書では、祭司長たちの命令で墓を見張っていた番兵たちが正気を失いました。「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」

 

 ルカによる福音書では、女性たちは途方に暮れ、帰ってから一部始終を弟子たちに話しましたが、たわ言にしか思われませんでした。

 

 ヨハネによる福音書では、マグダラのマリアが遺体を見つけられずに茫然自失し、墓から出て来たイエス様に会っても、気づかないまま泣き続けます。

 

 「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります!」

 

 そう……けっこうリアルな反応をしたんです。みんな最初は恐れました。戸惑い、疑い、現実的な理由を考えました。

 

 誰かが外に盗み出したんだ。園庭が遺体を別の場所へ移動したんだ。あるいは、もっと単純な反応、墓から一目散に逃げていくという行動をとりました。なんてリアルな話でしょう?

 

 イエス様と出会っても、別人だと思って気づかない。本人だとは思わない。だって、死んだ人が生き返るはずないし……だけど、このリアルな反応から、信じられない反応へ移っていきます。

 

 復活したイエス様と出会って、喜んだ。「ラボニ(先生)」「わたしの主、わたしの神よ」

 

 混乱する女性たちは、弟子たちは、普通なら信じられない出来事を、全力で受けとめ始めます。

 

 「わたしたちは主を見た」ある者はそう証言し、ある者は墓を見に行くために駆け出します。外はまだ、自分たちを捕まえようと探しているユダヤ人がいて危険なのに、ありえない行動をとる……信じがたい証言がぞくぞくと出てきます。

 

 「確かに、墓は空っぽだった」「まるめられた亜麻布が置いてあった」「帰る途中でイエス様と会った」やがて、それらは福音書としてまとめられます。

 

 こんなこと、信じてもらえるわけがない。もっと実話っぽく書かないと、受け入れてもらえないだろう……そんなこと、おかまいなしに彼らは全力で語ります。

 

 こんなすごいことが起きたんだ。こんな信じられないことが起きたんだ。馬鹿げた話に聞こえるけれど、素晴らしいことが起きたんだ!

 

 客観的には聞こえない、主観満載の驚きと喜びに満ちた証言。リアリティーなんて完全無視、「そんなの誰が信じるんだよ?」という現実的な突っ込みに、彼らは全力で抗います。

 

 キリストはありえない変化と回復をもたらした。だから、ありえない信仰ももたらされる。私たちが、信じるはずのない私たちが、こうやって信じさせられてきたように。

 

 マタイによる福音書では、天使からイエス様の復活を聞いた女性たちが、恐れながらも喜んで走っていくと、イエス様が行く手に立っていました。

 

 女性たちは近寄ってイエス様の足を抱き、その前にひれ伏します。恐れと喜びの入り混じった再会に、イエス様は拍子抜けすることを言う。「おはよう」と……

 

 えっ? 今まで眠ってたんですか? 死んでたんですよね? 3日前に裏切られ、見捨てられ、殺されてしまったというのに、復活して出て来た言葉が「おはよう」ですか? 

 

 そうなんです。イエス様はもっと威厳のある、感動的な、すごい言葉じゃなくて。日常的に仲間たちへ挨拶する言葉を言いました。まるで、ありえなかった日常が帰って来たかのように。

 

 いえ、確かに帰ってきたんです。失われたと思っていた、イエス様との関係が。「おはよう」と挨拶する関係が。それどころか、非現実的な話ですが、イエス様は自分を見捨てて逃げていった弟子たちを「兄弟」と呼ぶようになりました。

 

 もはや、教師と弟子を超えた関係、私の兄弟……こんなこと、本当に言ったのか? 「言った」と、イエス様を見捨てた張本人たちが証言するようになります。誰も信じてくれないようなことを、恥をかきそうなことを、力強く訴える。

 

 あなたも、信じない者ではなく信じる者になりなさい。キリストの和解と平和、回復と変化を信じなさい。それが、あなたの現実となる……聖書は訴えかけています。今、あなたにも。